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野坂昭如先生逝く‥

2015年12月16日 | ブックログ

○「反戦・平和」最後まで 作家・野坂昭如さん死去

 

   社会批判とユーモアに満ちた活動を続けてきた作家の野坂昭如さんが9日夜、85歳で亡くなった。不意の別れを惜しむ声が、各界からあがっている。

 関係者によると9日午後9時半ごろ、自宅で横になっていた野坂さんの意識がなくなっているのを家族が見つけ、救急車を呼んだ。病院に搬送したが、午後10時半ごろ、肺炎からくる心不全のため死去したことが確認されたという。

 編集者の矢崎泰久さん(82)は、野坂さんが雑誌「週刊金曜日」用に書いた原稿を7日に受け取ったばかりだったという。「突然の訃報(ふほう)に驚いた。昭和1ケタ生まれの作家として、最後まで反戦平和を唱え、子どもたちの飢えた顔を見たくないと、TPPにも反対していた。死に顔は信じられないくらい穏やかでした」と語った。

 美術家横尾忠則さんのもとには、雑誌の往復書簡企画のための手紙が、先週届いていた。眼前の危機に見て見ぬふりをしがちな今の日本社会を憂え、原発問題についても懸念する内容だったという。「野坂さんは60年代から一貫して貴重なメッセージを発信してきた。病床からこんな危機感を伝えなければならなかった今の日本とは何だろうかと思う」

 永六輔さんが出演するTBSラジオの番組「六輔七転八倒九十分」では、7日の放送で野坂さんからの手紙を紹介していた。日本が真珠湾を攻撃した12月8日が近付いていることにふれ、「日本がひとつの瀬戸際にさしかかっているような気がしてならない」と現代日本の針路を危ぶんでいた。

 野坂さんの厳しい社会批判の言葉の裏には、空襲体験や家族を失った悲しみに根ざした弱者への愛が常にあった。「戦争童話集」シリーズの絵を担当したイラストレーター、黒田征太郎さんは「『戦争童話集』には胸を突く言葉があふれている。戦争をテーマに人間のちっぽけさを語ることができる人」と惜しんだ。

 

○「野坂昭如、ノーリターン。合掌。」 五木寛之さん寄稿

 

  作家・五木寛之さん(83)は、長年の「共闘者」野坂昭如さんを惜しむ文章を朝日新聞に寄せた。

 いずれどちらかが先に逝くだろうと覚悟していたが、突然の訃報(ふほう)に呆然(ぼうぜん)としている。

 新人として登場した頃から、偽悪、偽善の両面を役割分担しつつ、微妙な距離感を保って50年あまりが過ぎている。

 彼が選挙に出たときには、応援演説もしたし、「四畳半襖の下張」事件では弁護側証人として法廷にも立った。また「対論」という型破りの本も一緒に作った。私生活ではお互いに意識的に離れながらも、時代に対しては共闘者として対してきたつもりである。

 ジャーナリズムの奔流の中で、くじけそうになるたびに、野坂昭如は頑張っているじゃないか、と自分をはげましたものだった。そんな意味では、恩人でもあり、仲間でもあった。大きな支えが失われたようで、淋(さび)しい。無頼派を演じつつも、傷つきやすい芸術家だったと思う。

 野坂昭如、ノーリターン。合掌。

 

○吉永小百合さん「非戦への思いを…」

 

  「焼け跡闇市派」を自任、本業の作家以外にも作詞や政治など多彩な活動で話題を集めた元参院議員の野坂昭如(のさか・あきゆき)さんが9日、心不全のため死去した。85歳だった。通夜・密葬は近親者で営む。本葬は19日午前11時、東京・青山葬儀所。喪主は妻暘子(ようこ)さん。

タレントで元参院議員・野末陳平さんの話

 私にメディアの世界のことを教えてくれたのは野坂さん。20、30代の頃は居候して、いつも一緒に仕事をしていた。「ワセダ中退・落第」コンビ名で漫才をし、全く受けなかったのは笑い話だが、彼は作詞家として売れても、人のやらないことをやってやろうと考えていた。普段は温厚で物静かだが、酒が入ると面白く大胆になる。世間の印象は後者だろうか。互いの病気もあって長く会っておらず、昔話がしたかった。

俳優・吉永小百合さんの話

 ご回復を待っていましたのにかなわず、残念です。野坂さんの飛び抜けた行動力と非戦への思いを、今しっかりと受け止めたいです。

長く交遊があった直木賞作家の長部日出雄さんの話

 黒眼鏡できまじめさを隠し、不幸だった人を語り伝える小説を書いた。「火垂るの墓」ほど銃後の不幸を描いた小説はない。日本の文学史に語り継がれる作品であり、野坂さんは戦後を代表する作家になった。広い分野で活躍されたが、私にとっては信頼できる小説家でした。ご本人は亡くなっても多くの作品が、日本人のなかに生き続けると思う。

作家、瀬戸内寂聴さんの話

 作家として非常にすばらしい才能があった人で、本当に惜しい方を亡くした。最近は体が弱ってきて書くことも大変だった様子。最近、雑誌上での私との往復書簡では、政府の動きを受け「日本が非常に怖いことになっている。心配してても病気で体力が無いと何もできない」などと書いていた。どんどん私より若い人が亡くなり本当にさみしい。

 

沈黙の奥のやさしさに 寂聴さん、野坂昭如さんを悼む

 

  野坂さん、あなたが亡くなったと朝から電話がひっきりなしに入り、新聞社という新聞社から、あなたの逝去を知らせてきました。野坂さんの生前の思い出はどうかという質問と、追悼文を書けという話ばかりでした。すべての電話に同じことを答え、しまいには自分が機械になったような気がしました。ようやく電話が来なくなった時は、一四時半になっていました。

  今日わかったのですが、あなたは八十五歳にもなっていたのですね。全くのおじいさんじゃありませんか。世の中では長命な方といわれましょう。野坂さんの随筆で、長命など望んだことがないとあったのを覚えています。私も全く望みませんでした。それなのにいつの間にか九十三歳にもなっています。昨年大病したのに、死に損なってまだ生きています。でも長生きしている自分をめでたいとか、幸せとか喜んだことは一度もありません。野坂さん、あなたもそうでしたね。

 たまたま、久しぶりで何気なく書棚からひっぱり出してあなたの「シャボン玉 日本」という本を読み返していたところだったのです。表紙に、黒めがねの、つやつやした肌のハンサムなあなたが大きく写っています。アラーキーのその写真は、何時のものかわかりませんが、御病気後のものでしょう。もしかしたら四年前、私がお宅へ伺った日のものかもしれません。

 あの日は、あなたからの初めてのお誘いで私が参上したのでした。タクシーの運転手が気が利かなくて、あなたのお宅のまわりで三十分も迷いました。とても寒い日でした。あなたがオーバーも着ず、玄関の外に出てずっと待っていて下さったのに驚きました。何てやさしい方なのだろうと思いました。三時間余り居た間、あなたは一言も喋(しゃべ)らず私一人が喋り通して疲れきりました。脳梗塞で倒れられて、ずっと療養中のあなたは、文は書かれるけれど、会話はまだ御不自由なのでしょうね。その日、困った編集者が、最後に、

「瀬戸内さんをどう思われますか?」

 と訊(き)いてくれた時、ゆっくりと、しかしはっきりと「や、さ、し、い」と答えて下さいましたね。どんなたくさんの対談よりも、その一言を何よりの慰めとして帰ったのでした。

 それから、たちまち四年が過ぎ、今度も突然、野坂さんから雑誌に往復書簡をのせようと話があり、私から先に書くことになりました。お返事は雄弁で、私のことを、いつでも体当たりで生きているのがいいと書いて下さいましたね。「シャボン玉 日本」を今、読めと、あなたがさし出してくれたような気がします。

 この中には、今の日本は戦前の空気そのままに帰ってゆく気配がすると、政治の不安さを強く弾劾していますね。今、この本を若い人たちに読んでほしいと、私に告げて、あなたはあちらへ旅だたれたのですね。長い間お疲れさまでした。私も早く呼んで下さい。私も何やらこの日本はうすら寒い気がしてなりません。

 

○「火垂るの墓」ゆかりの神戸、震災時に支援物資 同級生「もう一度飲みたかった…」

 

   「焼け跡闇市派」として戦争を見つめた視線は、幼少期を過ごした兵庫を襲った未曾有の災害にも向けられた。9日、85歳で死去した直木賞作家、野坂昭如さん。小説「火垂(ほた)るの墓」に神戸の風景を登場させて平和を語る一方、平成7年の阪神大震災では、舞台となった場所に支援物資を届けていた。

 自身の空襲体験を基に、空襲で両親を失い孤児となった幼い兄と妹を哀切に描き、アニメ映画も評判を呼んだ「火垂るの墓」。作中、空襲で焼け残った姿が登場する御影公会堂(神戸市東灘区)で食堂に勤める鈴木真紀子さん(52)は、阪神大震災後に訪れた野坂さんの姿が忘れられない。公会堂は大きな被害を受けなかったが、薬などを支援してくれたという。

 「風邪薬などの支援物資を届けてくれたことは、今でも感謝している」

 野坂さんが脳梗塞(のうこうそく)で倒れる十数年前まで、年に数回程度来店していたのを覚えており、「またお目にかかり、ゆっくりお話ししたかった」と目を伏せた。

 野坂さんは震災当時に神戸を訪れたことを7年2月の産経新聞紙上で書いた。

 《御影公会堂は、さほどでもなかったが、かなりの異臭が避難所にたちこめている。終戦後、駅構内に、人間が生きている以上、いかんともしがたく発する臭い、排泄(はいせつ)物も含め、染みついて、二、三年は残っていた。臭(にお)いの記憶は、強烈に刻まれるらしく、たちまち五十年前に立ち戻り、少し大袈裟(おおげさ)だが言葉を失った。

 昭和20年の神戸大空襲と震災を比べ、《地震による破壊は比較にならぬほど、無惨(むざん)である》とも書いた。

 野坂さんゆかりの兵庫では、突然の悲報に驚きと悲しみが広がった。

 火垂るの墓に登場する同市や兵庫県西宮市の戦跡を巡る「火垂るの墓を歩く会」。毎夏の計17回開いてきた同県尼崎市の公務員、辻川敦さん(55)は「戦争を伝える良い作品を残していただいた。できる限り活動を続け、野坂さんの思いを伝えたい」と話した。

 西宮回生病院(西宮市)も作品に登場する。現存建物は老朽化のため一部解体されるが、井上馨院長(59)は「新病院になっても野坂さんの平和への思いを引き継ぎたい」。

 神戸市の旧制中学で同級生だった洋画家、吉見敏治さん(84)=同市長田区=は「級長を務めて成績も優秀だった。約20年前にテレビの対談企画で再会する予定が、酒の飲み過ぎで体調を悪くしたようで会えず、空襲後は結局会えずじまい。戦争を生き抜いた同級生みんなで、もう一度飲みたかった」と語った。

 

戦争の本質を伝え続け 野坂昭如さん死去

 

   野坂昭如さんにとって戦争体験は、半世紀を超える創作・言論活動の原点だった。1945年6月、幼少時から住んでいた神戸の大空襲で養父が焼死し、養母が重体に。幼い妹を連れて、火炎に包まれた町から逃げ延びたものの、敗戦後1週間で妹を餓死させた。

 この痛切な体験を、直木賞を受賞した「火垂るの墓」や長編の傑作「一九四五・夏・神戸」に描いている。幼い妹を死なせながら、なお、飢えをしのいで自分は生き延びようとする。「人間がいかに愚かで、いったん事あれば、ガラリと変わり、人間が人間でなくなってしまう。そんな生きものであるということを身をもって知った」。昨年出したエッセー集「シャボン玉 日本」に書いたこの思いは、野坂文学を貫く不動の立脚点だった。

 エッセーやテレビ出演など多彩な活動を通じて、戦争の本質を語り続けた。戦後の日本を振り返り「すべては砂上の楼閣」と言い放った言葉は、戦争体験を忘れつつある日本人への忘れがたいメッセージである。

 

シャボン玉 日本 迷走の過ち、再び 単行本

アメリカひじき・火垂るの墓 (新潮文庫)

小さい潜水艦に恋をしたでかすぎるクジラの話 戦争童話集~忘れてはイケナイ物語り~ 単行本

騒動師たち―野坂昭如ルネサンス〈4〉 (岩波現代文庫) 文庫

野坂昭如リターンズ〈4〉一九四五・夏・神戸、東京十二契 単行本

幻の名盤解放歌集 絶唱!野坂昭如 マリリン・モンロー・ノー・リターン 野坂昭如 (アーティスト) 形式: CD

 

 「♪ジンジンジンジン血がジンジン‥」「♪バイバイベイビー‥」「♪男と女の間には~」「♪この世はもうじきお終いさ‥マリリンモンローノーリターン~」…。十代末頃、僕は野坂昭如さんのアルバムレコードを買って来て、毎日聴いて、野坂昭如さんの歌をイロイロ憶えた。初めて野坂昭如の歌を聞いたのはTV番組の中で、僕はまだ高三だった。その後、会社の歓送迎会とか忘年会の酒席で、僕は酔いに任せてよく、野坂昭如の卑猥な歌詞の歌を、威勢良く歌った。よく歌ってウケていたのは、「♪ぼんぼの唄」だった。野坂さんの歌で好きだったのはやっぱり、「♪マリリンモンローノーリターン」だったかな。まだ、カラオケが普及する前の時代、僕はよく酒場で、無伴奏手拍子やクラブのピアノ演奏だけで、「黒の舟歌」を歌った。「黒の舟歌」も僕の好きな歌で、加藤登紀子さんのカバー版も好きだった。

 ♪マリリンモンローノーリターンの曲は「♪この世はもうじきお終いさ‥」で始まるが、あの当時、僕は野坂昭如の説く終末思想にかなり影響されていた。18歳になってたと思うが、調度その頃、大江健三郎のエッセイ集を読んで、その中で、大江健三郎さんの友人の話が書いてあって、この、件の友人が、核戦争に寄る終末ノイローゼで、日々、いつ核爆弾が頭上から降って来るかと怯えながら生きている、ということだった。実際、“ダモクレスの剣”みたいなイメージの症状かな。大江さんのエッセイには、随所に核と人類滅亡のことが強調して書かれていた。と思う。野坂昭如さんは、僕が高三の終わり頃か、もうちょっとその後だったか、その頃、「終末から」という定期刊行雑誌も出していて、責任編集に就いていた。僕が高二高三時代に読んだ、野坂昭如さんの小説にも、短編長編、“死”を扱った作品が多かった。

※(後で調べたんだけど、「終末から」という雑誌は、1973年に筑摩書房から創刊された隔月刊雑誌で、あんまり流行らず、僅か9号で廃刊になったらしい。75年にはなくなったらしいですね。それと、野坂昭如責任編集は僕の記憶違いで、野坂昭如さんは主要な執筆陣の一人だったようですね。僕は創刊頃に二冊くらい買っただけですね。読んでるだろうけど、あんまり面白くなかったのか、続けて購読はしてませんね。)

 十代末から20代の前半、23、4歳頃までの僕は、終末思想に取り憑かれていた。「どうせ先では核戦争で人間はみんな滅ぶんじゃないか」。本気でそう思い込んでいた。それが5年先か10年先か20年先になるか解らないが、きっと世界的な核戦争が起こって人間は滅亡する、とそう信じていた。また、20代前半には、PK・ディックのSFも読んでるし。ディックさんのSFには、世界的な核戦争が起きた後、荒廃してしまった地球上が舞台のお話も多い。だから、僕は一方で、どうせ人間は先で滅ぶ、今の文明も跡形も無くなる、と思い込んでて、虚無的な思いに支配されてた。でも、ニヒリズムだけじゃ生きて行けないから、勿論、それなりに希望も抱いて生きていたけど、心の奥には「どうせ人類は滅ぶ」みたいな、諦念的な虚無感が横たわっていたように思う。

 20代も半ば頃になると、僕も終末思想からは解放されてたけどね。18歳頃から取り憑かれた終末思想だったけど、いつまで経っても核戦争は起こりそうにもないし、実際、毎日ニュース聞いてても、キューバ危機みたいな時局も来なかったし、何かその内、気分も緩くなって“終末”も忘れて来て、どうでも良くなって、終末感はなくなって来た。だから、僕も20代後半はあんまり、「人類滅亡」とか考えなくなってたよね。でも何となく、虚無的な感じは持ち続けてたかな。

 実際、冷戦時代は、アメリカを代表とする西側とソビエトを代表とする東側、合わせて何万発という核爆弾が地球上に存在した。勿論、当時よりも数はぐんと減ったろうが、今現在も核爆弾は、地球の生物を何回も絶滅できるほどの核が、地球上にある訳だけど。冷戦時代、そりゃあ、両サイドとも核の管理は厳重だったろうが、何かの拍子にICBMで仮想敵圏の都市に向けて、核爆弾を撃たないとも限らない。すると、やられた側はやり返す。全面全滅戦争だ。アメリカとソビエトでICBM何発も応酬すれば、NATOともワルシャワ条約機構とも関係しない国々も、やがて地球全上空を回る放射能で壊滅的打撃を受け、その後、地球上のほとんどの生物は死滅するだろう。若い頃、僕はこれはね、けっこう信じてたんですよね。両サイドが明らかな戦術核として数を競って保有してても、何かの間違いでつい、一発撃ってしまった、ということだって起こりうるだろう‥、って。そこから報復の核の応酬が起きて、やがて人類は滅亡する、と。だから、当時の僕は「どうせ人類は滅ぶ」、みたいに漠然と思ってた。

 僕が高校を卒業して社会に出た70年代って、野坂昭如さんやメディアを代表する当時の知識人で、「終末論」を語る人ってけっこう多かったし、小松左京の「日本沈没」は大ベストセラーになったし、同じく小松左京の「復活の日」も小説も売れたけど、映像化された角川映画もヒットした。73年には「ノストラダムスの大予言」が刊行されて、これも大ベストセラー本になった。「ノストラダムスの大予言」は、けっこう長くブームでしたよね。僕自身はこの本には特に影響されなかったけど。あの時代は何か、流行みたいに「終末思想」の雰囲気が漂ってましたよね。

 高二の春に転向して来たクラスメイトが貸してくれた、松本清張と五木寛之の文庫本がきっかけで、僕は当時の流行小説の虜になった。16、17、18歳の高校三年間、僕は毎夜、当時の流行小説を読み耽って過ごした(高一の一年間は本読まなかったから、実質、高二高三の二年間)。松本清張、五木寛之、遠藤周作、井上ひさし、野坂昭如‥。柴田錬三郎なんかも読んでたな。あと、純文学分野になるけど、庄司薫や柴田翔とか。吉行淳之介もけっこう読んだな。読んでいたのはほとんど当時の流行小説で、こういう本は学校の図書館には置いてないから、当時は学校の昼食を抜いて、昼飯代を貯めて本屋で買って来て夜中に読んでた。市立図書館に行けば当時の流行小説だってあったんだろうが、馬鹿な高校生だった僕は気が付かなかったのか、公共の市立図書館利用の選択肢は、当時はなかったな。

 松本清張、五木寛之から、次に僕が熱中した作家が野坂昭如だった。16歳で読書を覚えてから、10代末まで僕が一番影響を受けた作家が、野坂昭如だった。作家というより、一番影響を受けた人間かも知れない。松本清張の社会派推理小説はメチャ面白く、五木寛之の小説はカッコ良くて憧れ、野坂昭如にはもっと深いところで影響を受けた。野坂さんの小説は面白くて笑えるのだが、もっとブラックで毒があり、虚飾を剥いだ人間の滑稽さや物悲しさがあった。笑える情けなさ。泣き笑いしてしまうような情けなさ、滑稽さ。野坂さんの書く小説は「深い」と思った。少なくとも、カッコ良くって憧れた五木寛之の小説よりも深いな、と感じた。勿論、早い内から「アメリカひじき・ホタルの墓」も読んだし、「騒動師たち」や「とむらい師たち」は笑えて面白く、後から毒に気付く。僕は五木寛之の数多くの短編作品も大好きだったが、野坂昭如の短編も好きで面白く、短編集もいっぱい読んだ。「骨餓身峠死人葛」「受胎旅行」「死の器」などなどの短編集。この当時読んだ記事で、野坂昭如さんの作品が英語翻訳されてアメリカで刊行されるということで、アメリカでは「サルトルに迫る‥」というキャッチーで発売される、という話だった。野坂文学には、題材に死や性を扱ったり、人間の虚飾を剥ぎ取って、生身の人間そのものを見せる作風の小説が多かった。人間の滑稽さ、愚かさ、情けなさ、悲しさ。

 頭の悪い少年だった僕だが、当時は、僕は文学的には、五木寛之の作品よりも、野坂文学の方を上位に見ていたように思う。当時は、五木寛之のエッセイ集なんかもいっぱい読みましたけどね。五木寛之と野坂昭如の対談本とか、シビレル感じで読んでた。当時は両流行作家とも大ファンだったから。

  四畳半襖の下張り掲載に寄る猥褻事案裁判、圧倒的強さを誇る元総理地元新潟3区での田中角栄対敵立候補と、野坂昭如さんは一貫して、強大な権力と戦う姿勢で居た人でした。反権力の人で、バンカラな面とユーモラスで紳士然とした面を併せ持ち、テレ屋で偽悪の人だが、内に秘める正義感の強い人だった。大酒呑みだが、ラグビーやキックボクシングのようなハードなスポーツを頑張る姿も、カッコ良かった。

 野坂昭如さんの小説も面白かったが、僕は、当時、中央公論社から発刊されてたハードカバーのエッセイ集本に魅せられていて、確か全6巻で、「日本土人の思想」「風狂の思想」「卑怯者の思想」などと全部、「‥の思想」というタイトルが着いていた。この思想シリーズの野坂昭如さんのエッセイ集は当時大好きで、大袈裟な言い方かも知れないが、言わばバイブルみたいに当時は、僕のフェバリットな本だった。「騒動師たち」や「とむらい師たち」などの長編、「死の器」などの短編集など野坂昭如の小説群にも影響を受けたが、野坂昭如のエッセイ集にはもっと影響を受けたように思う(このエッセイ集本に関しては当時は印象に残るところを何度も読み返してるんじゃないかな。何十年も昔のことでよくは憶えてないけど)。

 でも、僕が野坂昭如さんの著作物を読んでいたのって、17歳から19歳の終わり頃か、多分、20歳になったばかりの頃までだと思う。自分自身では、野坂昭如的な考え方や思想から卒業した感じだったのかな。僕は基本、一度読んだ本は再読はして来なかったので、野坂昭如さんの著作も、ハイティーンの頃、かなりいっぱい読んでるけど、一冊も再読してないので、野坂昭如さんの作品も今となっては、小説もエッセイ集も内容はほとんど憶えてない。まあ、漠然とだいたいの感じは覚えてはいるけど、小説はストーリーさえ忘れきってる作品も多い。タイトルだけ思い出したが、「真夜中のマリア」なんて、どんな話だったかもすっかり忘れてる。確かに読んではいるんだけど。また、野坂昭如の処女作「エロ事師たち」は、十代末、文庫本で買って来てるけど、途中まで読んで本が何処か行って、そのまま完読はしていない。僕が野坂昭如に熱中していたのは、だいたい20歳頃までだ。20歳を過ぎて、何か、熱が冷めちゃったな。

 野坂昭如さんは1974年7月、参議院選挙に立候補して落選したが、僕はこの時、この選挙運動中の野坂さんが、7月のある日、渋谷の駅前で、選挙カーの屋根に立って立候補演説をしているのを偶然見掛けて、生の野坂昭如を初めて見ることができて感激したのを、今でもはっきりと記憶している。独身寮の友人何人かと、東京の繁華街をウロウロ散策しているところだった僕は、街中の雑踏で、超“憧れの人”野坂昭如を発見し、もっと見ていたかったし話も聴いていたかったのだが、一緒に歩いていた連れの友達たちが誰一人、興味も関心も示さなくてみんな素通りして行くので、僕は仲間に合わせて仕様が無く、友達に着いて渋谷駅前を立ち去った。あの当時の僕の周りで本を読んでる人間ったら、勤務場所の上司のSさん一人くらいのもんだったし。僕もその時、仲間を離れて別行動取れば良かったけど、僕の性格から友達に気を遣い、仲間に着いて行った。こういうトコ、僕は弱いんだよね。

 20歳を過ぎた僕は、野坂昭如に対しての関心もかなり薄くなり、20歳からは五木寛之も野坂昭如も読まなくなった。それから、熱中していた頃の小説もエッセイも再読していない。20代前半はSFに嵌まっていて、小松左京や筒井康隆や他の、当時の日本の若手SF作家の小説ばかりを読んでいた。20代後半は都筑道夫などのミステリ小説を読んでたな。引き続きSFも読んでたけど。再読といえば、30歳になって東京から帰郷して来て、自宅に残ってた高校生の頃読んだ五木寛之の短編集が懐かしく、その時だけ、二、三冊、五木寛之を読み返した。後はどんな小説もほとんど再読はしていない。野坂さんの本も読み返した本はないな。

 それから、10代末から20代前半、取り憑かれて陥ってた、大国間の核爆弾の撃ち合いの最終戦争に寄る、全地球規模被害からの人類滅亡イメージ、だけど、思わぬところでこれが晴れることとなった。僕の20代後半になっても、現実的には核戦争の恐怖が去ってしまっていた訳でもないのだが、僕自身、歳を取るごとに“核”に対してのイメージは鈍感になっていた。20代後半には僕も、もうそんなことは普通に気にしなくなっていた。そんなとき、アメリカからニュースが飛び込んで来た。1983年、当時のアメリカ大統領、ロナルド・レーガンの提唱した「スターウォーズ計画」だ。僕はこのニュースを聞いて感激して涙した。地球は救われるんだ、と。

 スターウォーズ計画とは、地球上空軌道上の宇宙空間に浮かぶ、軍事衛星から、敵国から発射された大陸間弾道弾をレーザー照射で撃ち落とす、という、成層圏以上の上空・宇宙空間での軍事攻撃による、対ミサイル兵器防御システムだ。当時、僕は嬉々として喜んだ。 大国どおし、お互いに核爆弾ICBMを撃っても宇宙空間で爆破することができ、地上での被害は受けなくて済む。放射能も宇宙空間に飛散するから、地上にはたいして害はない筈だ。僕はそう考え、これで人類は核戦争に寄って滅ばずに済む、とそう思って、本気で芯から喜んだ。僕がもっと若かった頃、まるで病気に掛かっていたように陥ってた、いわば、核ノイローゼ症状から僕は、全面的に解放された。

 この感激の喜びを誰かに伝えたいと僕は、その当時仲良しだったOSさんと、OSさんの住まいのアパートの近くのスナックで、お互いしこたま飲みながら、このスターウォーズ計画に寄る核戦争の回避に着いて熱く語った。回避というか、敵同士お互い撃ち合っても、宇宙空間迎撃でお互いの核攻撃が無効になる、という話だが。僕が酔いに任せて、熱くこの感動を語ると、OSさんと日大の先輩になるというスナックの中年マスターは、二人して、真っ向から僕の喜びを否定して、馬鹿みたいにだだっ広い宇宙空間でもの凄い高速で飛ぶ大陸間弾道弾を、軌道上宇宙空間に浮かぶ軍事衛星のレーザー照射で、ピンポイント撃墜なんてできるもんか、という反論だった。言われてみればそうカモな、とも思うけど、この時は僕も自分の信じる、信じたいスターウォーズ計画を肯定して主張し続け、二対一でけんけんがくがく論争してた。他に客の居ない店内で、マスター以外にもう一人居る、雇われママらしい熟年オバサンが僕らに向かって、「あんたたちは飲み過ぎで酔っ払ってるね‥」とかって呆れてた。これもよく憶えてる懐かしい、昔の一場面だな。

 僕が小学生・中学生時代に影響を受けた漫画家やTVタレント、映画俳優、お笑いの人などの有名人たちは、悲しいかな、もうほとんどの人が現世を退場してしまった。僕は中学生時代まで漫画漬け生活で、本はほとんど読まなかったが、高二から熱中し始めた流行小説の世界では、影響を受けた遠藤周作氏はもう早くに亡くなってるし、ついに野坂昭如先生までも他界された。野坂昭如さん85歳。思えば僕も歳を喰ったものだと思う。自分が少年時代、青春時代に慣れ親しんだり熱中したり影響を受けたりしたものの、作り手、送り手の人々がもうあらかたこの世を去ったという事実を考えると、ただ寂しいばかりだ。何て言うか、空虚感。そんなものか、っていう感じかな。あっけないような。人は必ず死に行く。寂しいものだ。 

 

 

コメント

妖怪の王様・水木しげる先生、逝く

2015年12月02日 | ブックログ

○水木しげるさん死去:悼む声、各界から

 

  ◇同志であり戦友 敗戦後、中国からの引き揚げで苦労した漫画家のちばてつやさんの話

水木さんとは、年はひとまわり以上違うものの、70年以上前、同じように戦争で死線をさまよい合った。その後の漫画週刊誌の黎明(れいめい)期から今日まで、共に締め切りと闘ってきた「同志」であり「戦友」であり、我々漫画家たちの優しい「お兄さん」でした。訃報を聞き、今は言葉にできないほど悲しくて、寂しいの一言です。

 ◇戦争悲しく描写 哲学者で国際日本文化研究センター顧問の梅原猛さんの話

一度対談しただけだったが、印象的だったのは「自分の漫画は梅原さんが研究した神話からこぼれ落ちた妖怪たちを描いたもの」と言っていたこと。戦場では、辛うじて生き残ったと聞いた。戦争をあのように描いた悲しい漫画はない。戦後を代表する芸術家だった。

 ◇気取らず純粋な人 初代鬼太郎役の声優、野沢雅子さんの話

テレビアニメのシリーズで、初めて主役を務めたのが「ゲゲゲの鬼太郎」でした。声優としてここまでやってこられたのも鬼太郎との出会いがあったからこそ。先生は気取らず、生まれっぱなしのような純粋な人でした。いろんなところに行くのが好きでしたから、今もきっと旅に出られたんだろうなと思っています。そちらでも旅をしながら作品を書いてくださいね。

 ◇不条理をユーモアに 吉村和真・京都精華大副学長(思想史・マンガ研究)の話

 戦争の実体験を基に、余人に代え難い作品を残した。救いのない戦争や、人間とは異質の妖怪の描写が際立っているが、不条理を「そんなものだ」と引き受けたうえで、明るいユーモアがある。そこには当たり前の日常の幸せを実感させる大きな思想があり、戦後を生きる人にとって救いになった。

 ◇偉大な指標失った 小説家で、妖怪研究家としても知られる京極夏彦さんの話

 唯一無二の偉大な指標を失い、言葉もありません。水木しげる大先生(おおせんせい)の遺志を継ぎ、弟子筋一同「妖怪」推進に励むことを誓うとしか、今は申し上げられません。ご冥福をお祈りいたします。

 ◇雰囲気憧れでした NHKの連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」で、水木さんをモデルにした漫画家役を演じた俳優の向井理さんの話

 初めてお会いしたのは撮影の数日前でした。作品の中では、私はしげるさんの背中を追いかけるのが精いっぱいでしたが、多くのものを感じ、影響を受けました。もうあの時のようにお会いすることができないという現実を受け止めるのには時間がかかりそうですが、どこかで見守っていただければうれしい限りです。「女房」である布枝さんにもお会いできたのは私の財産です。お二人の醸し出す雰囲気が大好きでした。憧れでした。

 ◇天国で漫画描いて欲しい 同テレビ小説でヒロインを演じた女優の松下奈緒さんの話

 突然の訃報に深い悲しみでいっぱいです。撮影が始まる前に、初めて水木先生と奥様にお会いさせていただきました。本当になんてすてきなご夫婦なんだろうと思ったことを今でも覚えています。天国でも大好きな漫画を描き続けていただきたいです。ご冥福をお祈り致します。

 

○家族も僕もファンもみんな水木作品 京極夏彦さん追悼文

 

  ■水木しげるさんを悼む 小説家・京極夏彦

 いつも、必ずどこかにいる。いちいち確認しなくても、ずっといる。いることがわかっているから、安心できる。僕にとって水木しげるさんは、そういう人でした。僕が生(うま)れた時、もう水木漫画はありました。その後ずっとあって、今もある。物心つく前から水木作品にふれて、水木作品と共に育ち、水木作品と共に老いて、今の僕はあります。

 九十三歳、画業は六十年以上。その長きに亘(わた)り、常に第一線に立ってひたすら娯楽を生み出し続けてきた水木さんの功績は、いまさらくり返すまでもないでしょう。それは僕たちの血となり肉となり、そして日本文化の一側面を築き上げたといっても過言ではありません。日本文化の持つ創造性や特異性を「妖怪」という形で結実させ、再発見させてくれたのは、誰あらん水木さんその人でした。

 水木さんには左腕がありませんでした。戦争という抗(あらが)いがたい魔物が水木さんに消えない傷を刻みつけたのです。その残酷な目に見える現実世界と、妖怪という目に見えない精神世界との間を自在に往還し、水木さんは「生きることは愉(たの)しいし、生きているというだけで喜ばしいのだから、もっと喜べ」と、作品を通じ、また身をもって教えてくれました。

 一介の熱心なファンだった僕は、そのうちひょんなことから水木さんと知り合う機会に恵まれ、やがて一緒にお仕事をさせていただくことになりました。ご一緒する機会も多かったのですが、同じ場所にいるだけで「意味もなく幸せな気分になれる人」というのは、そういるものではありません。水木さんはそういう人でした。

 

○水木しげる漫画があったから、この世界に「自分がいてもいいかもしれない」と思えた

 

   水木しげるさんが亡くなった。たくさん「死」や「死後のこと」について描かれた方なので、「ご冥福をお祈りします」でいいのか、ちょっと分からない。とにかく、「ありがとうございました」という気持ちだ。

かなり色々なものを、こんなにたくさん作って残した。未来の人にも読まていくだろう。

人間が死んでも、その人が作ったものが残ってくれて、本当にありがたい。残ってくれなかったら本当にやばい。歴史を変えた発明とか法律だけじゃなくて、漫画だってそうだ。水木漫画なんて、とくに僕はそう思う。

水木しげるは手塚治虫みたいな「漫画のスーパーエリート」って印象が薄い。戦争や貧乏で苦労しまくったイメージが強くて、絵も独特だから、なんとなく「王道じゃなくてもいいんだ」という勇気がもらえる感じがある。「本当はどうか」は別にして。

鬼太郎も悪魔くんも、スーパーヒーローって感じじゃない。薄汚れてたり、お小遣いも少ない(たぶん)。いじめられたり弱さを持った悪魔くんの仲間たちが集まる「見えない学校」も、フリースクールみたいな雰囲気を僕は感じてた。なんかそういう「僕だって!」感が良い。

そんな水木漫画のおかげで「変わった漫画」を作る道に進んだ人も多いと思う。たとえば、勧善懲悪も感動スポーツも、刺激的恋愛とかもないような漫画。そういう漫画を描く人にとっては、「世の中に多様性があって、変わった場所からでもうまくいった先生がいる」って、本当に心強い。

もちろん「鬼太郎みたいな大ヒット作品が作れる可能性が自分にも!」ってことじゃない。「変なもの」って、その存在を認めてもらえないと、ただ作ってるだけでも心が削れる。だから水木漫画みたいなのはすごく心強くて、「自分がいてもいいかもしれない」「自分の好きなものを好きなままで大丈夫だ」って思える。僕も、心の支柱のうち一本は水木漫画だ。

兵庫県の神戸市に、水木通りっていう場所があって、水木しげるの「水木」の由来だ。僕は25ぐらいの頃、その通りのアパート1つ裏、中道通りっていうところに住んでた。彼がここに住んでいたのも僕と同じ頃だった。

だから自然と、頻繁に水木しげるの人生を思い浮かべたりしていた。彼は戦争で腕を失って日本に戻って、画家を諦めたり、紙芝居や貸本で食べられなくなって漫画に至った。ままならないことばかりだけど無鉄砲なわけでもないし、彼の人生はとても参考になった。

「マイペース」という彼の有名なイメージについてもよく考えてた。

 彼のマイペースは、「頑固」「執念」、強く自分を持って「嫌なものは嫌だ」と突っぱねる精神と一式な気がする。僕も自分でいるために、「自分らしくないもの」を避けたり、「自分を脅かすもの」から逃げたりするのは大事だなと思う。そう思うことは、今でも多い。

思うことはたくさんあるけど、とにかくまず第一に、今は「ありがとうございました、これからも作品にお世話になると思います」という気持ちだ。

水木作品は、いろんな出版社から様々なまとめ方をされてて僕は混乱することもあるけど、もし自伝的なものなら『完全版 水木しげる伝』が僕のおすすめだ。講談社から文庫で出ていて、ほどよい長さで、入手もしやすいと思う。

 

○【追悼】妖怪の世界を描き続けた「水木しげる」さんの魅力について / “水木力” あふれる名言3選

 

  突然の訃報に日本全国民が言葉を失った……2015年11月30日、心不全のため漫画家・水木しげるさんが亡くなったのだ。93歳という高齢であったが、いつまでも生き続けてくださることを信じて疑わなかったのは記者だけではなかろう。

この世ならざるモノに大きな関心を寄せ、次々とカタチにしてきた水木さん。きっと今頃、あちらの世界でも「フハッ!!」と鼻息荒く、興味津々で楽しんでいらっしゃるに違いない。残された私たちにできることは、そんな水木さんの思いをつないでいくこと。水木さんの魅力を振り返ってみよう。

・最高傑作は “水木しげる” さんご本人

生涯現役を貫いた漫画家・水木しげるさん。『ゲゲゲの鬼太郎』『悪魔くん』など、数々の名作を世に出してきたことは誰もが知るところ。亡くなる半年ほど前の2015年5月まで、ビッグコミックで『わたしの日々』を連載していた。 

曲がりなりにも “妖怪文化研究家” を名乗っている記者は、直接言葉を交わしたことはないが何度かそのお姿を拝見し、お話を拝聴したことがある。そのたびに話の内容はもちろん、水木さんそのものからあふれ出す魅力がハンパないと感じた。

あんな93歳はほかにいない。作品はもちろん、何よりも “水木しげる” さんご本人が一番の傑作だと断言できるほどだ。水木さんが幸せになるための知恵を説いた『幸せになるための七カ条』は有名だが、それ以外にも数々の名言を残しているので紹介したい。

・ “水木力” が感じられる言葉3選

その1:餓死です、そういう連中を待ってるのは。私はそういうヤツには「死にたければやれ」と言うんです。「死んでもいいです」と言ったところから、出発するんです

軽い気持ちでマンガ家を志望する人について聞かれた時の水木さんの言葉だ。戦争を含め、数々の難局を乗り越えて来たからこそ言えるセリフ。ひょうひょうとした様が印象深い水木さんだが、その実、かなりガッツのある方でもあった。私たちも、少々のことで文句を言ったり投げ出したりしてはいけないと、気を引き締めさせられる一言だ。

その2:戦記物をかくと、わけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない。たぶん戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う

戦争を体験し、戦場で左腕をなくし、激動の時代を “絵を描き続ける” ことで生き抜いた水木さん。あまり積極的に戦争体験を話すことはなかったようだが、私たちが想像し得ないほどの苦しい状況を、かいくぐって生きてきたことは確か。心の内に秘めた思いが垣間見える貴重な一言。

その3:人生はあんた、面白くなりかけたころに寿命がくるんです。秘密がわかりかけたころに。神様がわからないようにしてるんだ。

いつだったか、水木さんがテレビの取材で「人生は90歳からが面白い」というお話をされていたと記憶している。些細なことに囚われなくなるから、といった内容だったはずだが、93歳で亡くなったのも水木さんが人生を楽しみ始めていたからか。そうであったらイイなと思う一言だ。

以上、名言を3つ紹介したが、ここでは語りつくせないほど数々の偉業を成し遂げていることは周知の通り。とにかくユニークでお茶目で、とても賢い人だった。間接的にしか存じ上げない記者でも、人間力というか「水木力」が全身から放たれている、魅力的な人だということを知っている。

是非とも、一人でも多くの人に水木さんの作品を読んでもらいたい。そして水木さんの魅力に触れ、彼の遺したものを次の世代へつなげていってほしい。水木さんが、あの世で楽しんでいらっしゃることを願いながら。今までお疲れさまでした。そしてまた、そちらの世界でお会いできることを楽しみにしています。

 

 

 ああ、ついに水木しげる先生も逝ってしまわれた。世間では、水木しげる先生は妖怪の世界へと戻ったのだ、という声も大きいけど、やっぱり先生は現世を退場してしまって、もうこの世には居ない。寂しいですね。

 このブログでも他のブログでも何度も書いてるけど、僕の子供時代、僕に取っては紙の漫画が一番で、つまり印刷された紙面の漫画作品が、もうとにかく、まだこの世に生を受けて何年か、せいぜい十年くらいでも、とにかく紙に印刷された漫画がこの世で一番のもので、とにかく人生一番は漫画というか、絶対漫画という子供時代だった。その次がTV番組で、次が何だろう?家族か友達か。僕は、学校は小学一年から大嫌いだった。

 小学生で漫画が命、みたいな思いで生きてて、学校は嫌いだし、行きたくないけど母親に怒られるから仕様が無いから行ってただけで、担任教師に対しても、今から考えても、正直、そんな「恩師」ってほどの思いもない。全部の学校時代、忘れられない印象に残り続ける先生、とか、ごめんなさい、正直な話、一人も持ってはいない。勿論、いろんな先生、憶えてはいるけれど。学校では授業時間はいつでも、ずーっと、ボーッとして過ごしてた。落書きか窓の外を見てるか、空想・妄想に耽ってるか。だから学業成績もひどいものでした。

 そんな、漫画にどっぷり浸かった、身も心も漫画の子供時代、毎日毎日、熱中して読んでた漫画は、僕の第一番目の教科書でした。その次の教科書がTV番組。次が映画。次が家族と家に来るお客さんとか親父や母親の友達・知人、そして学校の友達。そこから、う~んと離れて教科書。いや、学校の教科書は面白くなかったなあ。宿題しないから、家で開くのも嫌だったし。

 だから、毎日毎日、夢中になって読んでる漫画作品を描いている、漫画家の先生こそ、小学生の僕に取っては学校の先生そのものだった。中学でも同じようなもの。水木しげる先生は、子供時代の僕が非常に良く親しんだ先生だ。勿論、水木先生にお会いしたことなぞ一度もないけど、水木先生は僕に取っての恩師の一人だ。

 いつ頃だったっけ、2000年頃だろうか(?)。水木先生がTV番組の「波乱万丈」に出演されて、もう80歳くらいにはなられていたのかな、それほどはTVを見ない生活をしていた僕が、何十年ぶりかで、いや、実際、動画で水木しげるを見たのは初めてだったのかも知れない、お歳を召されても元気な水木先生の姿をTVで見て、どういう訳か、つうーっと涙が頬を伝った。それまで、少年マガジンの写真でしか見たことない先生を、お顔を何十年ぶりかで見て、僕は泣いた。後から考えるに、あれは、それこそ何十年ぶりかで恩師に会った涙だったのだ、と思った。

 水木しげる先生は、子供時代の僕に、怪奇と幻想とか異世界とか、イマジネーションを膨らませるものを教えてくれたけど、同時に何か、別の価値も教えてくれたように思う。それは、“生物多様性”と似たような価値観だろうか。この世界にはどんな生き物も居て良いんだよ、というような。上級も下級もない、もっと、地球上の全部の生き物を宇宙空間から見て、何だ、みんな生きてて、しょせん一緒じゃないか、というような価値観だろうか。一仕事終えた鬼太郎を称えて「♪ゲゲゲのゲ」と歌う虫たちや、赤塚不二夫の漫画で土管で暮らす猫も虫も、みんな生きてて同じだよ、というような価値観だろうか。水木しげる先生が漫画を通して、作風の怪奇と幻想だけでなく、何か、別のことを教えてくれたように思う。

 かつて、中島梓さん(小説家としての栗本薫さん)が、私は子供時代、学校のどんな教科や教科書よりも、人生で大切なことを、手塚治虫の漫画で学んだ、と書いていらっしゃったが、それと同じだと思う。僕は無論、手塚治虫先生からたっぷりいろんな事々を学んだし、もう少し大きくなって、中学生くらいになってからは梶原一騎先生から学んだものもある。子供時代、他にも、藤子不二雄両先生にも赤塚不二夫先生にも、石森章太郎先生にも学んでいるけど。

 そうやって考えると、楳図かずお先生も桑田次郎先生も入って来るし、キリが無いな。中学生から高一くらいになると、真樹日佐夫先生も入って来る。忘れてた、大きな影響受けた白土三平先生。他にもいろいろな漫画家先生を思い出す。みんな恩師みたいなもんだ。あっ、さいとうたかを先生。「鉄人28号」「伊賀の影丸」の横山光輝先生もだな。

 僕に取っての一番の恩師は、やっぱり手塚治虫先生と水木しげる先生だろう。“漫画の神様”手塚治虫を自分の恩師などと呼ぶのは畏れ多いけど。白土三平先生も大きいか。でも親しみを持つのは、やっぱり水木しげる先生だな。

 僕が子供時代、少年時代、青年時代に影響を受けた、各先生方は、もうあらかた亡くなられてしまったような感じだ。寂しい。残られた先生方もご高齢だし。

 高校生時代に夢中になって読んだ、五木寛之先生と野坂昭如先生は、まだご存命だな。ご存命とかいう表現は何か縁起悪い言い方だけど、両先生ともお元気なんだろう。野坂昭如先生は闘病生活みたいな、けっこう大変な状態なんだろうけど。青年時代に影響受けた小松左京先生は亡くなられたし。青年時に熱中して読んだ筒井康隆先生はお元気だ。まあ、影響受けたなんてたいそうな言い方で書いてるけど、この僕が、何かそんなたいしたものを自分に身に着けた訳でもないけどね。でも、五木先生、野坂先生、小松先生、筒井先生には著作物を通して、小さなものならいっぱい影響受けてるように思う。野坂昭如先生には思想的な面で明らかに影響受けたな。

 水木しげる先生があの世に行っちゃったのは、けっこうショックが大きいなあ。やっぱり寂しいですよ。何か、一つポカンと穴が開いたような‥。

 

 

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