第146回芥川賞・直木賞(日本文学振興会主催)の選考会が17日夜、東京・築地の新喜楽で開かれ、芥川賞に山口県下関市の田中慎弥さん(39)「共喰(ともぐ)い」(「すばる」2011年10月号)、大阪市の円城塔(えんじょうとう)さん(39)「道化師の蝶(ちょう)」(「群像」同7月号)、直木賞に福岡県久留米市の葉室麟(はむろりん)さん(60)「蜩(ひぐらし)ノ記」(祥伝社)が決まった。
九州・山口在住者の2人受賞は、1987年の村田喜代子さん(芥川賞)、白石一郎さん(直木賞)以来。
田中さんは下関中央工高卒業後、05年に新潮新人賞を受けてデビュー。08年に川端康成文学賞、三島由紀夫賞を受賞し、注目を浴びた。「共喰い」は、下関らしき町を舞台に、男子高校生と父親との葛藤、暴力や性を描いた作品。芥川賞候補は5度目だった。
円城さんは札幌市出身。東北大物理学科を卒業後、東大大学院博士課程を修了した。研究者生活を経て小説を書き始め、3度目の候補で賞に輝いた。「道化師の蝶」は、言語学の知識を駆使した実験的小説。
5度目の候補で受賞した葉室さんは、05年に歴史文学賞を受賞しデビュー。07年には松本清張賞を受賞した。「蜩ノ記」は、切腹する運命にありながら藩史編さんに打ち込む武士の姿を通して、命の尊さを描く時代小説。
副賞は各100万円。贈呈式は2月中旬に行われる。
○芥川賞候補作は「バカみたいな作品ばかり」 選考委員の石原都知事
「自分の人生を反映したようなリアリティーがないね」
芥川賞の選考委員を務める東京都の石原慎太郎知事は6日の定例会見で、いまの若手作家に欠けているものについて、こう語った。石原知事は「太陽の季節」で第34回芥川賞を受賞している。
石原知事は「(作品に)心と身体、心身性といったものが感じられない」と指摘。「見事な『つくりごと』でも結構ですが、本物の、英語で言うならジェニュイン(正真正銘)なものがない」と述べた。石原知事は昨年11月の会見でも「みんなマーケティングで、同じ小説家がくるくる違うことを書く。観念というか、自分の感性でとらえた主題を一生追いかけていくのが芸術家だと思う」などと語っていた。
第146回の芥川賞候補作は6日付で発表され、17日に選考委員会が開かれるが、石原知事は「苦労して読んでますけど、バカみたいな作品ばっかりだよ」とぼやくように話した。
第146回芥川、直木賞(日本文学振興会主催)の選考会が17日、東京・築地の料亭「新喜楽」で開かれ、芥川賞は円城塔さん(39)の「道化師の蝶」と田中慎弥さん(39)の「共喰い」、直木賞は葉室麟(はむろ・りん)さん(60)の「蜩(ひぐらし)ノ記」に決まった。田中さんは受賞会見で選考委員の石原慎太郎東京都知事にかみつき、「(賞を)もらっといてやる!」と言い放った。
東京・丸の内の東京会館で行われた受賞会見で、荒々しい早足で登壇した田中氏。5回目のノミネートでつかんだ受賞に「確かシャーリー・マクレーンでしたっけ?アカデミー賞で何度も候補に挙がりながらダメで、受賞の時に“私がもらって当たり前だ”と言ったそうですが、だいたいそんな感じです」と言い放ったかと思うと、「さっさと終わりましょう」と吐き捨てるように話した。
受賞作「共喰い」は、昭和の終わり、「川辺」と呼ばれる小さな集落に生きる高校生が主人公。抑制が利かない自らの性欲と暴力性が、父親から受け継いだことを自覚し、逃れられない宿命におののく姿を描いた。関係者によると、若者の内面を描くことに定評が高いという。受賞の知らせは待機していた飲食店で聞いた。
08年に「蛹(さなぎ)」で川端康成文学賞、「切れた鎖」で三島由紀夫賞を受賞した実力派。しかし、石原知事は6日の定例会見で、若い作家に欠けているものを問われ「自分の人生を反映したリアリティーがないね」と批判し、さらに芥川賞候補作品に関して「今も読んでいますけれど、苦労しながら、ばかみたいな作品ばかりだよ、今度は」と酷評していた。
田中氏はそんな態度を腹に据えかねていたようで、自分から「これだけ落とされて、(受賞を)断ってしまいたいところなのですが、断りを入れて気の小さい選考委員が倒れてしまうと都政が混乱しますので、もらっといてやる!」と表情を変えずにまくし立てた。
報道陣からそんな石原知事への一言を求められると、「おじいちゃん新党を作ってらっしゃるみたいなんで、それにいそしんでください」と選考委員の引退勧告とも受け取れるような発言まで飛び出した。
芥川賞の選考委員を務めている東京都の石原慎太郎知事は18日、「全然刺激にならない」として、今回限りで選考委を辞退する考えを明らかにした。
石原氏は報道陣に対し「いつか若い連中が出てきて足をすくわれる、そういう戦慄を期待したが、全然刺激にならないからもう辞めます」と語った。
石原氏はこれまで若手作家に関し「自分の人生を反映したようなリアリティーがない。(作品に)心と身体、心身性といったものが感じられない」などと語り、今月6日の知事会見では「苦労して(同賞候補作を)読んでますけど、バカみたいな作品ばっかりだよ」と話していた。
ただ、今回受賞した田中慎弥氏が「都知事閣下と都民各位のためにもらっといてやる」と語ったことについて、石原氏は「皮肉っぽくていいじゃない。むしろ彼の作品を評価していた」と述べた。
芥川賞主催の日本文学振興会によると、石原氏は平成7年から選考委を務め、今回の選考は石原氏を含め9人の委員で実施した。
芥川賞の選考委員、東京都の石原慎太郎知事(79)は候補5作品について今月6日「苦労して読んでますけど、バカみたいな作品ばっかりだよ」とボヤいた。そこで田中さんは「都知事閣下と東京都民各位のために(芥川賞を)もらっておいてやる」と毒づいた。
受賞作「共喰い」の主人公は地方都市に住む17歳の少年。暴力的な性行為を繰り返す父を嫌悪しながらも、自らの中に父と同質の部分があることにおびえ、葛藤する。
4歳で父を亡くし、今も郷里で母親と2人で暮らす。アルバイトも含め1度も職に就いたことがなく、20歳のころから小説を書き始めた。以来、1日も執筆を休んだことがない。「他のことは一切していない」という。
子供のころから「常識とか、正しいとされることが嫌い」だった。パソコンや携帯電話は必要性を感じないため持たない。やはり変わってる!?
「苦役列車」で、2011年上期の芥川賞を受賞した西村賢太さんといい、芥川賞作家には面白い人が出て来て楽しい。何ていうか、一概には言えないんだけど、直木賞を受賞する人って、普通の人というと芥川賞の人に悪いんだけど、直木賞の人は常識的な普通人が多い印象を受け、芥川賞の人の方が悪くいえば、変わり者、かなり個性的な人が多いような、そういう印象を受ける。直木賞受賞者には常識的社会人という感じの人が多くて、芥川賞受賞者は、良くいえば芸術家肌、悪くいうとやはり変わり者的な個性の強い人。もっと違う見方、言い方をすると、直木賞の人は世間とうまくやっている人、うまく世間が渡れる人。芥川賞の人は世間との間に深い溝か小川かがありそうな感じの人。何か、芥川賞イメージが、芸術家肌かも知れないけど、例えば浮世離れした人も含んで、変り者でこの社会でうまく生きてない人、みたいな、漠然とそういう印象を持ってしまう。無論、偏見なんだろうが。でも、非常に個性的な人は断然、芥川賞作家の方だよね。直木賞の人は社会をうまく渡れる、しょせんは俗物のような。ゴメンナサイ。何かそういう印象で。まあ、直木賞作家の方が、後々金儲けしそうだし。
僕はもう、読書の小説は完璧エンタティンメント派で、純文学を読んでいたなんて、18歳から20歳かせいぜい21歳くらいまでだと思う。16歳から読書を始めた僕は、最初は五木寛之や野坂昭如などのいわゆる中間小説からで、18歳からの3、4年間だけ、太宰治や大江健三郎などの日本の純文学作品や、比較的現代ものの世界の名作文学を読んだ。後はもう、SFとミステリばかりだ。圧倒的にミステリが多いなあ。ミステリとは、ハードボイルドも冒険小説もホラーも含んで、だけど。だから「苦役列車」も読んでないし、多分、今回受賞された、田中慎弥さんの「共喰い」もこの先読まないと思う。純文学って、やっぱり私小説が多いいじゃないですか。私小説って、内容の情報量が制限されてる、というか、要するに個人の生活を舞台にした芸術的感覚というのか何というのか、芸術的表現、やっぱり文芸という芸術の一つなんだよね。それに比べるとミステリでも何でも知的エンタティンメントは、まだ自分の知らない新しい情報量が詰まっている。一冊読むごとにこの世の新しい情報を知る、みたいな。例えば僕は一時期、船戸与一の冒険小説ばかりを読んでいたけど、あの人の作品は舞台が第三世界というか発展途上国ばかりでしょ。で、船戸さんなりに現地取材や、彼の地のことを詳しく書いたノンフィクション本を資料として読んで、そこから得た情報をベースに物語を紡いでいるんだよね。僕のような人生で二、三度しか海外に行ったことのない日本人でも、あんまり一般的日本人が行かない海外の地域のことや国際情勢などが、例え作家の想像で作り上げた物語世界でも、舞台や状況などのアウトラインには嘘は書かないから、大まかには、行ったことも行くこともない世界の危険地域、紛争地域の情報が得られる。後は例えば、ミステリでも、舞台がメディア世界の放送局なんかだと、僕が全然知らないそういう業界の内情だってある程度は解る訳じゃないですか。エンタティンメント小説の良いところは、物語世界の内容にワクワクハラハラ楽しめて、しかも新たな情報が得られる。そういう一粒で二度おいしいような点ですね。だから、そういう意味では、「文芸」として鑑賞してはいないと言えるのかも。芥川賞作品はやっぱり基本、「文芸」ですよね。
僕なんかみたいなあんましアタマの出来の立派でない者には、「文学とはなんぞや?」とかよく解らないですねえ。その、文芸の芸術たる定義、みたいな理屈が僕にはよく解らない。青年期、例えば大江健三郎の短編もサルトルの短編も、「あ、面白い」と思って読んだ。逆に大江健三郎の長編やサルトルの「嘔吐」は、はっきり言って僕には面白くなかった訳で、僕はもう昔々、読書の最初から「面白いか、面白くないか」でしか読んで来てないし。そういう意味では、前回このBlogの何処かで、「若い頃は文学青年に憧れてた」とか何とか、ほざいてますけど、僕は文学青年とかには完全失格だったんでしょうね。でも、純文学の、自分の人生や生き様、生きることに対して真摯に立ち向かい、正に生きるか死ぬかで自分自身と対峙して書いた私小説には、やはり凄みや迫力があるんでしょうね。純文学といっても、例えば詩人から出発した吉行淳之介さんの作品群みたいなものもある訳ですけど。でも、きっと、「苦役列車」も「共喰い」も一人の人間の孤独や苦悩をこれでもかと書ききっていて、読めば面白いんでしょうね。小説を「面白い」でしか評価できない僕は、やはり文学面失格者だな。情けない。