○行動で示すのが「パターン」=秋葉原殺傷事件で加藤被告-東京地裁
東京・秋葉原の無差別連続殺傷事件で殺人罪などに問われた元派遣社員加藤智大被告(27)の公判は、27日午後も東京地裁(村山浩昭裁判長)で続き、同被告は被告人質問で、不満があっても直接言わずに、行動で示すのが「パターンだった」と述べた。
加藤被告は、約束を守らない母親への当てつけに大学に進学しなかったことや、奨学金を父が使ってしまったために短大であえて整備士の資格を取らなかったことなど、行動で意思を伝えようとすることを「いつものパターン」と表現。卒業後も、職場で不満を感じるたびに突然いなくなるなどの行動を繰り返し、職を転々としていたと説明した。
事件のきっかけとなったとされるインターネットの掲示板については、ゲームの情報収集をきっかけに利用し始め、その後のめり込んでいったと説明。「わたしにとっての居場所であり、『一人じゃない』と感じられる。掲示板上の人間関係こそが大切で、それこそ家族同然だった」と述べた。
○秋葉原通り魔殺戮事件
○秋葉原通り魔殺傷事件
○アキバ無差別殺傷続報
TV報道で見て、加藤被告の言い分を聞いたが、最初にイメージとして思い出したのは、僕が小学校低学年のとき、まだ母親と一緒に風呂に入っていて、僕は小さい頃から理由なく根性のねじ曲がったところがあって、多分、このときも僕のワガママが通らず母親に腹を立てていたのであろう、すのこにペタリと座り込んで前に立った小さな僕を、石鹸を塗りつけたタオルで洗ってくれている母親に向かって、反抗的な僕は小便を掛けた。母親は一瞬怒りに顔色を変えたが、無言の知らぬ顔で洗い続けてくれた。
いや、僕は、加藤被告の残虐行為は、母親への復讐なのかな、と最初に思ったのだ。僕が小学校低学年の時に行った仕返し(嫌がらせ)と同じような、母親への仕返し、なのかな、と。僕の場合は身体を洗ってくれているのに小便を掛けたのだが、加藤被告の仕返し(嫌がらせ)は、「おまえが育てた息子はこんなことをしでかす大人に成長したぞ。ざまあみろ!」とでも言うように凶悪事件を起こして、母親の顔に小便を掛けるように恥をかかせた。無論、“恥”などでは済まない事態を起こしてしまったのだが、そこが加藤被告の「幼稚さ」かな、と。
加藤の精神はある意味、幼稚な子供のまま、なんじゃないのか、と僕は思った。
でもTV報道で解説される加藤の言い分、をよく聞くと、僕が最初にイメージして思った僕の勝手な推理に寄る思い込み、は違うかも知れない、違うみたいだな‥、という気がして考えを変えても見た。だが、加藤が未だ持つ「幼稚さ」は間違いないように思う。
「加藤の言い分」を聞いていて僕が重要な点だと思ったのは、加藤とは、人とコミュニュケーションを取るのがとても不得手で、従って親友など仲の良い友達の出来ない孤独な人間、なのだろうと感じたことだ。
要するにコミュニュケーション力が劣り、周囲の大勢の人間たちとうまく付き合っていけないのだ。「言い分」を聞いていると、その、コミュニューケーション力の無さ、は母親のせいだ、と言っているように思えた。子供の頃の母親の極端な教育・しつけ、が加藤のすんなり伸び伸び育つ筈だったコミュニュケーション能力の、成長・発達を阻害して芽を摘んでしまった、とでも言いたいように聞こえた。
で、成長して大人になった加藤は、コミュニュケーション能力の欠如で友達も、まともな人付き合いも出来ず、いつでも孤独だった、と。
僕の勝手な推理がだいぶ入っている意見だが、そうも決め付けられないのかも知れない。けれど、孤独な大人であったことは、多分、間違いないだろう。
現代社会は、加藤のような孤独な青年・大人は多いと思う。
加藤は誰かに、自分の腹の底からの話を聞いて欲しかったのではないか。それは、子供の頃からの母親との確執も含んだ、自分の生い立ちや、この世の中に対する自分の考えなどいろんなことを。自分の心の奥底にある事ごとまでも。
誰かに、何でもかんでも全部話すことで、心の奥底に溜まったどす黒い鉛の塊りみたいなもの、からも開放されたのではないか。誰かに聞いてもらえれば。
若者でも老人でも誰でもいい、誰か、親身になって何時間でも、加藤の話を聞いてくれる人。加藤という青年を決して馬鹿にせず一個の人間としてちゃんと認めて、頭ごなしに否定せずに、聞き役の考えを押し付けたりせずに、むやみに説教したりせずに、とにかく加藤の言い分を、話を時間を掛けて聞いてくれる人。
そういう人が誰でもいい誰か居たら、加藤は、あんな愚かな凶行には走らなかったのではないか、という気がしたのだが。
何をいい大人が、自分で何とかしろ、ガキじゃあるまいし甘えるな、という人は多いだろうが。この現代社会はみんが忙しい。誰もが自分のことで手一杯で、他人のことまで構ってはいられない。
でも世の中には優しい人もけっこう多いものだから、孤独な青年の話くらい、いくらでも聞いてやるよ、という人も居るだろう。でも接点が無いのだ。孤独な青年や大人は、自分の悩みや話を黙って聞いてくれる優しい人に、なかなか出会えない。
キリスト教社会だと牧師が話を聞いてくれるし、アメリカなど西欧先進社会にはカウンセラーのシステムが社会にある。職業として社会に組み込まれたカウンセラーのシステムを利用するには、いくばくかの料金は掛かるが、市民の誰もが気楽に気軽にイージーに掛かることが出来て、自分の話(言い分・悩み)を聞いてもらえる。日本だと、特別病気の症状がある訳でもないのに、カウンセラーに類似したものを利用しようとすると、もう精神病院に行かなければならない。日本の精神病院もしょせん対症療法で薬を出して終わる。
いや別にカウンセラーに掛からなくともいいのだ。誰かが親身になって話を聞いてやればいいのだ。
それはおまえの見当違いだ、おまえの考え方では、この類を見ない狂った凶悪事件の解釈の一端の、紐解く材料の欠片にもならないよ、と、ここまで僕の述べて来たことを否定する人も多いのかも知れないが、それでも、僕は、誰でもいい誰かが、あのおぞましい恐ろしい凶行を起こす前に、加藤被告の心の底からの話を、長時間、聞いてやる優しい人が存在していたら、加藤はあの事件を起こしていないという気がする。僕は、それは確信に近くそう、思うのだが。
ものごとは全部、自業自得だ。孤独で貧しい負け組は、自分で何とかしろ、負けた奴の悩みなんざ、社会が知るか、大人だろ。というのではあんまりだろ。
何か、この社会のシステムにそういうのって、組み込めないのか。派遣制度を何とかするとか最低賃金を底上げするとか、だけじゃなくて、物質的問題ばかりでなく心の問題。心って、別に精神病的なもんでなくて、ごく普通の心なんだけど。