うろ覚えライフ。

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バスケット−空手−ボクシング

2021年09月26日 | Weblog

 
 僕の7つ8つ年上になる兄貴は、中学生時代、バスケットをやっていた。高校生になってからは空手をやっていた。
 
 バスケットは中学の部活で、空手道は家の近くの道場に通っていた。バスケットは途中、肺を悪くしてスポーツができなくなり部活を休んでいた。入院などはなく普通に学校に通っていたが運動はセーブしていた。その後、バスケット部に復帰した。
 
 空手初段で大学進学したから、高校生時代、空手道場は二年は通っていたのかな?もっと続けてたのかな?当時、小学生だった僕は兄貴の茶帯姿は見た記憶がある。

 
 兄貴が空手をやっていた少年時代、テレビ番組では「空手三四郎」という、空手ヒーローものをやっていて、高校生の兄貴と小学生の僕は毎週、熱中して見てた。「姿三四郎」の空手道版みたいな、毎週30分の番組だった。明治後期か大正初期くらいの時代設定で、人格者の立派な師範がいて空手道場に所属する青年が、各種格闘技の強敵と否応なし戦って行く、主人公が修練に勤しむのが空手という違い以外は、ほとんど「姿三四郎」というドラマだった。
 
 ちなみに「空手三四郎」の中の、沖縄から東京に出て来た主人公青年の師事する、人格者の立派な師範役をやっていたのが、「ウルトラセブン」でキリヤマ隊長を演じていた中山昭二さんだった。
 
 小学生の僕は当時、兄貴から空手の武勇伝みたいな話をよく聞かされていたように思う。今でも記憶しているのは、兄貴がやられたカッコ悪い話だけど、まだ空手を始めてそんなに経たない頃、同世代白帯三人くらいで、ストリートファイトで少し年上の空手有段者に挑んだら、三人がかりでもあっという間に三人とものされてしまったという話だった。
 
 小学生の僕は、この話を聞いて何かワクワク興奮して、兄貴のやられ話にしてもカッコ良い話に感じて、当時、僕が自分んちの子供机で鉛筆書きで西洋紙を綴じたのに描いて、市販漫画雑誌を真似て作ってたお粗末な手製雑誌に、僕の鉛筆イラスト入り記事として話を書き込んだので、よく覚えている。

 
 兄貴は大学に入ったら、空手部には入らず入学後しばらくしてボクシング部に入部した。大学二年の頃かも知れない。大学ボクシング部の武勇伝として、柔道部の学生をリングに上げて、まぁ、異種格闘技戦みたいなことをやったんだろうが、ドドドって突進して来るのをカウンターでKOした話をしていたのを覚えている。対校試合の話とかは聞いたことがないように思う。
 
 僕は中二の一学期を終えて学校の剣道部をやめて帰宅部でヒマだったから、中二の終わり頃か中三の初め頃かから兄貴に自宅の庭でボクシングの基礎を習った。フットワーク、ジャブとストレート、ナワトビの跳び方、フックとアッパー、シャドーボクシングのやり方。しばらく習った後、僕は高校生時代までずうっと独りでボクシングの練習をしていた。ド近眼の僕は高校のボクシング部には入部しなかった。
 
 兄貴も大学ボクシング部に所属してたのは一年間くらいだったんじゃないかなぁ。大学三年時は親父の取って来た電気工事の仕事を、当時閉鎖になった伊田電業所の事務所のソファーに居候してた、風来坊の電気工事士のオジサンと一緒に、各店舗や工場、各家庭の電気工事の仕事を、兄貴はアルバイトとしてやってたな。
 
 兄貴も電気工事のあれこれをこのとき習得してるから、後々、電気工事士になれば良かったのにな。兄貴は多分、伊田電業所の社宅出てから先、電気工事関係の仕事はしたことないと思う。

 
 兄貴は大学四年時はほとんど学校に行ってない。親父が僕の小六時頃から借金を作り出し、兄貴の大学二年の終わり頃から大学三年時、家には親父の作ったかなりの額の借金があり、母親は家庭のやりくりに苦労してた。だから兄貴の電気工事のバイト代もほとんど、母親に渡してたらしい。
 
 兄貴のアルバイトというと、家の近所にパン工場があり、冬場はクリスマスケーキを製造していた。冬場というか12月ですね。兄貴は12月の中旬入ってから24日まで、パン工場で夜間、ケーキ製造のアルバイトをしていた。多分、大学一年と二年の冬場だと思う。僕が朝起きたら飯台にケーキのスポンジだけが置いてあった。兄貴がパン工場からできそこないのケーキ台を貰って帰って来てたのだ。兄貴は早朝に帰って来て眠ってた。僕は朝食にケーキのスポンジ台を食べて中学校に登校した。
 
 このパン屋のバイト代は母親に渡してたのかどうかよく知らない。大学の学費に使ってたのかも知れない。
 
 その他にもイロイロ、兄貴は大学一年·二年時、アルバイトに明け暮れていたと思う。若松港の船の荷降ろし作業のバイトなどもやってたんじゃないかな。
 
 兄貴は社交的な性格でいつも友達が多かったみたいだな。
 
 商店街の電業所の所長職身分として派手な振る舞いをしていた親父がその内、女を作り、飲み屋の女に入れ揚げた。頭おかしいような大放蕩を続けて巨額借金を作った親父に母親は疲労困憊、精神的に大ダメージを受け家庭崩壊、親父は巨額借金抱えたまま愛人の元へ行き、親父以外の家族は電力会社の社宅から盛大な雨漏りと寒風吹きすさぶあばら家に引っ越した。
 
 親父と母親や子供たちは事実上の離縁となり、ここから長い間、親父と母親や子供たちとの往き来はなくなる。兄貴は一家を支える稼ぎ頭とならざるを得なかった。当然、兄貴は大学に通えなくなる。
 
 兄貴は大学四年時はほとんど学校に行けず、単位が足らずとうとう大学四年で卒業できなかった。兄貴は稼ぎの良いトラック運転手をして一家を支えた。留年した兄貴はやっとのことで大学を五年で卒業した。卒業証書を貰ったとき、兄貴はぼろぼろ涙が出たと話していた。

 
 ここのブログ記事タイトルを「バスケット-空手-ボクシング」にしたけど、スポーツ関係の話はほとんどなくて、兄貴の中学生~大学生時代の簡単な紹介と、後半、主なテーマは兄貴の若き時代の苦労話みたいになっちゃったな。
 
 まぁ、ここのタイトルは兄貴が学生時代にやったスポーツの競技名というか、話だな。学生時代はスポーツやってた兄貴も、社会人になってからは、釣りに行ったり麻雀してた話は聞いたことあるけど、何かスポーツやった話は聞いたことないな。草野球の話も聞いてない。もしかしたら草野球くらいやってたのかも知れないけど。
 
 兄貴も見方によっては波乱万丈の人生だったな。兄貴も自分の人生を精いっぱい一生懸命生きて来た。

 
 坊主頭の写真は兄貴の中学生~高校生時の写真だけど、空手をやってる写真は坊主頭に近い短髪だけど、当時の高校生って髪は伸ばしても良かったのかな?校則は運動部でなくとも男子学生は坊主頭だったんだろうか?高校生時の兄貴がどんな頭をしていたかまるで覚えてない。
 
 僕らの時代はだいたいの高校は髪を伸ばしても許されていた。あんまり長くするのは校則違反だったけど。中学校は兄貴も僕も校則は丸刈りだった。兄貴も高一は丸刈りだったが途中から伸ばしてたのかも知んないな。確か角刈りにした写真を見たような記憶がある。学生服姿のあれは多分、高校時だろう。
 
 兄貴とは7つ8つ年の離れた兄弟だったが、僕の幼児期からイロイロと思い出があるなぁ。



 ビートルズの来日が1966年で66年は兄貴は17歳くらいかな。日本のGSブームが67年、多分兄貴は18歳。兄貴は高校生の頃、友達からビートルズの初期アルバムやこの当時のJ ポップ系の日本のたくさんの流行歌のレコード盤を借りて来て聴いていた。高校生時代の兄貴は深夜ラジオも聞いていたようだ。
 
 高校生時代も17歳18歳になると髪は伸ばしてたと思う。詳しくは知らないが兄貴は友達のエレキギター·バンドでドラムを叩いている、という話をしていた。高校生の頃は校則もあって、そんなに長くはしてなかったが、大学生の頃はこの時代の流行もあって、長髪にしていたな。ボクシングをやってた頃はスポーツ刈りにしていたと思うが。GSブームの後フォークソングブームが来るが、兄貴はフォークソングにはまることはなかったな。
 
 そういえば思い出した。兄貴は家でも身体を鍛えていたが、バケツにセメントを流し込んで鉄棒を突き刺して両側に固めたセメントの重しで手製バーベル作ってたな。電力会社の電業所のウチの倉庫には、けっこう何でもあった。鉄クイに鉄棒にセメント袋に各種電線、工具に他イロイロ。バーベル作ったの兄貴の中三時か高一時か。
 
 空手やってた頃は丈夫な板立てて縄巻いてマキワラ作ってたし、後に倉庫にあった大きな丈夫なビニール製大袋に石ころや砂を入れてサンドバッグ作って、物干し台の横渡し柱に吊り下げてた。中学生のときは家屋の外壁の高いとこにバスケットボールのワッカ取り付けてたし、小五·小六の頃、当時の家の外壁の屋根近くに鳩小屋取り付けてた。犬小屋、鳩小屋、ウサギ小屋を作るのはお手のものだった。
 
 僕はもの凄く不器用なのだが、兄貴は日曜大工的なDIYが本当に器用だったな。
 
 
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