水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

古今集(5)

2014-09-22 11:10:20 | 古今和歌集
巻第三「夏歌」のトップ

135 わがやどの池の藤なみさきにけり 山郭公(ヤマホトトギス)いつかきかなむ

題しらず

読人しらず
この歌ある人のいはく かきのもとのひとまろなり

藤なみ=藤の花房が風にゆられ、波のようにゆれるさま
さく=(波が)たつ

わがやの池の岸辺では、藤が(満開で)、風にゆらゆらゆれている。こういう季節になると、もうすぐヤマホトトギスが鳴きだしますよ


古今和歌集はその序文で、柿本人麻呂を山部赤人とともに、「歌の聖なりける」(仮名序)、「和歌仙也」(序(漢文))、と絶賛している。
人麻呂に対する古今和歌集の特別な思いは、漢文序の最後、次の文に、顕著に表れている。

嗟呼、人麿既没、和歌不在斯哉(ああ、人麿既に没し、和歌ここにあらずや)

これは、論語の「文王既没、文不在玆乎」(子罕第九の5)のもじりだそうだ。論語に書かれた意図をあてはめると、次のような解釈となる。

「人麿は亡くなったけれども、わたしたちにその精神は伝わっています。神様が和歌を滅ぼそうしたら、今わたしたちは和歌に携われなかったはずです。神様が和歌を滅ぼそうとしなかったのですから、誰かがじゃましようとしても、もうどうすることもできません」


なにも知らずに、古今和歌集を詠み始めたのだが、とんでもないモノに手を付けた、との思いだ。
序文を読むと、「古今和歌集は柿本人麻呂の名誉回復を目的として編纂された」との仮説をとなえたくなる。が、膨大な数の人々が研究してきたシロモノだけに、軽率な思考はつつしみたい。

とにかく、歌の表の意味だけではなく、その当時の、社会・政治・権力状況を踏まえたウラの意味も考えねばならぬ。

という風に考えると、上は、藤原氏(フジから連想される、特定の誰か)の隆盛とそのかげりのくることを詠んだ歌なのかもしれぬ。