オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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PPフェア2002より昭和のパチンコ(1):宝くじ(久野義博、1948)

2021年08月08日 20時54分02秒 | 歴史

今を去ること19年前となる2002年の夏、幕張メッセで風営4号業界の展示会「パチンコ・パチスロ産業フェア以下、PPフェア)」が開かれました。この頃のワタシは既にパチンコ・パチスロには娯楽としての興味を失なっており、ほとんどやらなくなっていたのですが、縁あって招待券をいただいていたこともあり、行ってまいりました。

PPフェアは、パチンコ・パチスロメーカー各社と関連企業約180社が出展するという結構な規模で行われました。ワタシは新機種には関心が持てなかったので、展示されていた新機種の画像は殆どありませんが、会場に設けられていた「パチンコのルーツを探る」と「パチスロのルーツを求めて」と言うパネル展示にはおおいに興味をそそられ、その写真ばかり撮って帰りました。

ということで、拙ブログでは今回から何回かに分けて、そのPPフェアの展示をご紹介しながら昭和のパチンコ事情を振り返ってみたいと思います。その1回目に取り上げるのは、昭和23年(1948年)の「宝くじ」というパチンコ台です。

 

PPフェア2002にパネル展示されていたパチンコ機「宝くじ」の写真(上)とその解説(下)。出展社ブースの電飾看板が映り込んでいて見づらい。

解説では、宝くじの製造元は「正村商会/昭和23年~24年」としており、確かに台の左下には「正村商会」の銘板が取り付けられています。しかし、最後に「久野義博氏創案」としています。

これについて、今年の6月に法政大学出版局から刊行された「ものと人間の文化史186 パチンコ」(関連記事:法政大学出版局「ものと人間の文化史 186 パチンコ」のご紹介)では、

『宝くじ』を作った人は、正村ではなく、同じ名古屋の久野義博であり、久野自身は『昭和二三年』に製造したと証言している。『宝くじ』が作られた当時は、正村商会が他社の台を購入し、自社のネームプレートを貼っても、許されることであった」(P.32)

と説明しています。PPフェアの解説はこの点を、言葉足らずではあるもののとりあえずは言及しており、これはパチンコ業界の共通認識と理解してよいと思われます。

ところで。この「宝くじ」というパチンコ台は、1985年に刊行された「パチンコ台図鑑 THE PACHINKO」(リブロポート/百巣編集室編)の表紙にも登場しています。

「パチンコ台図鑑」の表紙。本文4~5ページにおいても同機の画像とその説明文が掲載されている。

「パチンコ台図鑑」の本文4ページでは、

■宝くじ■ 昭和21年から登場した『復興宝くじ』からヒントを得たこの機械は盤面上部に0・1・2・3の表示があり、入賞すると上の窓に旗が立つ。旗が4本揃うと、特別賞として50個の賞品玉が出る。盤面がブリキで出来ており、パチンコ台の重戦車と言いうイメージである。(昭和22年・正村商会)」(P.4)

と説明しており、こちらは「久野義博」には言及していません。また、年代も「昭和22年」と、PPショウの解説とも、ものと人間の文化史とも違う年を記述しています。この情報ソースはいったい何だったのでしょうか。

よくよく見ると、PPフェアで展示されていたパネル写真と、パチンコ台図鑑に掲載されている写真は、台に残る傷がほとんど一致しており、どうも同じ個体であるらしいことに気づきました。

左がPPフェアの展示、右がパチンコ台図鑑の写真。赤丸で囲んだ部分の傷がほとんど一致している。

しかし、PPフェアの写真には、台枠の左上部分と左下部分に、パチンコ台図鑑の写真にはない、少し大きな欠損があります。これには二つの可能性が考えられます。ひとつは、1985年に刊行されたパチンコ台図鑑の写真の方が先に撮影され、その後に欠損が生じてから2002年のPPフェアで展示する写真が撮影されたという可能性です。

もう一つは、逆にPPフェアで展示された写真の方が、パチンコ台図鑑の写真よりも先に撮影されたものである可能性です。と言うのは、パチンコ台図鑑の方は、欠けた部分に木材を継ぎ足して補修しているかのようにも見えるところがあり、また単に画像の色調のせいかもしれませんが、ニスを塗りなおしているようにも思えます。

欠損部分を拡大して比較。どちらも上がPPショウ(2002年)、下がパチンコ台図鑑(1985年)の写真

どちらの推測が正しいのかはわかりません。ただ、この「宝くじ」の台には、後年になって誰かの手が入れられていることは、別の意味で確実のようです。前述の「ものと人間の文化史 186 パチンコ」は、

「(パチンコ台図鑑の『宝くじ』に貼られている)このプレートは昭和二八年(一九五三)以降のものである」(P.31-32)

と指摘しています。昭和23年に作られた機械に昭和28年以降の銘板が取り付けられるとはおかしな話ですが、その経緯を、

1976年の日工組の遊技機会館竣工後、各メーカーが自社の歴史的パチンコ台を持ち寄ってパチンコ機の歴史を残そうとした際に、武内国栄(たけうち・くにしげ)日工組専務理事が、「宝くじ」が戦後すぐに正村商会が作ったかのように見せるために銘板を貼り付けたが、その銘板が年代の合わないものであったことには気づいていなかった」(要旨・P.34)

と説明して、「ねつ造」と言う強い言葉を使って糾弾しています。

武内国栄は、昭和27年(1952年)ころから正村商会で働いていたことがあり、昭和35年(1965年)にパチンコメーカーの業界団体である日工組(日本遊技機工業協同組合)が結成されたときに、名古屋の機械メーカーの代表として専務理事に就き、マスコミを相手に業界の宣伝などを行っていたとのことで、つまり業界のスポークスマンだったようです。

現在一般に流布している正村ゲージ伝説の骨子はその武内の発言が元ネタであるようで、これまでに刊行された複数のパチンコの歴史本もだいたいこれに従っています。ものと人間の文化史の著者である杉山さんは、ある歴史本の著者に訂正を求めましたが、「メーカーの業界団体である日工組の専務理事である武内の主張は業界の総意である」として、訂正も検討も拒否されたといういきさつを述べています(関連記事:パチンコ誕生博物館オープン(3) 最終回:歴史の証拠を残すにはどうすればいいのか)。

この辺の詳細は「ものと人間の文化史」をご参照いただくとして、パチンコの歴史を辿るのも一筋縄ではいかないことに、いまさらながら眩暈がしています。

ところで、PPフェアは、この回を最後に現在まで開催されていません。2006年にPPフェア2007の実施が発表されましたが、発表から開催までの期間が短か過ぎて準備が間に合わないとして、特に遊技機メーカーの参加が得られず、結局中止されてしまいました。AM業界は規模を縮小しつつも毎年定期的に展示会を行っているのと比較すると、パチンコ業界の結束力は案外弱いものなのかな、と思わされてしまいます。

(つづく)