君子哉若人、尚徳哉若人(憲問第十四の6)
君子なるかな、かくのごとき人、徳を尊ぶかな、かくのごとき人
いや~、この人は立派な人ですよ、と孔子が絶賛した。(ただし、直接ではなく、本人のいないところで)
弟子の南宮适が孔子に次のように聞いた。
「羿(ゲイ)は弓の名手でした。奡(ゴウ)は船を引っ張るほどの剛腕の持ち主でした。これらの方々は寿命をまっとうすることはできませんでした。(一方)禹や稷は、農耕に力を注ぎ国家を安定させました。(このような歴史解釈でよろしいのでしょうか?)」
孔子はそれに答えず、南宮适の退出後、上のように発言した。
このやりとり、いまいち合点がいきません。
南宮适にしてみれば、聞いたことに答えない(不答)先生をなんと理解すればいいのでしょうか?
あまりにも、まとをえた認識を発露する弟子に、孔子が嫉妬を覚えたのでしょうか?
弟子としては、あとから人づてにほめられるより、先生から直接声をかけてもらうほうがよほど励みになると思うのですが。
まあとにかく、この節については、よくわかりません。納得できません。
君子なるかな、かくのごとき人、徳を尊ぶかな、かくのごとき人
いや~、この人は立派な人ですよ、と孔子が絶賛した。(ただし、直接ではなく、本人のいないところで)
弟子の南宮适が孔子に次のように聞いた。
「羿(ゲイ)は弓の名手でした。奡(ゴウ)は船を引っ張るほどの剛腕の持ち主でした。これらの方々は寿命をまっとうすることはできませんでした。(一方)禹や稷は、農耕に力を注ぎ国家を安定させました。(このような歴史解釈でよろしいのでしょうか?)」
孔子はそれに答えず、南宮适の退出後、上のように発言した。
このやりとり、いまいち合点がいきません。
南宮适にしてみれば、聞いたことに答えない(不答)先生をなんと理解すればいいのでしょうか?
あまりにも、まとをえた認識を発露する弟子に、孔子が嫉妬を覚えたのでしょうか?
弟子としては、あとから人づてにほめられるより、先生から直接声をかけてもらうほうがよほど励みになると思うのですが。
まあとにかく、この節については、よくわかりません。納得できません。