うろ覚えライフ。

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最強遺伝子の祖

2009年02月01日 | 格闘技ログ

○グレイシー柔術の父・エリオ氏逝く…95歳

 

        グレイシー柔術の創始者、エリオ・グレイシー氏が29日、ブラジル・リオデジャネイロ郊外の病院で死去した。95歳だった。AP通信などが伝えたもので、死因は肺炎との報道もある。

 エリオ氏は講道館で柔道を学び、普及のために世界武者修行した前田光世から伝授された柔術を改良。他流試合用にアレンジしたグレイシー柔術を考案したとされる。1951年10月にリオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで柔道家の木村政彦と対戦。キムラロックで敗戦したものの、グレイシーの名前を世の中に知らしめた。

 その後は“400戦以上無敗”と呼ばれるヒクソンやPRIDEで桜庭と名勝負を繰り広げたホイスらを育てた。07年6月の米ロサンゼルスで行われた「Dynamite!!USA」ではホイスのセコンドに入るなど元気な姿を見せていた。

 

 

 95歳か。長生きだよなあ。最近はどうだか知らないが、90歳を越えてもなお、道着を着て道場に出てた、っていうからすごいよなあ。

 梶原一騎原作のスポコン劇画群で育った僕らは、「空手バカ一代」の完読で、世界で一番強い格闘技は「空手」だと信じ込んでいた。それが90年代初頭、完璧に覆された。僕らにはカルチャーショックそのものだった。日本のスポーツメディアは、武道・格闘技界の黒船来襲!と騒ぎ立てた。

 長老、エリオ・グレイシーを頂点とする、グレイシー柔術に、日本のプロレスラー、空手家、格闘家は、こぞって簡単に敗北させられた。僕らが最強!と信じて疑わなかった、日本の空手の、しかもチャンピオン級の猛者が、グレイシー一族の強者に、すぐに捕まれ足を取られ倒され、馬乗りになられ成す術もなく、いつの間にか、首を絞めて落とされるか腕を折れるまでに極められていた。

 歴史の不思議さ。何十年も昔の明治の終わり頃に、日本を発った、講道館創設の総帥、嘉納治五郎の直弟子、前田光世が世界中を、異種格闘技の武者修行を行う旅をして、たどり着いた果ての地、ブラジルにて現地人に教えた格闘術、前田光世の柔道が、ブラジル人一族、グレイシー家によって進化し、最強の武術となって、もうすぐ百年にも近づこうかという時を隔てて、日本に帰って来て、日本の格闘技者たちを苦しめた。

 最後の地、ブラジルに居着いて骨を埋めた、コンデコマ=前田光世はカルロス・グレイシーに自分の格闘術を教えた。カルロスは弟、エリオ・グレイシーに前田光世の柔術を仕込み、カルロス、エリオらグレイシー一族は、柔術を研鑽・研究、発展、進化させた。

 前田光世が伝えた柔道・柔術は、勿論、グレイシー一族以外にも継承者は居て、ブラジルで進化してブラジリアン柔術という、日本柔道とは違う独自の格闘術となった。そのブラジリアン柔術の中でもチャンピオンは、小柄なエリオ・グレイシーだった。前田光世が亡くなってからしばらくして、無敵チャンピオン、エリオ・グレイシーに挑戦した日本からやって来た高名な柔道家が居たが、死闘の末、エリオはこれを破った。

 そして、日本柔道雪辱のためにリベンジマッチに、史上最強の柔道家、木村政彦七段が、日本からやって来る。何百戦無敗の闘将、エリオ・グレイシーはこれも死闘の末、木村政彦には敗れた。

 エリオ・グレイシーは、日本でも有名な格闘技の世界的強者、ホイス・グレイシーやホイラー・グレイシー、400戦無敗・ヒクソン・グレイシーたちの師であり父親である。日本の武術や格闘スポーツの歴史に、深く関わりのある人物が95年の生涯を閉じた。

 格闘技ファンの僕はね、90年代初めから半ば頃は、柔術やサンボなどのサブミッション主体の格闘技を、習いに行きたくてしょうがなかったけど、その時代は勿論、地方には柔術系の寝技を教えるところは皆無に等しかった。現在は、日本でも、ブラジリアン柔術の道場はかなりの数に増えているらしいですね。

  

  

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