うろ覚えライフ。

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高部あいちゃんとコカイン

2015年10月29日 | 芸能ログ

○「国民的美少女」女優の高部あい、コカイン所持容疑で逮捕 「友人にもらった…」 警視庁

 

   自宅でコカインを所持していたとして、警視庁組織犯罪対策5課が、麻薬取締法違反(所持)容疑で、女優の高部あい(本名・中山あい)容疑者(27)=東京都渋谷区=を逮捕していたことが27日、同課への取材で分かった。同課によると容疑を認め、「友人からもらった」と話している。

 逮捕容疑は15日朝、自宅で微量のコカインを所持していたとしている。当時、高部容疑者は自宅にひとりでいたという。

 高部容疑者は平成16年、「全日本国民的美少女コンテスト」のグラビア賞を受賞。ドラマや映画に出演するほか、声優としても活躍していた。

 

○高部あい コカイン所持容疑逮捕 事務所 契約即解除

 

   自宅でコカインを所持していたとして、警視庁組織犯罪対策5課などは27日までに、麻薬取締法違反(所持)の容疑で、女優の高部あい(本名・中山あい)容疑者(27)=東京都渋谷区=を逮捕した。同課によると、容疑を認め「友だちからもらった」などと話しているという。

 逮捕容疑は今月15日午前、渋谷区の自宅で微量のコカインを所持した疑い。高部容疑者は当時、自宅に一人だった。警視庁はコカイン使用の有無や詳しい入手経路について調べている。

 高部容疑者の所属していたオスカープロモーションは15日に警察から連絡を受けるや、容疑者との契約を15日付で即刻解除。「普通のおとなしい子だったので、何であの子が…と残念です」と悔しさをにじませた。

 高部容疑者は東京都八王子市出身。2004年「第10回全日本国民的美少女コンテスト」でグラビア賞を受賞し、芸能界デビュー。アイドルユニット「美少女クラブ31」(美少女クラブ21より改称)の新メンバーとして加入した。

 05年「第1回ミス週プレグランプリ」を受賞、06年に「トゥルーラブ」でドラマに初出演し、08年の連ドラ「紅蓮女」で主演を務める。映画、舞台、バラエティー番組にも多数出演。身長165センチのスレンダーな美女タレントとして注目されたほか、09年にはフジ系アニメ「青い花」で声優デビューし、アニメ声優としても活動した。

◆オスカーが謝罪

 元所属事務所のオスカープロモーションは27日夜、コメントを発表し、高部容疑者の逮捕をあらためて報告。「ファンの皆さまをはじめ関係各位には、多大なご迷惑をおかけしたことを心よりおわび申し上げます」「今回の事件を極めて深刻に受け止めており、このような事態が二度と起きないよう、所属タレントに対して厳しく指導をしてまいる所存であります」としている。

 

○【麻薬逮捕】高部あいだけではない! リスカ、震え…薬物疑惑絶えぬグラドル界の闇

 

  女優・グラビアアイドルとして活躍していた高部あい(27)が、一部スポーツ紙にて、麻薬及び向精神薬取締法違反容疑で今月15日に逮捕されていたと報じられた。高部は、現在警察に勾留されており、所属事務所からも契約を解除されているという。

 逮捕された高部は、2004年に「第10回全日本国民的美少女コンテスト」で、グラビア賞を受賞し、芸能界にデビュー。アイドルユニット、「美少女クラブ31」に加入し、翌年には「週刊プレイボーイ」(集英社)が開催したミスコン、第1回「ミス・週プレグランプリ」を受賞した。チャーミングな笑顔とスレンダーなボディを武器にグラビアアイドルとして活動し、多くのファンをトリコにしていた。また06年からは女優デビューを果たすなど、幅広く活動していたが、09年からメディアから徐々にフェードアウトしていたようだ。

 現役のグラビアアイドルの逮捕というニュースは衝撃的だ。しかし、意外にもグラドルたちの中には“闇”を抱えている者も多いのだという。

「トップグラドルたちには多くありませんが、あまり人気がないグラビアアイドルたちの中には、手首にためらい傷がある人がたまにいますよ。自身でキズを認識している人は、ファンデーションを塗ったり、包帯を巻いたりして隠します。ですが、そんなフォローを一切しない人もいて、撮影したカメラマンが頭を抱えることもあります」(グラビア誌編集者)

 また、自傷行為と思われるキズを持つ者だけでなく、高部のように薬に手を出す者もいたという。

 

○麻薬逮捕報道の高部あい、逮捕前日は森下悠里主催のパーティーへ

 

   麻薬取締法違反(所持)の疑いで逮捕されたアイドルで女優の高部あいが、逮捕前日にグラビアアイドルの森下悠里が主催するパーティーに出席していたことがわかった。

 高部はコカインを所持していたとして15日に逮捕されたと報じられている。現役アイドルの逮捕報道に騒ぎが広がるなか、ネット上では、プロスケーターでタレントの澤山璃奈が今月16日に更新したブログが話題になっている。

 問題のブログエントリのなかで澤山は、「誕生日の翌日は森下悠里ちゃん主催のHalloween party にいってきました」と報告。不思議の国のアリスをイメージしたらしき水色の衣装を来てほほえむ高部の写真をアップしていた。

 澤山の誕生日は10月13日ということは、「誕生日の翌日」というのは10月14日。つまりパーティーは高部の逮捕前日に行われたことになる。自身が逮捕されるとは夢にも思っていなかったからこそ、写真でくったくのない笑顔を見せているのか……。なんにせよ澤山や主催者の森下をはじめ出席者たちは仰天していることだろう。

 

○薬物逮捕の高部あい“処女キャラ”の裏にあった意外な素顔「多額の現金を持ち歩き……」

 

   女優の高部あい(27)が、麻薬及び向精神薬取締法違反容疑で逮捕されていたことが東京スポーツで報じられた。所持品から、コカインや非合法に入手したと思われる向精神薬などが出てきたことで、10月15日に東京・原宿署の留置場に勾留され、所属していた大手オスカープロモーションから即日契約解除された。これで、収録中だったドラマや仕事の予定はすべて白紙となった。

 

 処女のウワサもあったほど清純派として知られた女優のまさかの薬物事件に、関係者、ファンのショックは大きいが、一方で「裏表の激しい性格」という別の評判もあった。

 

「人見知りが激しいんです」
「ふわふわしているってよく言われます」
「天然なのかもしれませんね」
「恋愛は全然ないです」

 

 バラエティ番組やイベント出演、インタビューなど過去の言動からは一貫して、ピュアなキャラクターだった。6年ほど前には番組で、共演者から処女であることを突っ込まれたこともある。

 

 しかし、ドラマ出演など女優デビューして間もない2007年、彼女は男性グループ、Leadの鍵本輝との交際が一部で報じられ、それ以降も短期間ながら別の男性との熱愛のウワサが立つなど、処女説には異論もあった。

 

 鍵本との交際が知られた後にも、高部はメディアで「2年間、彼氏がいない」「キスをしたことがない」と話しており、ファンからは「処女設定アイドル」と呼ばれたこともある。

 

「ずっと彼氏がいないなんて言っていたけど、深夜にジャージ姿で金髪にネックレスのチャラい感じの男とコンビニに出入りしているのを見たことがある。大手オスカーに所属していたから、なにかと面倒なので見て見ぬふりをしたけど」とスポーツ紙記者。

 

 高部は04年、「全日本国民的美少女コンテスト」でグラビア賞を受賞後、アイドルグループ「美少女クラブ31」のメンバーとして活動。翌年の第1回「ミス週プレグランプリ」に輝いたときも、顔に似合わぬ言動があったと記者は明かす。

 

「準Vだったジャニーズタレント・山下智久(元NEWS)の妹、莉奈が思わず『高部さえいなければ』と言ったそうで、その話を耳にした高部が舞台裏で『ライバルがそうやって悔しがるのを聞きたかった』ってキツいことを言ったんですよ」

 ただ、仕事は順調で06年、ドラマで女優デビューし、その後は声優としても活躍。今年7月出演のショートドラマでは、主演・福士蒼汰の妻役を演じていた。

 

 今回の逮捕でタレント活動は絶望的になったといえるが、事件の詳細はまだ伝わっておらず、本人が違法薬物を所持していた理由や経緯、その量などはわかっていない。

 

 以前、高部をバラエティ番組に起用したテレビ関係者は「高部さんと共演していたある有名芸人は『絶対に何かの間違いやろ。もし薬物やっていたなら、誰か悪い奴にやらされたに違いない』と言っていた」とする一方、「意外に多額の現金を持ち歩いていることを共演タレントが驚いていたので、高額な薬物を購入するため芸能関連仕事以外で収入源を持っていた可能性がありますね」とも話しており、裏表に差があるとささやかれる高部に対する周囲の反応も二分している。

 

 過去、東京・池上警察署の一日署長を務め、今年出演のドラマ『京都人情捜査ファイル』(テレビ朝日系)では元交通課の刑事役を演じていたが、現実では逆に連行される側になってしまった。その本性は一体どちらの側だったのか。

 

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  高部あいさんは、コカインと向精神薬が自宅から押収されたということで、麻薬取締法違犯の違法薬物所持で逮捕された訳ですが、尿検査で陽性反応が出たということで、違法薬物使用でも再逮捕されたんですね。この女性のタレントイメージとは全く違う、違法薬物の所持や使用での逮捕に、本当に驚きました。

※下記書き込み文は、2008年に僕の当時の別サイトに書き込んだ、僕の文章のコピーです。この、2008年に書いた僕のブログ記事文で、当時、高部あいちゃんが主演した連続ドラマ、「コスプレ幽霊-紅蓮女」の内容の紹介と、主役の内気で引っ込み思案な性格で暗くてサエナイ教師役を好演していた、当時の高部あいちゃんについて、僕なりに感想を書いてます。その下には、このブログ「生きたまま極楽!」内で、当時、このドラマをテーマに書き込んだ、ちょっとした感想記事文へのリンクも張っています。こっちも随分、古い記事ですが。

『  ・・・・ 
 kenmortima
 TV深夜ドラマの「紅蓮女」と「未来講師めぐる」がもうすぐ終わるようだ。どちらも3月中に終わるし、ドラマもあと1回か2回のみ。ちょっと残念なよーな。

 ま、くだらないといえばくだらないドラマだけど、僕は、「紅蓮女」は好きでした。主演の高部あいさんはコミカルな演技がうまかったし、ドラマ構成も良いと思った。都市伝説テーマ、というのは面白かったですね。この「紅蓮女」は、原作小説があって、上甲 宣之さんという若い作家の方が本を書かれている。

 「コスプレ幽霊-紅蓮女」原作小説の方はリアルな設定で、ユーモア小説系だが、三十路前の内気でサエナイ女性の、小学校の無気力駄目教師が、コスプレして幽霊に化けて怪奇スポットなどで人を脅かすことに生きがいを感じる、ということから起こる騒動を描いた等身大ドラマらしい。この原作小説を読んでみたいな、と思いつつ結局まだ読んでない。原作小説はなかなか面白そうだ。

 TVドラマの方は、原作小説とはかなり設定を変えており、主人公も名門高校の国語教師になっている。原作の舞台は京都市内だが、ドラマは東京。TVドラマでは主人公の教え子たちが都市伝説同好会なるものを作っていて部室があり、心霊スポットめぐりのような活動をしている。今風の若者向けテンポの速いコメディーで、コミックドラマですね。

 TVドラマでは主人公の駄目教師がウサ晴らしと変身願望で、ヒトを脅かして面白がるために始めたものが、紅蓮女は結局、窮地に落ちた生徒たちを救ったり、良い事をする。だんだん正義の味方然となって行く。行動も正義ヒロイン的。都市伝説に題材を取った事件を紅蓮女が解決して行くストーリーで、原作小説の物語の主旨とはだいぶ掛け離れているものと思われるけど。

 TVドラマの方のテーマの都市伝説は、正体が普通の人間で、悪人だったりすることも多いが、超自然的な幽霊なども登場する。紅蓮女も人間の変装で武器も脅し用の大きなマッチ棒みたいのだったりするが、ドラマ中では超能力的な扱いをしていて、敵への迎撃効果がある。たいてい敵は失神してしまう。まあ、ご都合主義な作りのドラマだが、いいのだ、コミックドラマだから、面白ければ。

 主役、高部あいちゃんはコミカルな演技は面白いし可愛い。美人顔ではないが独特な可愛らしさがあるね。イイネ、好きです。昨年引退したが一世を風靡した美人AV女優だった、夏目ナナさんも保険教師役で出てるし。原作にこの役はないみたいだけど。高部あいちゃんは、TV討論バラエティー「太田光の私が総理大臣になったら」の冒頭コーナーで出てて、一言コメントしてた。好感持てて可愛いキャラです。

 ちなみに、主人公の女駄目教師の唯一の友達はTVドラマでは橋の下で拾ったソフトで、パソコン画面から語り掛けるが、原作小説ではペットのフェレットらしい。このフェレットって何かと思ったら、イタチの仲間の小ペットなんですね。

 「未来講師めぐる」は最初見た時、くだらねえなあ‥とか思って何気なく見てて、二度目は途中でTV切って寝て、次に見たらけっこう面白くて、見る度だんだん面白くなった。宮藤官九朗脚本の今風のテンポの速いコミックドラマ。僕の感性みたいのがこの手のドラマ作りに慣れてきたのか。僕はあんましドラマを見る方じゃないからよく解らないけど、言ってみれば前衛的。「紅蓮女」よりずうっと、テンポも速くて今風のコミックドラマ。未来予知能力をテーマにしたギャグコメディーのコミックドラマですネ。

 コミックの先鋭的なギャグ漫画を、まんま実写ドラマ化した、という感じの作りかな。

 深田恭子さんて本当に綺麗な人ですねえ。深田恭子の演技は、「下妻物語」と「富豪刑事」の役と変わらないな。まあ、ああいう感じが最も似合う人なんでしょうね。プライベートの実際はどんな人か解らないけど。想像つかないなあ。

 「未来講師めぐる」も軽いノリのコメディSFとして面白いですよ。予知能力というものもあれば良いものだなあ。ただ20年後限定ではあんまりありがたいものでもないよーな。

 「コスプレ幽霊-紅蓮女」も「未来講師めぐる」も毎放送全話見ている訳じゃないけど。軽いノリで楽しく見るのは笑えてなかなかイイですね。
                                                   ・・・・・・ 』

※(2008-01/27)紅蓮女

※(2008-02/09)コスプレ幽霊-紅蓮女

  テレ東系列の金曜深夜連続ドラマ、「コスプレ幽霊-紅蓮女」が放送されたのが、2008年1月11日から3月28日までの期間だから、僕が当時の他ブログで、上記の記事を書き込んだのは、2008年の3月中みたいですね。まあ、内容はそうたいした内容でもない娯楽ドラマですが(人に寄ってはクダラナイと評するかも知れませんが)、当時、僕は面白くて、深夜ワクでしたが、けっこう毎週、楽しみにして見てました。主演の高部あいちゃんも可愛くて、好感持てたし。良いキャラでしたね。役でなく、演者の性格も良い人感が覗けて。当時は、このドラマで僕は、高部あいさんの俄かファンになってました。その後もね、けっこうバラエティーとかで見掛けました。「私が総理大臣になったら-太田総理・秘書田中」だとかにも、ひな壇にチョイ出で出たりしてたのを憶えてます。まあ、その内、僕も忘れちゃってましたが。でも、TVドラマの主演じゃないにしろ、脇役・端役で出てたのは知ってました。僕自身は、そういうドラマは見てないにしろ、ですが。TVは、僕はあんまりドラマを見る方でもないので。高部あいちゃん、可愛かったのにな。雰囲気、良い人感出てたし。

 僕が関心持って、高部あいさんをTVで見てたのって、だいたい2008年頃からせいぜい2010年とか11年くらいでしょうから、まあ、時折、ドラマの端役で名前を見るなあ、くらいのことでしたから、その後、深夜放送の人気アニメの声優で話題になったコトとかは、全く知りませんでした。お気に入りだったドラマの「紅蓮女」での様子もそうでしたが、イメージ的には見るからに清純派で、「処女系で売っていた」という話が出てるように、夜遊びの方は純情系のようなウブっぽさも垣間見える、割と内気そうでおとなしそうな感じのタレントさんでしたね。あくまで、TVで見るイメージから、ですけど。素人ファンの僕が、この人の素性を知る由もないし。業界の知人友人の人物評も「ホンワカした性格」ということですし、気が強い積極派、自己主張する行動派、というキャラクターにはとても見えないイメージでしたね。実際、性格もホンワカ雰囲気の可愛い、良い人だったんじゃないですかね。

 本当に人は見掛けに寄らないというか、解らないものですね。まさかの事態でした。案外、裏の顔があって、実は夜遊びして、密かにけっこう派手に遊んでる部分もあったのかも知れませんが。人はみな、一面だけで語れるものでもないし。芸能界で生きて行く、というのは、よっぽど強い気持ちを持ってしっかりやってないと、イロイロな誘惑や罠があるものなのかも知れない。悪い男に引っ掛かったか。芸能界でうまいように渡って行けず、悩んでる心の隙間を、悪魔に浸け入れられたか。ネットの何かの書き込みで、高部あいが友人か知人に「キメセクするともの凄く気持ち良い」とか語っていたとか何とか、ありましたから、男関係かも知れないですね。

 警視庁の組織犯罪対策五課に、いきなり家宅捜索を受けたくらいだから、前々から捜査対象として狙いを着けられ、密かに追われていたんでしょうね。だから多分、常習者なんでしょう。主演は取れなくてもドラマには脇や端役でちょくちょく出てたし、アニメ声優としての一定評価も得ていたし、タレントとして芸能界で生き残って行くには、けっこううまく行ってた方なんじゃないかと思うのですが(劇場版映画の主演作もあるし、映画作品にはけっこう出演してますね)、深夜のアダルト系番組のアシスタントをやらされたり、仕事上の悩みもあったらしいですが、使用薬物が、大麻くらいならともかく、コカインとはこれはまたヘビーですからねえ。あの酒井法子でさえ、タレント復活には相当苦戦して来たし、高部はノリピーほどもビッグでなかったし、実刑喰らわずに執行猶予でも、高部の芸能界復帰は難しいでしょうね。芸能界人生がそこまでどん底でもなかったのに、「やっちまったなあ~」感いっぱいですね。このままズルズル堕ちて行かなければ良いけど。警察から出て来た後にAV女優の道とかには行かず、普通の人になってカタギの道で頑張って、良い旦那さん見つけて子供作って、幸せになって欲しいものですが。


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加瀬邦彦さん(ワイルドワンズ)逝く

2015年10月23日 | 芸能ログ

○加瀬邦彦さんが死去 「ザ・ワイルドワンズ」リーダー、「TOKIO」作曲

 

  『想い出の渚』などのヒット曲で知られるグループサウンズ「ザ・ワイルドワンズ」のリーダーで音楽プロデューサーの加瀬邦彦(かせ・くにひこ)さんが死去したことがわかった。74歳。4月21日朝、加瀬さんが自宅で死亡しているのを家族が見つけたという。自殺とみられる。朝日新聞デジタルなどが報じた。

日刊スポーツによると、所属事務所関係者は取材陣に対し、「亡くなったのは事実です。詳しいことは明日(22日)、発表します」と述べたという。

加瀬さんは、1941年、東京都出身。慶応大学時代の1961年に、初めてバンドを結成した。その後、「スパイダース」や「寺内タケシとブルージーンズ」を経て、1966年7月に加山雄三が命名した「ザ・ワイルドワンズ」を結成。11月に「想い出の渚」でデビューした。加瀬さんはヤマハに特注した12弦ギターの豊かな音色で人気を博した。

解散後は、作曲家、沢田研二のプロデューサーとして活躍。「危険なふたり」「TOKIO」などの楽曲を書き、ヒットさせた。

1994年には食道がんを経験。2012年4月には自身のブログで「癌を克服して元気で明るく活動しているワイルドガンズ」と、ワイルドワンズのメンバー全員が、がんを経験していることを明るく綴っていた

 

○自殺した加瀬邦彦さんについて、メンバーがコメント

 

  今月20日に都内の自宅で自殺した加瀬邦彦さん(享年74)について、ザ・ワイルドワンズのメンバーが、それぞれコメントを書面で発表した。

 ギター鳥塚しげき(68)は「突然のことで驚いております。僕にとっては人生の師匠とも言うべき人でした。もう少し生きていて欲しかった。ただただ残念です」。

 ドラム植田芳暁(67)は「あまりに急なので、ショックは大きく今は言葉にならない悲しみでいっぱいです。教えていただいた1つ1つを大切にして、ワイルドワンズのレガシーを引き継いでいきます」。

 ベース島英二(67)は「残された悲しみはまだ実感になりません。どんな時も前向きな加瀬さんが選んだ結論が、こんな悲痛な事実なのが、まだ受け止められません。加瀬さんに生きて欲しかったです。でも、苦しかったんですね。本当にお疲れさまでした」。

 

○「昭和歌謡ブーム」支え、盛り上げた男 加瀬邦彦、がん手術後も舞台復帰目指していた

 

  「昭和歌謡ブーム」などと騒がれる昨今、ブームに一役買ったのが加瀬邦彦さん(74)がオーナーを務めていたライブハウスレストラン「ケネディハウス銀座」と言われている。

   加瀬さんは2015年4月20日に死亡が確認されたが、グループサウンズ「加瀬邦彦&ザ・ワイルドワンズ」は4月23日にこのケネディハウスでのライブを予定していて、加瀬さんもずっと舞台に立つことを希望していたのだという。

 「加瀬邦彦は、本人の体調不良のため、出演を見合わせることになりました。出演を楽しみにされていた皆様には心よりお詫び申し上げます」

   4月23日予定のケネディハウス出演ゲスト紹介欄には、こう注釈が付いていた。加瀬さんは14年2月に下咽頭癌を発症し、手術を行った後もステージに復帰することを目指していて、グループ名に自分の名前を入れ続けた。ワイルドワンズの公演は月に1回ペースで行われていて、それ以来ずっと先の注釈が付けられることになった。

   「昭和歌謡ブーム」と言われだしたのは2012年頃からで、今では西城秀樹さん、今陽子さん、あべ静江さん、 伊藤咲子さんなどが出演する「同窓会コンサート」が全国で開催され、熱狂の渦になっている。さらに、昭和歌謡が堪能できるバーが各地にオープンして大盛況になっていたり、CS放送「クロスカヴァー・ソングショー」など昭和歌謡をテーマにした歌番組が増えたりしているなど、ブームは拡大している。

   フォークシンガーの杉田二郎さん、高山厳さん、因幡晃さんなどが結成したニューグループ「ブラザーズ5」も登場した。昭和歌謡専門のCD・レコード店まである。加瀬さんのケネディハウスは1983年にオープン、60~70年代のグループサウンズ、ポップスを中心に生演奏を披露してきた。実は、「昭和歌謡ブーム」の火付け役としても知られているのだ。2015年4月、5月の出演者はジャッキー吉川とブルーコメッツ、「ビリーバンバン」の菅原進さん、「フォー・セインツ」の上原徹さんらだ。1995年以降は加山雄三さんが参加し、現在は月1でライブを開いている。

  ケネディハウスを運営するエイティスリーによると、生演奏を聴かせる通常営業とゲストライブの2本立てで営業をしていて、客層は40代以上のミドル層が中心だが、30代もいる。ゲストによっては客の半数以上が女性という日もある。誰でも知っている曲になると、

 「みなさんで一緒に歌ったりもしていて、その一体感は半端ないこともある」

 といった盛り上がりを見せるのだという。加瀬さんに関しては、14年2月の手術以降は自宅療養をして復帰を常に目指していたが、お店に顔を出すことはなかったという。また、加瀬さんの死亡の影響もあり23日のワイルドワンズの公演は中止。翌月の5月1日に振り替える、と説明した。

   このケネディハウスが支えてきた「昭和歌謡ブーム」だが、どうしてこれほどまでなったのか。2013年11月23日に昭和歌謡専門のCD・レコード店「昭和歌謡館」を東京新宿にオープンしたディスクユニオンの担当者はこう解説する。

   今の音楽に魅力がないため以前に大ヒットした曲や歌手を思い出し、そこに流れて行った、という説もあるが、それは違うのだそうだ。

 「生活にゆとりが出来たり、仕事が一段落した方々がCDを買ったりコンサートに行ったりしています。そのムーブが大きく、テレビや雑誌で取り上げられ浸透し、歌謡曲を知らなかった若い世代も巻き込んでいっているのでしょう」

 

○加瀬邦彦さん告別式に岸部一徳ら380人参列

 

  20日に自殺したザ・ワイルドワンズのリーダー加瀬邦彦さん(享年74)の葬儀・告別式が28日、東京・護国寺の桂昌殿でしめやかに営まれた。ザ・タイガースの岸部一徳、瞳みのる、森本太郎ら音楽関係者やファンら約380人が参列した。

 加瀬さんにギターを教え、グループの名付け親でもある加山雄三(78)は仕事で参列できなかったが、ボイスメッセージを届けた。加瀬さんのことを「弟分」と呼びかけた後で、今月25日に水戸市で行った公演で、故人を悼んで「旅人よ」を全員で合唱した音声を流した。同曲はザ・ワイルドワンズがコーラス参加しており、「皆さん、一緒に『旅人よ』を歌ってください。天国に届くように。加瀬、よく聞くんだぞう。音楽はみんなの心が1つになるんだ」。加山の呼びかけに応え、式場の内外で歌声が響き渡った。

 

 弔辞では3人があいさつに立った。最初に友人2人が、06年にグループ初の武道館公演を行った際、公演の約1週間前に体調を崩して食事が取れなくなっていたことや、「お世話になった世の中への恩返し」だとして、老人ホーム経営を志していたことを打ち明けた。

 

 3人目は加瀬さんが仲人を務め、グループでベースを担当する島英二(67)。加瀬さんは、昨年2月に下咽頭がんが判明し、同3月に声帯の摘出手術をした。「最後に会ったのは亡くなる5日前。その時に『検査で良くないことがあった』と話していましたね。苦しかったでしょう。それで決めてしまって…。そうだとしたら悔しい、残念です」と、自ら命を絶った恩人との惜別に声を振り絞った。

 

 加瀬さんが66年にザ・ワイルドワンズを結成したのは、ザ・ビートルズに憧れ、“和製ビートルズ”を目指したからだった。遺体が自宅で発見されたのが、元メンバー、ポール・マッカートニーの日本公演初日の21日。そして、この日はポールが49年ぶりに日本武道館に立つ日だ。くしくも、ザ・ワイルドワンズの誕生と加瀬さんの旅立ちの日に、憧れだったビートルズが深く関わっている。

 

 加瀬さんの魂は、武道館へ寄り道をしてライブを楽しんでから天に向かうに違いない。

 

○加瀬邦彦さん葬儀 加山雄三「つらい」

 

   グループサウンズ「ザ・ワイルドワンズ」のリーダーで、20日に死去した加瀬邦彦さん(享年74)の葬儀・告別式が28日、東京・護国寺でしめやかに営まれた。「ザ・タイガース」の岸部一徳(68)、森本太郎(68)、瞳みのる(68)、歌手・つのだ☆ひろ(65)ら関係者300人、ファン80人が参列した。

 涙ながらに弔辞を読んだメンバーの島英二(67)は、昨年2月に下咽頭がんを発症した加瀬さんへ、「発病の半年前から『声がかれる』と聞いていたから、『すぐ病院に行ってください』と言っても聞いてくれなくて…。強引にお連れしたら、今日のことはなかったかも」と後悔の念を吐露。「もっと一緒に歩いていきたかった。生きていてほしかった」と声をふるわせた。

 加瀬さんの恩師的存在である歌手の加山雄三(78)は、仕事の都合で参列できなかったが、音声メッセージで「別れはつらいよ。60年もの間、親友だったんだからさ」と哀悼。ワイルドワンズがコーラスを担当した「旅人よ」を、「この曲は君と僕のキズナのようなもの」と表現し、加山が25日のコンサートで歌った同曲の音源が“はなむけの歌声”として斎場に流れると、ファンも涙をこぼしながら合唱していた。

◆ ゴールデン☆ベスト ザ・ワイルド・ワンズ
ザ・ワイルド・ワンズ・アルバム ザ・ワイルド・ワンズ 形式: CD

◆ 想い出の フォーク ニューミュージック 悲しくてやりきれない HERO 想い出の渚 チャンピオン 帰って来たヨッパライ ルビーの指環 港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ あの素晴しい愛をもう一度 戦争を知らない子供たち CD2枚組 WCD-610 加藤和彦と北山修 (アーティスト), & 19 その他

 この訃報ニュース記事は、ネットの2015年4月の記事のペーストなんだけど、僕の感想コメント記事文を書き込んでいなかったから、まぁ、放ったらかしになってしまってたんだけど、僕の小学生時代のヒーロー、加山雄三さんの弟分、加瀬邦彦さんの訃報ということで、何か感想文を書きたいな、とは思っていた。追悼感想文になる訳だけど、加瀬邦彦さんにまつわる僕の昔々の思い出なぞ書いて行きたい。加山雄三‐若大将‐加瀬邦彦‐ワイルドワンズ、というと僕の小・中学生時代が頭の中によみがえって来る。懐かしい、あの時代。

 加瀬邦彦といえば当然ワイルドワンズであり、ワイルドワンズといえばあの名曲、♪「思い出の渚」ですね。いつまでもいつまでも愛され続ける、素晴らしい昭和ポップ歌謡ですね。ワイルドワンズのデビューは1966年ですが、デビューから数年、昭和のグループサウンズ時代には「青空のある限り」や「愛するアニタ」など、他にもヒット曲を飛ばして当時は大人気でした。加瀬邦彦の作ったワイルドワンズはグループサウンズブームが終わった後、71年に一度グループは解散しましたが、その後幾度となく、度々再集結して、現代に至るまでバンド活動を行なって来ました。

 加瀬邦彦さん本人に、子供時代や少年時代の僕自身がそんなに思い入れが強かった訳ではないのですが、何せ、僕は子供時代、加山雄三の「若大将シリーズ」に大憧れでしたから、子供時分といえど、芸能情報でワイルドワンズのリーダー、加瀬邦彦が加山雄三の弟分だとは知っていましたので、デビュー曲の♪「思い出の渚」やその他の曲も好きでしたし、加瀬邦彦さんが楽曲提供した、沢田研二ソロの♪「危険なふたり」が大好きな曲でしたし。

 昭和のグループサウンズブームというと、60年代後半から起こって来て、最盛期は67年頃から69年くらいまでで、70年代初頭くらいまで続いたんだろうか。勿論、日本のポピュラー音楽シーンでは、その後も幾つも幾つもバンドは誕生しては解散し、を繰り返して来てるんだけど。日本のグループサウンズが活発になるきっかけは、やはり66年のビートルズ来日と武道館公演だろう。65年暮れに公開された加山雄三主演の「エレキの若大将」も、映画のテーマは若者のエレキギターバンドの演奏だったから、65年くらいから若者たちの一部は、ビートルズなどの海外バンドに影響されて、ボツボツ、学生仲間でバンド作って海外バンドの模倣をやってたんだろうね。

 ビートルズが来日した66年というと、僕は10歳から11歳くらいのときだから、興味は映画だったらクレイジー・キャッツとゴジラ、TVはウルトラマンの始まった年だから、TVの関心は「ウルトラマン」と「マグマ大使」なんかなんだろうな。加山雄三の若大将シリーズは、65年夏に初めて「海の若大将」を見て、若大将映画の虜になり、それから中一くらいまでは若大将映画を毎年毎回、熱狂的な気持ちで見るようになった。若大将はカッコ良かったし。音楽が出来て歌がうまくて、スポーツ万能、爽やかな好青年。正に若者の理想形でしたね。一方で怪獣映画に魅せられていた小学生の僕も、当時はませくれていたガキで、若大将のような若者になりたいなあ、と憧れていました。

 そして、話はだいぶ飛びますが、僕の高校生時代、60年代グルーサウンズの代表格、ザ・タイガースを解散してソロになった沢田研二さんが、6曲目に出したシングル曲、♪「危険なふたり」、このヒット曲の作曲担当は加瀬邦彦さんでした。僕はタイガース時代から、沢田研二さんボーカルの曲って、そんなに印象深く思っている曲はないのですが、この「危険なふたり」という曲だけは別です。僕はこの曲が大好きでした。YouTubeで見た、還暦を越えた沢田研二さんが、バックバンドにワイルドワンズを置いて、ジュリーWith ワイルドワンズで歌った「危険なふたり」には感激しました。

 YouTubeで、ワイルドワンズが歌う、ランチャーズのヒット曲、♪「真冬の帰り道」のライブ映像を見つけて聴いて、とっても音も良くて感激したんですが、この曲はランチャーズの持ち歌で、加瀬邦彦さんが作った曲ではありません。ライブ演奏では、ワイルドワンズの鳥塚繁樹さんがボーカルを取ってます。♪「真冬の帰り道」の作曲は、元ランチャーズのメンバーで、加山雄三の従兄弟に当たり、内藤洋子のご主人で喜多嶋舞の実父になる、喜多嶋修さんの手に寄るものですね。この曲の作詞担当の水島哲さんは、古くからの日本歌謡ポップの専業作詞家で、後には音楽評論家の肩書きが着いてますね。♪「真冬の帰り道」は♪「思い出の渚」と並ぶ、モダンフォークロック調の、昭和歌謡ポップスの名曲ですね。

 ♪「危険なふたり」がヒットしたのは1973年で、この曲そのものも大好きだったんですが、印象深く記憶する僕の思い出があって、まぁ、別に他人が聞いても何でもない話なんですが、僕の高三時代、高三のときのクラスメートで当時の親友のSM君とは、校内でも放課後でもよく一緒にツルんでいたんですが、多分、高校卒業を間近に控える、高三三学期だったと思うんですけど、ひょっとすると記憶違いでもっと前の話かも知れないけど、放課後SM君の家へ寄ると、SM君はバス通学だったから多分、このときは一緒にバスでSM君の家へ寄ったんだろうけど、SM君には、農家だったSM君の家の納屋か車庫かを改造した、SM君一人の部屋があり、確かひと間の部屋だったと思うけど、豪華ステレオセットで大音響でジュリーの♪「危険なふたり」を掛けており、そのロック調のミュージックをBGMに部屋のガラス戸を開けて出て来たSM君の姿を、何故か印象深く憶えている。極めて個人的な記憶の思い出だけど。いや、SM君は列車通学だったのかも知れない。今は廃線になったローカル線がまだ走ってた時代だったし。列車通学で先に帰宅してたSM君を、僕がバスに乗って訪ねたのかも。まぁ、ドーデモイイヨーナ話なんですが、「危険なふたり」というと、僕は先ず、SM君のこのシーンを思い出し、それから高三時代のことをあれこれと思い出す。懐かしい。

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大正テレビ寄席 ..(2)

2015年10月18日 | 芸能ログ

○落語家の橘家円蔵さん死去 ナンセンスギャグの連発で人気

 

  黒縁眼鏡がトレードマークだった落語家の八代目橘家円蔵(たちばなや・えんぞう、本名・大山武雄=おおやま・たけお)さんが7日、心室細動のため死去した。81歳。葬儀・告別式は近親者で行った。

 昭和9年、東京都生まれ。27年に七代目橘家円蔵に入門。40年、真打ちに昇進し、五代目月の家円鏡となり、「ヨイショの円鏡」の名で親しまれた。下町の語り口やナンセンスギャグの連発で人気を呼び、ラジオやテレビCMなどでも活躍。「うちのセツコが…」のギャグが大当たりとなった。57年に八代目橘家円蔵を襲名し、落語協会相談役も務めた。

 

○訃報:橘家円蔵さん81歳=独自の演出、「落語四天王」

 

  ナンセンスなギャグとトレードマークの黒縁めがねで、お茶の間の人気を博した落語家の橘家円蔵(たちばなや・えんぞう、本名・大山武雄=おおやま・たけお)さんが7日午前3時半、心室細動のため死去した。81歳。葬儀は近親者で営んだ。

 1952年、月(つき)の家(や)円鏡(えんきょう)(七代目円蔵)に入門して竹蔵。55年二つ目に昇進し、升蔵(ますぞう)を名乗った。前座時代には大師匠である昭和の名人、八代目桂文楽の内弟子もつとめた。65年に真打ち昇進して、師匠の前名である月の家円鏡を襲名。古典落語に独自の演出を施した高座で売れっ子となり、古今亭志ん朝、立川(たてかわ)談志、三遊亭円楽とともに、若手真打ちとして「四天王」と呼ばれ、「死神」「らくだ」などを得意とした。

 当意即妙のナンセンスギャグで一躍、マスコミの寵児(ちょうじ)となり、「お笑い頭の体操」「やじうま寄席」などのテレビ番組で活躍。「ヨイショ」の掛け声や、内弟子修業中に知り合った夫人の名前にちなんで「セツコが……」とぼやくギャグが大当たり。出演した焼き肉のたれのCMなどで知名度は全国区となった。

 円鏡で売れっ子になり、82年に大名跡である円蔵の八代目を襲名。「円鏡時代の芸は畳みかける勢いがあってシャープだった。円蔵襲名後は、古典の人情噺も積極的に手掛けて、『鼠穴(ねずみあな)』は人間の哀れを感じさせて、とてもよかった」と演芸評論家の京須偕充(きょうす・ともみつ)さんは振り返った。

 2010年6月に節子夫人を亡くしてからは、体調を崩して高座から遠のき、12年9月下席の浅草演芸ホールが最後の高座となった。同じ落語協会に所属する三遊亭円歌さんは「あの人は舞台も楽屋も同じ。客席が沸いた余韻で、明るい顔で楽屋に戻り、今度は楽屋を笑わせてました」と惜しんだ。

 73年放送演芸大賞。落語協会相談役。

 

大正テレビ寄席の芸人たち 単行本 山下 武 (著)

八代目橘家圓蔵の泣き笑い人情噺 単行本

てんてん人生―伝記・橘家円蔵 (伝記叢書 (290)) 単行本

もう一度学びたい 落語のすべて 落語会 DVD付き 単行本

 



 この私の拙ブログ、「生きたまま極楽!」の2013年4月の記事に、タイトル「大正テレビ寄席」というのがあって、そちらで、昔々の昭和の大人気演芸番組、「大正テレビ寄席」については、僕の思いを一度書き込んでいるので、ここの分の記事は、いわばその続編みたいなものになるので、ココの記事タイトルを「大正テレビ寄席..2」、としました。

 前回は、昭和の日曜正午に長期に渡って放送され続けた、当時の大人気爆笑演芸番組、「大正テレビ寄席」の総合MCを最初から最後まで勤めて来られた、ウクレレ漫談で一世を風靡した牧伸二さんの訃報に際して、訃報ニュースのペーストと共に、懐かしい牧伸二さんの僕の思いを書き込んだ記事だった。牧伸二さんといえば、僕らの世代に取っては、何といっても「大正テレビ寄席」だし。

 僕は、小学校・中学校時代は、学校の勉強ほとんど全くしない、漫画が全てというような、漫画中毒みたいな漫画漬けな子供生活だったけど、実はTVっ子でもあった。子供時代の僕の人生の第一番が漫画なら、第二番目がTV番組だった。子供時代は前半がヒーローもの子供向けドラマ、中期が「ウルトラマン」、後期は何だろう?青春ドラマと歌謡番組かな。そして子供時代全部を通して大好きだったのが、当時のお笑い番組。演芸番組も舞台劇コメディー番組も、お笑いベースのコメディードラマも、お笑いものは全部大好きだった。ああ、漫画ほど熱狂しなかったが、アニメもよく見ていた。

 1963年から始まった、大正製薬一社提供の演芸番組、「大正テレビ寄席」は僕の子供時代、毎週日曜日の正午からやっていて、お笑い番組大好きな子供だった僕は毎週楽しみにして見ていた。落語と漫才が中心で、だんだん一人漫談やトリオ漫才、コントなどが増えて行った。中にはドリフターズやドンキーカルテットのようなコミックバンドも出て来た。この「大正テレビ寄席」から、コント55号を代表格とする、昭和の錚々たる爆笑スターが幾人も出て来た。

 小学生の僕は、漫才とコントとコミックバンドが大好きで、落語は好きな落語家とそうでもない人と分かれた。やはり小学生で、難しい落語は解らないから面白くなく、子供に届くシンプルな笑いがウケた。お笑いの総合的な人気とは今も昔も、子供ウケする笑いで(僕の個人的な思いではありますが…)、あの時代から子供にもウケる演芸家が大衆人気が高かった。だから落語家さんもくだいた古典落語の話をしながらも、子供ウケするシンプルなギャグを頻繁に差し込む人が、人気があった。僕もそういう、くだけた落語家さんが好きだった。漫才も、コロンビアトップ・ライトとか政治の話を入れる人のは、難しくて解らず、面白くなかった。

 当時、僕は、月の家円鏡さんは面白くて好きな落語家さんの一人だった。月の家円鏡さん、後の橘家円蔵(圓蔵)さんですが、落語家の名跡“月の家円鏡(圓鏡)”を継いだのが、というか月の家円鏡を襲名したのが1965年ということですから、僕は最初から月の家円鏡さんで覚えてたから大正テレビ寄席には途中から出てたのかな?まあ、あの当時の超人気お笑い番組、「大正テレビ寄席」には次から次と漫才、漫談、落語、コント、コミックバンドの、お笑いの人がイロイロいっぱい多種多様、出てましたから。あの時代では「大正テレビ寄席」出るのは、お笑いやってる人の一つのステイタスだったんじゃないかなあ。お笑いジャンルで売れてる有名人、って。お笑いスター、かな。

 僕は高校生くらいになってから、お笑い番組はあんまり見なくなったかなあ。「俺たちひょうきん族」まで、お笑い番組って見てないなあ。だからコント55号まで見ていた萩本欽一さんも、「欽ドコ」とか欽ちゃん単独でやってたバラエティーは、ほとんど見てないなあ。萩本欽一最盛期、僕はTV持たなかったからなあ。だからドリフターズも後半は見てない。「カトちゃんケンちゃん」とかも見てないなあ。「俺たちひょうきん族」は大好きな番組だったけど、ちゃんと見出したのは帰郷して以降だな。86年以降。

 僕がTVで見ていたのは月の家円鏡さんの時代で、いつの間にか橘家円蔵(圓蔵)さんに名前が変わっていて、橘家円蔵さんに名前が変わった情報は雑誌かラジオで知っていたけど、演芸番組とかTVで橘家円蔵さんを見たのは、覚えがないなあ。小学生時代に見ていた演芸番組での月の家円鏡さんは、面白くて見る度に爆笑していた。“昭和の爆笑王”林家三平さんの「♪よ~し~こさあ~ん、こっち向いて~」のヨシコに対抗して、月の家円鏡さんの「おい、セツコ」だったね。懐かしい。

 橘家円蔵さん、僕に取っては月の家円鏡さんも、81歳の年齢になられていたんだなあ。僕の子供時代、何も考えずに無邪気にただ爆笑する時間をくださって、どうもありがとうございました。ご冥福をお祈り致します。ここのブログも、すっかり訃報ブログになってしまった感だけど、僕の子供時代、少年時代、青年時代、楽しませてもらったり影響受けたりした、昭和の有名人が一人、また一人と現世を退場して、居なくなってしまうのは、いつもいつも寂しいものですね。

 ※(2013-4/29)大正テレビ寄席

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川島なお美さん

2015年10月15日 | 芸能ログ

○[川島なお美さん葬儀]盛大な拍手で出棺 鎧塚さん涙で「最後のお願い」

 

  胆管がんのため9月24日に死去した女優の川島なお美(本名・鎧塚なお美)さん(享年54)の葬儀が2日、東京・青山葬儀所で営まれ、関係者やファンら参列者1500人が拍手で出棺を見送った。川島さんの曲「偶然の後で」が流れる中、喪主を務めた夫でパティシエの鎧塚俊彦さんが「最後は大きな拍手で女房を送ってやっていただきたい」と涙でお願いすると、川島さんの棺を乗せた霊きゅう車に向けて参列者から盛大な拍手が送られ、「なお美ちゃーん!」「ありがとう!」と声も飛んだ。

 喪主を務めた夫でパティシエの鎧塚俊彦さんは出棺を前にあいさつに立ち、「妻・川島なお美は女優として貫き通してきました。そして今、最後の幕のどんちょうがまさに下りようとしています」と語り、「女房は拍手をいただけることを何よりも喜びとし、生きがいとしていたといっても過言ではありません。最後は大きな拍手で女房を送ってやっていただきたい。アンコールはございません。割れんばかりの拍手でなお美を送ってやってください」と涙で語った。

 この日の葬儀には、友人で作家の林真理子さん、川島さんが女優として憧れ、家族ぐるみで親交があった女優の倍賞千恵子さんをはじめ関係者900人が参列。林さんと倍賞さんが弔辞を読み、所属事務所の先輩で親交のあった片岡鶴太郎さんからの弔電も読み上げられた。また、敷地内には献花台も設けられ、駆けつけたファン600人が川島さんとの最後の別れを惜しんだ。

 ◇主な参列者(敬称略)

 倍賞千恵子▽林真理子▽別所哲也▽秋野暢子▽秋元康▽デヴィ夫人▽三波豊和▽中島美嘉▽湯川れい子▽吉田照美▽彦摩呂▽ウド鈴木▽松本明子▽小倉久寛▽錦野旦▽西川史子▽黒岩祐治▽鳩山邦夫

批判、共感、羨望――川島なお美に女性が向けた思いと、“女優”であり続けた彼女の生き方


  9月24日、女優の川島なお美が逝去した。ガンを公表していたとはいえ、直前まで頻繁にメディアに登場していたし、舞台にも出演していたこともあり大きな驚きだった。筆者の周辺でも特に40代~50代の女性が、大変ショックを受けていた。女子大生、お嬢様ブームの礎を作り、バブルの申し子のような立ち振る舞い、ペットの犬を溺愛し、ワインをたしなむ。晩婚でも年下の“世界のパティシエ”をゲットし、喧嘩の様子を披露しながらも実は仲睦まじい。

 こんななお美をある時は批判し、ある時は共感し、羨む。なお美と共に歩いてきた世代だからだろう。亡くなってその存在の大きさ、強烈さを見せた。それが川島なお美という女優だったのかもしれない。ワイドショーも連日トップ扱いでこれを報じているが、個人的にも「噂の真相」(噂の真相)時代、筆者にとってなお美はスキャンダルターゲットとして絶大な存在だった。『失楽園』主演をゲットし、その原作者の作家・渡辺淳一との不倫関係に陥る。枕営業などという批判などものともしない関係が続き、北海道への不倫旅行を楽しむ。「噂の真相」ではそれらを追跡し、記事にしてきたからだ。

 そして女性週刊誌も各紙揃ってなお美を取り上げている。そこに描かれるのは死の直前まで“女優”であり続けた壮絶なまでの生き方だ。

 なお美は今年1月と2月に行われたミュージカル『パルレ~洗濯~』に出演し、9月からの再公演にも出演していたが、主演の石川えりは「週女」の取材にこう答えている。

 「私たちにはつらそうなそぶりも見せませんでした。私たちの知っている“元気ななお美さん!”という感じで。正直、私はそんなに体調が悪くなっているなんてわからなかったんです」

 近くで接していた仕事関係者がこういうのだから、世間はもっとそうだ。しかしなお美は日々激痛と闘っていたという。

「川島さんが、激痛や闘病の涙を人には見せまいとしたのは、“女優として人生を全うしたい。最期の瞬間まで舞台に立っていたい”という願いがあったからだという」(「女性自身」より)

「激やせした姿で堂々と公の場に現れ、ブログに病床の写真を公開する。どこまでの女優魂なのか――」(「女性セブン」より)

 2013年夏の時点で余命1年だと宣告されたなお美だったが、しかし前向きだった。それは女優としてだけではない。

 「亡くなったシナモン(なお美の有名な愛犬)の“甥”に子供たちが生まれたのですが、川島さんが『うちのコにどうかしら』と検討していたというのです」(「女性自身」より)

 また夫・鎧塚俊彦へのサプライズ誕生パーティも予定していたことも明らかになっている。

 追悼のヨイショ記事を超え、胸に迫るものがある。それが川島なお美の生き方だった。ご冥福を祈りたい。

 そして最後にひとつ気になったこと。それが芸能人は亡くなると呼び捨ての敬称略から“さん”付けされることだ。今週の女性週刊誌の中では唯一「セブン」だけが逝去前に書かれた記事で「川島なお美」と呼び捨て。他2誌は“さん”付けしているが、以前の記事は呼び捨てだ。

 芸能人は亡くなると“さん“が付く。なんとなくわかっていたけど、あらためて新鮮な発見だった。

 

愛して、愛して、癒されて 単行本 –  川島 なお美 (著)

鍵 THE KEY [DVD] 川島なお美 (出演), 柄本明 (出演), 池田敏春 (監督) 

◆チャイコイ DVD 川島なお美 (出演), イ・テガン (出演)

◆ 極道の姐 玲子 [DVD] 川島なお美 (出演), 本田博太郎 (出演)

失楽園 DVD BOOK 上巻【DVD×2枚組・第1話~第6話・300分収録】 (宝島社DVD BOOKシリーズ) 大型本

 

 僕の若い頃、 川島なお美さんはアイドルで、20代半ば頃の年齢だった僕は、川島なお美さんが大好きでした。アイドル時代の川島なお美さんは、本当に可愛かった。

 当時は、サラリーマンの僕が都内中央区にある営業所から、群馬太田から埼玉熊谷へと左遷というか、都落ちみたく、都内中央の営業所から地方の営業所へ飛ばされたときで、当時、僕は行田市内の、会社借り上げのアパートに住んでいて、元来僕は酒飲みでもないのに、近所の酒屋で、普段は飲みもしない高いウイスキーを買って、景品というかおまけの、川島なお美の特大ポスターを貰って来て、殺風景な部屋に貼って、毎日うっとり眺めていたものでした。あの当時、多分、サントリーだったんだろうな、リザーブだったか何だったか、ウイスキーを買うと、川島なお美さんのレオタード姿か何かの、多分、レースクイーンみたいな格好だったと思うんだけど、特大ポスターが貰えました。それが欲しいばっかりに僕は、飲みもしないウイスキーを買って来た。

 今の僕は全くアルコール類は口にしませんが、会社員当時は、普段、家では飲まないけれど、付き合いでは大いに飲酒していました。職場で上司や同僚と飲みに行った際には、けっこう飲んでました。付き合いで飲むだけでしたが、ときどきは大酒喰らってベロベロに酔っ払ってましたね。まあ、若い頃の話ですが。僕は酒は弱い方なんですけどね。飲み過ぎた翌日は、大変なことになってました。翌日の勤務先で、こんな思いをするんなら、あんなに飲むんじゃなかった、っていつも後悔してましたが、付き合いだと何故か、割りと大酒飲んでましたね。でも基本、僕は酒は弱い方だった。勿論、付き合いだからこそ飲むんであって、決して酒好きでも何でもなかった。だから、独り酒はほとんどしたことないですね。

 また、僕の若い頃のサラリーマン時代の中の、その、熊谷営業所勤務時代、僕は会社のセールス車バンを、熊谷駅から近いパーキングに駐車して、熊谷駅を中心とした繁華街や熊谷のオフィス街をセールス鞄を提げながら、ワイシャツ・ネクタイ姿で客周りで、よく歩き回っていましたが、ある日のこと、熊谷駅構内で、「川島なお美一日駅長さん&ミニミニコンサート」という、小さなイベントがありまして、これはウィークデーの日中でしたが、僕は勤務時間中でしたが、営業の仕事で街を歩きがてら、駅に立ち寄り、川島なお美ミニミニコンサートを見ました。入場料は、普通の駅の入場券でOKでしたから、お金はほとんど掛からなかった。

 このときのミニミニコンサートで、川島なお美さんは多分、二曲ぐらい歌ったと思うんですが、実際のところ、多分、レコードかテープか音源を流して口パクだったと思いますが、そのイベントが終わった後、新曲レコード即売&握手会がありましたが、勤務時間中の僕は恥ずかしくて、握手にはとても行けず、このときはミニミニコンサートを見た後は駅を立ち去り、後で熊谷商店街のレコード屋さんで、川島なお美のアルバムのカセットテープを買いました。

 とても可愛らしいアイドルだった川島なお美さんに関する、若き日の僕の思い出はこの二つですね。

 その後は、やはり「お笑い漫画道場」ですね。この番組が好きで、いつも見ていたように思います。この頃の川島なお美さんも可愛かったですねえ。「お笑い漫画道場」って、いつ頃やってた番組だったんだろう?って調べてみたら、かなり長期に渡って続いてた番組だったんですねえ。マドンナレギュラーが、川島なお美さんに変わって、森山祐子さんのときも見てた。何と76年から94年まで、18年間くらいやってたバラエティー番組だったんですねえ。僕が見てたのは後半ですね。多分、「お笑い漫画道場」を見始めたのって、東京の会社を辞めて地方に帰って来てからこっち、でしょうね。僕が見始めたときから番組のマドンナは川島なお美さんで、89年からマドンナは森山祐子さんに変わった。森山祐子さんも好きなタレントさんだったけど。森山祐子さんというと印象に残っているのは、SFアクション映画の「ゼイラム」だな。

 でも、ま、「お笑い漫画道場」というと、川島なお美さんですね。大好きでしたねえ。その後は、土曜ワイド劇場など2時間ドラマでよく見た川島なお美さん。特に印象深く憶えているのは、愛川欽也さん扮する考古学の大学教授の助手役で出てたシリーズ。あの頃も可愛かったなあ、川島なお美は。

 僕は18歳から30歳までTVを持たなくて、ほとんどTV見ない生活をしてたんですが、帰郷して地方で生活を始めてからも、TVはよく見てましたが、30代40代はドラマはあんまり見てませんでした。で、僕は2時間ドラマを見る習慣がほとんどなくて、2時間サスペンスはあまり見て来なかったんですが、当時、仕事を終えて、ちょこっと寄り道しながらも帰宅すると、調度TVの2時間サスペンスが始まったくらいの時間で、今は亡き僕の母親が、2時間サスペンスが大好きで各局の2時間ドラマ、全部見ていて、帰宅した僕が夕飯食べてるとき、TVで映ってた。僕は積極的にちゃんとドラマを見てた訳ではないけど、そういう訳で、川島なお美さんが出演する2時間ドラマも部分部分で見ている。で、一番印象深いのが、考古学教授の助手役を可愛らしく好演していた川島なお美さん。でも、この頃の二時間サスペンスは、僕の晩飯中に見てただけで、後は風呂入ってたから、前半を部分的に見てたくらいですけどね。

 川島なお美さんは30歳を過ぎても可愛らしく、そしてその後の女優人生でも、年齢を感じさせずいつまでも美しい女性だった。バラエティー番組でのアシスタントやゲストでも、流暢に喋り滑らかに番組を進行させ、番組の随所で気の利いたコメントを出し、実に如才がなく、頭の良さを感じさせるタレントさんだった。僕は女優の川島なお美さんを、あんまりよくは見てないんだけど、その頭の良さやタレント性から、女優の才能もたいしたものだったんだろうと思います。

 54歳で亡くなるのはあまりにも若いですが、僕の若き頃、その可愛らしさで、僕を夢中にさせてくれて、どうもありがとうございました。青春の一ページの一片の思い出ですね。天国でも、美しく優雅に過ごされてください。

 追伸みたくなりますが、川島なお美さんの歌では、僕は♪Ash Wednesday-アッシュウェンズデイ- という曲が好きでした。♪ラブミータイトという曲もうろ覚えで憶えている。ヒットした、中原メイ子さんが作詞作曲した曲、♪GEMINI-ジェミニ- という歌もなかなか良い曲だったな。懐かしい。はっきりしない記憶だけど、♪Ash Wednesday という曲は、作ったのは杉真理さんだったんじゃなかったかな。作詞作曲どっちもだったかはよく憶えてないけど、作曲は杉真理さんだったように思う。川島なお美さんの歌はカセットテープでしか持ってなくて、もう随分前から手元にはないけど。

ゴールデン☆ベスト Naomi Kawashima 川島なお美 形式: CD

 調べたら、♪アッシュウェンズデイは作曲だけ杉真理さんで、作詞は別の方。♪ジェミニは作詞作曲、中原メイ子さんですね。

 

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「断片」の再開 - 閉鎖ウェブリブログで最初(冒頭)の記事

2015年10月13日 | ひとりごとログ

 「断片日記。」の再開です。もともとは、僕は2005年から他のサイトですが、ブログを書き続けていて、ブログだと、何というか、記事文をちゃんときちんと、一つのエッセイ文みたく構成しなきゃいけないじゃないですか。記事の始まりから文章の終わりまで、ちゃんとまとめて一つの構成された文章にしなくちゃならない。これが面倒で、言いたい事をくどくど説明しながら、詳しく書き込む長文の記事ではなく、その、2005年から始めてたサイトのブログで、途中で、「Short&Danpen ‐ショートアンドダンペン-」というカテゴリを作って、思い付きを短い文で簡潔に書き込む、そういう趣旨のワクを作って、幾つか短い記事を書いたんだけど、これが続かない。やはりそのサイトは、そのブログの特色は、詳しく説明を入れた長文の記事のブログで、いつの間にか「Short&Danpen」は我ながら忘れ去ってしまった。そこのブログの記事内容の傾向で、どうしても詳しく説明した文章の長文記事になってしまう、というのも大きかった。

 その内“Twitter”が始まって、最初、Twitterには抵抗があったんだけど、始めてみれば、Twitterは使い勝手が良い。僕みたいに、記事文を書き込み出すと、放っておけばどんどん長くなってしまう者に取って、「140字制限」というのは非常に良いんですね。140字で強制的に止めてくれる。やたらくどくど長くならずに済む。

 でも“Twitter”だと140字制限が掛かるから、やはりものたらない。言いたい事を140字で言い終えないときは、どんどん回を重ねて書き込み続けて行くか、最初の書き込みをメインとして、それにどんどん続けて自分でコメントして行く。自分自身で、メイン書き込みに返信を重ねて行くんですね。言いたい事が長文でしか表せない場合は、そうやって同じ件で何度も何度も投稿してた。

 でもやっぱり“Twitter”じゃなあ~、ツギハギを続けて行くよーな感じだし。と、Twitterではなく、短文書き込み要旨でブログを書こう、と思って始めたのが、ここのウェブリグログの「断片日記。」だったんですね。Twitter書き込みの不満を解消するために、簡潔に言いたい事をごく短く書き込むブログ、事柄の断片でも良いから、Twitterよりも、もう少し長い文章を書き込んで行こうと、ウェブリグログで開設して「断片日記。」始めたんですね。

 でも、一度、このウェブリグログの「断片日記。」を閉鎖して、全記事をFC2ブログへと引っ越した。ごく一部だけは、例の2005年から続けてるブログへと記事を移して。

 “Twitter”よりも長い文章で、言いたい事を短く簡潔にを要旨として、開設した「断片日記。」だったのですが、僕の文才の無さか、頭そのものが悪いからか、僕の悪癖で、最初は短く簡潔に書こう、と思って書き始めた記事文が、書いてる内にどんどん長くなって行く。やたらくどくどした言い回しと、「連想」ですね。連想から思い付いた事柄まで書いて行ってしまう。つまり頻繁に横道にそれる。書いてる物事を詳しく説明してしまう。そんなこんなで、短く簡潔に事柄を表現しようと思って書き始めた文章が、どんどん長くなってしまう。

 で、書き込んでる記事が、タイトルの「断片日記。」に相応しくなくなってしまった。やはり僕の文才の無さと頭の悪さでしょうね。情けなかあ~、情けなかあ~。

 けどまあ、やはりTwitterよりも長く、あんまり長文にならない程度で、ブログで表現したい。言いたい事の断片、断片でも良いから。というコトで再開しました。「断片日記。」です。

 上記文中で、2005年から続けている他サイトの僕のブログを、ちゃんときちんと構成して書いて行ってるような言い回しで書いてますが、あそこの記事はほとんどが長文ですが、そんな出来映えの良い記事文ではなく、あそこの長文記事も、思い出し思い付きでどんどん継ぎ足し書き込んで行ってる記事文で、そんな、ちゃんときちんと構成して書いているような長文では、そんな立派な文章記事では、とんでもないです。いやいや本当に、文章書くのがヘタクソで恐縮してます。

 FC2ブログに移した記事群、元の「断片日記。」の記事たちですが、おいおいこっちに戻して行こうかな、とも思っています。カテゴリ「思い付き断片エッセイ」とかですね。

 まあ、僕の勝手な思いばかりで、他人様からすれば「好きにやれよ」ってコトばっかりなんですけど。それにしても「断片日記。」と言いながら、また、くどくどと長くなってしまった…。

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