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The Legend、高倉健さん逝く

2014年11月20日 | 芸能ログ

 

○【訃報】俳優の高倉健さん死去

 

  「網走番外地」シリーズなどの任侠ものや「君よ憤怒の河を渉れ」「幸せの黄色いハンカチ」「八甲田山」「鉄道員」など、数多くの映画で活躍した俳優の高倉健さんが、11月10日に亡くなっていたことがわかりました。83歳でした。

高倉さんは1931年生まれ。1955年に東映ニューフェイス第2期生として東映に入社し、1956年にデビュー。

1964年から始まった「日本侠客伝」シリーズ、1965年に始まった「網走番外地」シリーズ・「昭和残侠伝」シリーズなど、任侠映画に数多く出演。

新田次郎の小説「八甲田山 死の彷徨」を原作とした映画「八甲田山」では主役の徳島大尉を演じ、ブルーリボン主演男優賞を受賞。

このほかに、「幸福の黄色いハンカチ」(1977年)、「野生の証明」(1977年)、「海峡」(1982年)、「南極物語」(1983年)、「ブラック・レイン」(1989年)、「あ・うん」(1989年)、「ミスター・ベースボール」(1993年)、「忠臣蔵 四十七人の刺客」(1994年)、鉄道員(ぽっぽや)(1999年)など、長きにわたって活躍。最後に出演した映画は2012年に公開された「あなたへ」でした。

なお、映画に比べるとドラマへの出演はかなり数が少ないのですが、CMには何本も出演しています。

 

○高倉健さん死去:「不器用な男」日本人の美学重ね

 

  日本映画界最高の銀幕のスター、高倉健さんが10日、83年の生涯を閉じた。俳優の名前で多くの観客を映画館に呼べる数少ない俳優だった。晩年まで、私生活をほとんど公にすることはなく、役柄のイメージの高倉健を観客の心に残したまま旅だった。「健さん」として親しまれてきたのは、役の中での男の生きざまであり、高倉さん自身の生き方も重なって多くのファンが魅了された。日本映画は長年映画界をけん引してきた大きな柱を失った。

 高倉さんが人気を不動にしたのは任(にん)きょう映画。1960年代に大人気となった「網走番外地」「日本きょう客伝」シリーズなどは、学生運動に身を投じる若者らからも圧倒的な支持を得た。着流しのアウトローが逆境に耐えながらも復讐(ふくしゅう)を果たす物語に観客は熱狂した。多くを語らず、いざという時に体を張って、義理や人情を大事にする姿は、男っぽさの神髄と受け入れられた。

 任(にん)きょう映画の減少とともに、高倉さんは人間ドラマやアクション、大作へと出演映画のフィールドを広げた。ただ、過酷で暗い過去をひきずり、大きな重荷を背負って生きる役はその後もずっと続いた。青函トンネル開通に挑む男を演じた「海峡」(82年)、殺人事件を犯し逃亡しながらも母子家族の酪農を手伝う日本版「シェーン」といわれる「遥かなる山の呼び声」(80年)、引かれた女の元情夫が手配中の男と知り職務を遂行する刑事役の「駅 STATION」(81年)など。

 武骨で口数は少ないが、人の情を大事にする素朴な男。「幸福の黄色いハンカチ」はその頂点の作品といっていいだろう。愚直なまでのきまじめさ、人生を常に遠回りしてしまい、必死に生きていても損な役回りになってしまう男の姿に、観客は共感と人生のつらさ、悲しみを感じた。

 最新作「あなたへ」(2012年)がコンビを組んで20作目となり、高倉さんが最も信頼を寄せる降旗康男監督は同作で「健さんも年を取り、過去の重荷から解放してあげたかった」と話した。さらに、「普通の俳優は努力して人物のキャラクターに入っていくが、健さんはキャラクターを自分の中に入れてしまう。だから、相手とふれあうことでしか芝居が出てこない」。自身を「不器用」と言うのは「それを自認しているからだ」と説明した。

 

○高倉健さん、森繁・森光子さんと同じ日に逝く 「昭和よ・・ありがとう」、著名人の「追悼の声」続々

 

   2014年11月10日、悪性リンパ腫のため83年の生涯を閉じた俳優・高倉健さんに「追悼」の声が続々寄せられている。

   高倉さん最後の出演作となった2012年秋公開の「あなたへ」に出演した俳優・浅野忠信さん(40)は画像共有サイト「インスタグラム」で「高倉健さんの ご冥福をお祈りします 本当に悲しいです ありがとうございました」とコメントした。

 

「悲しい 寂しい 辛い」

 

   浅野さんは自身出演のハリウッド映画「バトルシップ」が公開された12年の会見で「高倉さんがいなければ、アメリカでも頑張ろうという気にならなかった」と発言するなど、多大な影響を受けていることを明かしていた。

 

   「高倉さんの若い頃に似ている」としばしば話題になる自分の容貌を意識したのか、若い高倉さんの白黒写真をメッセージに添えた。

 

   タレントの志村けんさん(64)は「悲しい 寂しい 辛い」と題したブログ記事を更新、高倉さんとの初めての出会いを振り返った。

 

   「どんな言葉でも物足りない温かい大きな手で握手して よろしくお願いします。生涯1番緊張して始めてお会いした時 楽屋に 何なりとお申し付け下さい 乙松(編注:「乙松」は1999年公開の映画「鉄道員(ぽっぽや)」で高倉さんが演じた役名) 綺麗な花がありました」と一つ一つ思い返すように綴った。

 

   そして「なんと優しい心使い 有難うございました 心からご冥福を御祈り申し上げます」と追悼した。

 

   続けざまにブログを更新し、「恵存 志村けん」と書かれた高倉さんからのサイン色紙を公開した。

 

   タレントの中川翔子さん(29)は1994年に32歳の若さで亡くなった父、中川勝彦さんに言及した。

 

   「父、中川勝彦は映画海峡の新人オーディションで選ばれて出演していました」と明かし、「日本の宝であるお方 ご冥福をお祈りいたします」「映画はずっと残る生きた証 本当にありがたいです」と語った。

 

   高倉さんの出演した映画の具体名を挙げる人も。音楽グループ「FUNKY MONKEY BABYS」の元メンバーで現在はソロで活動中のファンキー加藤さん(35)はツイッターで「『幸福の黄色いハンカチ』。大好きな作品で、何度も繰り返し観てました。ご冥福をお祈りいたします」とコメント。

 

   タレントのダンカンさんもブログで「網走番外地久しぶりに見て~!と、思っていた矢先の訃報...」と驚き、「昭和よ...ありがとう」とつぶやいた。

 

 

 

 

 高倉健さんというスターは、終戦前生まれから団塊世代、僕の少し前の世代、僕の世代までも入るのかも知れないが、そういう昭和世代から言えば、有名人スターとして“別格”でしょうね。またちょっとスターとしての意味合いが違うのかも知れないが、スポーツ選手だったら、昭和のスーパースター、長嶋茂雄選手くらいの感じかなあ。今のオヤジ世代から爺ィ世代の、別格の憧れ。昭和の、昔の“男イズム”の象徴。今の五十代六十代以上からは、正に“神”みたいな存在なんじゃないかな。

 それはやっぱり、「網走番外地」「唐獅子牡丹」を代表とする、仁侠映画の「健さん」でしょう。昭和世代からすると、銀幕の中の健さんのたたずまいが、たまらなかったんだと思います。東映ヤクザ映画路線が終わった後の映画の中でも、健さんのたたずまいはそんなに変わらなかったように思える。男が男に憧れる、シビれるカッコ良さ。正にカッコ良い男の極致、だったんだと思います。

 高倉健さんで思い出すのは僕が若い頃、まだ東京で働いていた頃ですが、仕事帰りで、多分、新橋あたりだったと思う、居酒屋みたいな飲み屋で、職場の同僚と一杯やっていて、当時、巷のウワサでは、江里チエミさんと離婚してから独身を通し、浮いたウワサの一つも上がらない高倉健さんに、「実はホモなのではないか」という、まあ、軽口のウワサが立ってたんですが、いい加減な芸能ゴシップですけど、そういうのがウワサになってた。僕は飲み屋で同僚に世間話として、ギャグの笑い話のつもりで話してたんですが、その時、隣の男性客に聞き咎められまして、真剣な口調で、「そんな話は嘘っぱちだ」と強く否定されました。

 隣の男性客は、当時で四十代前後か三十代か、まだ酔っている雰囲気ではなく、背広こそ着ていなかったけど、見るからにカタギの、ちゃんとした人ふうでした。自分が畏敬的に憧れる銀幕スターをけなされたというか、穢されたことが許せなかったんでしょう。それくらい熱烈なファンだったんでしょうね。相手も紳士然としていて、別に喧嘩口調でもなかったので、当時まだ、二十代半ばにもならない若輩の僕は、素直に、その隣の客の意見を受け止めました。僕にとっては単なる世間話で、ドーデモイイ芸能ゴシップの一つだったし。健さんのファンて、多分、そういう、男として男がリスペクトして敬愛してるような、そんな熱烈ファンが多かったように思う。

 日本映画は、僕が小学生の頃までは、まだまだ盛況の内にありました。僕の住む、地方の田舎町にも劇場映画館はアチコチに立っていて、週代わり二週代わりで、新作映画を二本立てで掛けてました。小学生の僕が、街中のあちらこちらで目にする、あの頃の映画看板を見るのが楽しみでしたね。大きな看板は手書きの絵看板で、小さな看板は写真ポスターだった。小学校中学年頃に、幾つもあった映画館がポツポツと店じまいし始めて、小六の頃には、町の中心地の二館だけになりましたね。僕が中学生になった頃には、映画の斜陽化が進んで、それから少しして、一館は建て替えて規模のぐんと小さな小屋になり、一館の方はイベント的にたまに上映するだけになった。僕が東京・関東圏から帰郷した時代には、一館はなくなり、一館は建物は残っているものの上映はしてませんでした。映画が娯楽の王様だった時代は、60年代までですね。高倉健さんが東映ヤクザ映画路線のヒーローとして、人気沸騰だったのは、60年代初め頃から70年代アタマくらいまでだろうか。勿論、その後も高倉健さんは銀幕のヒーローであり続け、例えば実写映画版「ゴルゴ13」の、デューク東郷を演じたりしてましたが。

 僕自身としては、実は、僕はヤクザ映画は苦手な方で、見ない方だったので、僕の心に残る銀幕のスターは、東宝の「若大将シリーズ」の加山雄三さんですね。それか、クレイージー映画の植木等さん。小・中学生時代の九年間、地方でも街の中に住んでた僕は、当時住んでた家の斜め前がロードショー館で、小学生時代は、子供だけど一人でも、よく映画を見に行ってました。子供だったので好きだったのはやっぱり、怪獣映画のような特撮や、若大将シリーズ、クレイジーを代表とするようなコメディ映画。必ず二本立てだったので、併映で他の吉永小百合の出るような青春ものや、勝新太郎の座頭市のような時代劇や、戦争映画なども見てました。併映で見たヤクザ映画もあるんでしょうが、どーも僕には、ヤクザ映画は馴染めなかった。日本刀で斬ってドバッと血しぶきが上がるのが、怖くて駄目だったし。時代劇だとそうでもないんですけどね。だから僕には高倉健という俳優は、少年時代は、それ程は印象深い役者さんでもなかったかな。無論、後年、僕が成人して見た「幸福の黄色いハンカチ」などの、感動もの映画ではいっぱい泣きましたけど。

 ヤクザ・任侠映画でのヒーローとしての、高倉健さんのカッコ良さにシビレたのは、僕の兄のような団塊世代がど真ん中でしょうね。そのちょっと上の世代あたりも、か。終戦前後生まれから団塊世代、そのちょっと若いくらいの人たちも、昭和20年代世代まで。そこがど真ん中の、「網走番外地」「唐獅子牡丹」に酔い痺れた年代でしょう。ラストシーンの、敵の悪辣なヤクザ組織の本拠地の、汚いやり口の組長の屋敷に、日本刀片手に単身乗り込んで行く、高倉健さん演じる主人公。あの姿にシビレまくったんでしょうね。最高にカッコ良かった、ですよね。

 僕が小学生の三年生か四年生かの頃、親戚がやってる、ナショナル家電専門の取扱店から、一応ステレオ式のちょっと大型のレコードプレイヤーを購入して、僕は当時好んで、「ウルトラマン」や「宇宙少年ソラン」「宇宙エース」なんかの、特撮やアニメのソノシートを買って来て聴いてましたが、僕より七つ八つ年上になる、調度、団塊世代の兄は、学校の友達から数々の歌謡曲のドーナツ盤と共に、高倉健歌う「網走番外地」と「唐獅子牡丹」のレコードを借りて来ていて、繰り返し繰り返し何度も聴いてました。健さんのヤクザ映画がヒットした当時、高二高三・大学一年生くらいの歳だった兄は、銀幕のヒーロー・高倉健に嵌まっていたみたいでしたね。本当に、若い頃、健さんに嵌まった今のオヤジから爺さん連中の人たちは、高倉健に対するファン心理は特別なものですね。何かこう、やはりリスペクト的な敬愛感というか、畏敬にも近いような、信者ファン心理だったように思う。まあ、僕が兄貴に特別、高倉健の話を聞いた訳でも無いんですけど。今から思えば、昭和の時代、高倉健は、正に“神”だったんでしょうね。

 僕も小学生の頃、兄貴が、高校や大学の友達から借りて来ていた、数多くの歌謡曲のドーナツ盤を、兄貴の居ないときに、レコードプレイヤーで聴いてましたから、そのとき一緒に「網走番外地」と「唐獅子牡丹」も何度も聴いていたので、自然と歌は憶えてた。確か「網走番外地」か「唐獅子牡丹」かは、当時、任侠道を賛美する歌詞が入っているとか何とかで、発売禁止か放送禁止かになったんですよね。そういう噂があったけど、発禁はなくとも、放送禁止はあったんじゃなかったか。子供の頃、そういう話を聞いていた。僕はヤクザ映画は苦手な方で、あんまり見ていないんだけども、大人になってから、カラオケで「網走番外地」は何度も歌ったことがある。少年時代、大人になってからも愛読した、真樹日佐夫原作・石井いさみ作画の青春巨編漫画、「のら犬の丘」の中で、サブの主人公、剣持次郎がギターの弾き語りで歌う、歌の歌詞が、「網走番外地」の歌詞と似てるなあ、とか思ったものだ。

 僕が青年時代大好きだった漫画、真樹日佐夫原作・影丸譲也劇画の格闘バイオレンスアクション劇画、「新書ワル」の中の一エピソードで、主人公・氷室洋二が単身、大規模なヤクザ組織の本拠地に乗り込む場面があるけど、あのシーンなんか、高倉健さん演じる東映ヤクザ映画の、まんまクライマックスシーンですよね。

 僕が二十歳になるかならない頃に読んだ「桃尻娘-ピンクヒップガール-」の作者、橋本治さんが東大在学中に描いた駒場祭のポスター、「止めてくれるなおっ母さん、背中の銀杏が泣いている、男東大何処へ行く」っていうポスター、あれは「唐獅子牡丹」のパロディーとして当時話題になりましたね。そういえば、「桃尻娘」の日活の映画版で、竹田かほりちゃんが主演した映画も、当時見に行ったな。懐かしい。

 もう本当に、このBlogは、僕が幼少時や少年時代、憧れ、胸いっぱい楽しみ、夢を与えてくれていた昭和のヒーローたちの、訃報ブログのようになってしまっているんだけれど、昭和の時代を作っていた、あのTVや映画や漫画のヒーローたちが次々と、現世を退場して向こうの世界へと行ってしまうのは、本当に寂しいものだ。一時代を築いた、男、健さんも逝ってしまわれた。やっぱり、寂しいね。寂しいしかない。

 

(2014-11/21)
○高倉健さんありがとう 全国各地に献花台

 

  10日に亡くなった俳優の高倉健さんをしのび、各地で19日に献花台などが設けられ、多くのファンが祈りを捧げた。

 高倉さんが主演した映画「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」の舞台になった北海道夕張市。映画のセットなどが再現されている「幸福の黄色いハンカチ想(おも)い出ひろば」は冬季休業中だったが、健さんの訃報(ふほう)を受けて19日に臨時開館し、黄色いハンカチが再び掲げられた。訪れた人が書いたメッセージカードがびっしり張られた「想い出の家」には献花台も設けられた。

 悲報から一夜明けた19日夕、網走市にも献花台が設けられた。網走は映画「網走番外地」ゆかりの地。道の駅流氷街道網走に事務所を置く市観光協会には、市民や来館者から「健さんの冥福を祈りたい」という声が寄せられ、急いで作った。 献花台の正面には健さんの出世作となった網走番外地シリーズ第1作の写真パネル2枚が飾られた。雪が降る中で受刑者が整列するシーンと、手錠をつないだままトロッコで逃げるシーンで、いずれもモノクロ。シリーズ 18作中、第1作だけがモノクロで、この大ヒットを受け、次々とカラー作品が作られていった。 献花台にはオホーツク網走フィルムフェスティバル(網走映画祭)実行委員会も協力。記帳簿も置いた。同観光協会は「網走は網走番外地のロケ地として全国に知れ渡り、網走観光の基盤となった。高倉健さんのご冥福を心からお祈りしたい」としている。献花台は今月末まで設置している。

 大阪では、北区の映画館・梅田ブルク7に献花台が設けられ、多くのファンが銀幕の大スターをしのんだ。 大阪市城東区の北池春子さん(70)は「『南極物語』は満員の劇場で立ち見しました。今となってはいい思い出です」と話した。ファン向けの献花台は京都市南区のT・ジョイ京都と東京・銀座の丸の内TOEIなどにも設けられた。 大阪市北区の大阪ステーションシティシネマと大津市の大津アレックスシネマでは、往年の名作を紹介する企画「新・午前十時の映画祭」で高倉さんの主演映画を上映中。28日までは大阪で撮影された米映画「ブラック・レイン」、29日から12月12日までは山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」が上映される。

 東京・銀座の映画館「丸の内TOEIの献花台には、約2500人のファンが訪れた。午後1時の開始時には100人以上の列ができた。東映東京撮影所の照明スタッフだった増川弘邦さん(75)は、「結婚したとき電報とお祝いをいただいた。スタッフみんなに好かれるいい人でした」。 北海道生まれの男性(71)は、故郷を舞台とした「網走番外地」をはじめ、全作をビデオでとってあるという。「男らしさが魅力。最高の人ですよ」 神奈川県から来た女性(60)は「男らしくて寡黙で、大好きでした。最後の作品『あなたへ』を見て、あれだけ愛されたら奥さんは幸せだろうな、と感動しました。今はさみしい気持ちでいっぱい」と話した。


  「健さん、お疲れ様でした」「安らかにお眠りください」。北九州市小倉北区の映画館T・ジョイリバーウォーク北九州にも献花台が設けられた。 同区の千々和正治さん(62)は「中学校を卒業して働き始めた時、初めて見たのが健さんの任俠(にんきょう)映画。苦しい時や落ち込んだ時、健さんの映画で救われた。お疲れ様でした、ありがとうと言いたい」。傍らに、東映グループの岡田裕介会長が「高倉健さんありがとう」と書いたパネルも設置された。 福岡市博多区のT・ジョイ博多にも献花台が設けられた。同市早良区の主婦菅原利佳さん(49)は「子どもの頃家族で『幸福の黄色いハンカチ』を見た。一番初めにかっこいいと思った大人の役者さんだった」と手を合わせた。 T・ジョイ系列の映画館ではこの日、各地で献花台を設置。花が手向けられた献花台の様子を撮影し、故人が所属した高倉プロモーションに送るという。

 

○高倉健さん死去:出身地に献花台 福岡・中間市

 

  10日に亡くなった俳優、高倉健さん(本名・小田剛一)を追悼する献花台が20日、出身地の福岡県中間市の文化施設「なかまハーモニーホール」1階に設けられた。1996年11月の開館式に高倉さんが来賓として招かれており、市が献花の場所に決めた。25日まで受け付けている。

 献花した東筑高の同級生、安部一正さん(83)=中間市浄花町=は「剛ちゃんはボクシングの同好会を作ったり、芦屋にいた米軍に英語を話しに行ったりして新しいことが好きだった」と遺影を前に思い出を語った。

 また、北九州市門司区の映画資料館「松永文庫」は20日、高倉さんが出演した映画のポスターの展示を始めた。門司でロケをした「あなたへ」(2012年)などのポスターをそろえた。高倉さんは11年に文庫を訪れている。その際熱心に見ていた新聞記事などの資料も加えた追悼展を12月13日から開催する。

 

 

 健さんの訃報を受けて、有名人など業界の方々のコメントが、TV画面やネットで流れましたが、生前の健さんは数多くの業界人に、リスペクトを伴って愛されていたみたいですね。業界人で、高倉健を嫌いだった人は居なかったのではないか、というくらいの感じですね。業界で高倉健を悪く言う人は居なかったのではないか、と思えるくらい。やっぱりあの人柄でしょうね。人柄というか、きっちり一本、太い筋の通った精神性と、他の人たちを思い、また、この世の中と他の人たちに対する感謝の姿勢、なのかな。

 孤高の健さん。健さんは戦後・昭和・平成のメディアの中で、唯一、もうああいう有名人は現れないのではないか、と思えるようなスターでしたね。そういう気がする。無論、ファンら我々一般人は、健さんのプライベートやプライベートで見せるキャラクターなど、私生活面を全然知らないのですが、健さんに限っては、プライベートが解ったところで、健さんに対する人々や世間の評価はそんなに変わらない気がする。

 「日本人に生まれて良かった」‥、紫綬褒章、文化功労者の受賞に輝いた健さんが、2013年、文化勲章を受章したときの言葉だったと思いますが、世界に誇れる日本人性の見本というか、日本人の象徴みたいに思える、そのたたずまいに、人々は、世間は、ああ、高倉健こそ日本人を代表する人だったな、と納得するんじゃないかな、と、そんなふうに思いました。例え、その俳優人生の始まりの映画デビュー時頃が、ヤクザ映画のスターだったとしても。

 まあ、人々はみんな、ヤクザ映画でも、その後のアクション映画でも感動映画でも歴史映画でも、健さんが銀幕の中で体現してみせる、男の、サマザマなカッコ良さに、シビレまくってたんですから。どれも、正に、“男”のカッコ良さですね。

 東映で若い頃、先輩後輩の仲で、ヤクザ映画路線でも仕事を伴にした名俳優、梅宮辰夫さんが、会見で涙ながらに「健さんにもう一度会いたかった‥」と言っていた、あの泣き顔が印象的でした。

 ヤクザ映画が苦手な方だった僕も、少年時代、若い頃、機会があって健さんの東映ヤクザ映画は何本かは見てますが、「唐獅子牡丹」て、独立した一つのヤクザ映画だとばかり思ってたんですけど、「唐獅子牡丹」は、当時の東映の「昭和残侠伝」シリーズの中の一作だし、またシリーズ主人公・花田秀次郎の背中の刺青であり、シリーズ通して、花田秀次郎その人の象徴、みたいですね。思い返せば、ヤクザ映画の高倉健さんの映画シーンは幾つか、記憶してるワンカットシーンはありますが、ここまで書いていて申し訳ない、僕自身が何分にも少年時代、ヤクザ映画が苦手だったもんで、東映の仁侠映画そのものは、あんまり印象的には憶えていませんでした。

 

 ○健さん「人間嫌いに…」梅宮辰夫明かす

 

  俳優の梅宮辰夫(76)が19日、都内で「花の国コロンビア 11月22日いい夫婦の日、大切な人に花を贈ろう」キャンペーンの開始イベントに登場し、改めて映画「昭和残侠伝」などで共演した高倉健さんについて語った。

 梅宮は、東映ニューフェースの3期後輩。かつて、千葉真一や故・山城新伍さんと高倉さんを慕う「野郎会」を結成したこともある。「俳優としてではなく、兄さん、兄貴なんで。いろいろな思いがあります」と固い表情で語り、高倉さんが偲ぶ会を開催しないでほしい、と遺志を残していたことについて聞かれると、「人間嫌いのきらいがあったみたいだから」と話した。

 

 

 これはまあ、言葉通りの「人間嫌い」っていうより‥、人間不信から来る「人間嫌い」じゃなくて、何ていうか、“人間”そのものは好きなんだけど、一人で居るのが好き、とか、人付き合いがわずらわしいとかいう、人付き合いの面倒さ、みたいなものじゃないかなあ。人間愛は心の底にあった人だと思えるけど。ああいうスーパースターになると、余計に、普段の生活の中で、いちいち人に気を遣って生きるのが、かなり面倒だったんじゃないかなあ。そんなように思う。

 

 

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桂小金治さんの訃報

2014年11月05日 | 芸能ログ

○桂小金治さん死去 「怒りの小金治」から一転「泣きの小金治」に

 

  ワイドショーの司会などで親しまれた落語家でタレントの桂小金治(かつら・こきんじ)さんが3日午後4時45分、肺炎のため川崎市麻生区の病院で死去した。88歳だった。

 66年「アフタヌーンショー」(テレビ朝日)の司会では、社会問題を積極的に取り上げ「怒りの小金治」というキャッチフレーズまで付いたが、75年スタートの「それは秘密です!!」(日本テレビ)では、「ご対面コーナー」で感動のあまりしばしば号泣し、一転して「泣きの小金治」と呼ばれた。

 

落語家の桂小金治さん死去

 

  テレビのワイドショーの人情味あふれる司会で人気を集め、映画やテレビドラマでも活躍した落語家でタレントの桂小金治さんが、今月3日、肺炎のため神奈川県内の病院で亡くなりました。
88歳でした。

桂小金治さんは東京都で生まれ、昭和22年に二代目の桂小文治に弟子入りして落語家になりました。映画俳優としても活躍したあと、昭和41年からテレビのワイドショーで司会を務め、離れ離れになっていた家族が数十年ぶりに対面するコーナーでの涙もろく人情味あふれる話しぶりが人気を集めました。
その後もテレビを中心に活躍を続けたあと、平成8年に70歳になったのを機に、落語家としての活動にも積極的に取り組みました。各地のホールなどで独演会を開いたり、教育に関する講演会を開いたりしていましたが、平成23年に引退を宣言しました。
小金治さんは、ことし8月に肺炎で品川区の病院に入院し、その後、川崎市の病院に移って療養していましたが、今月3日に亡くなりました。
通夜は今月10日午後6時から、告別式は11日午前9時半から、いずれも東京・品川区内の斎場で営まれます。

 

 

 桂小金治さんて、すっかり忘れてたなあ。ごめんなさい。88歳になってたんだ。懐かしい。「アフタヌーンショー」でメインMCやってたのは憶えてるけど、僕には、印象としては、ワイドショー司会というよりも、僕の子供時代のモノクロTVでよく見てた人、って感じだな。内容の詳細は忘れてるけど、僕がものごころ着いてちょっとくらいの幼少期に見てた、TVドラマ「ポンポン大将」っての、憶えてる。NHKの30分ドラマ。日曜日の夕方。桂小金治さんは主役のポンポン船の船長。ドラマの内容はあんまりよく憶えて無いけどね、昭和30年代の東京の川を走る、ポンポン船ていう、小さな汽船の舳先に立って、船の舵取る、船長帽子被った桂小金治さんの姿は、そのシーン一場面だけは、記憶してるなあ。
※(小規模な船舶の操舵室や操舵機器は船の真ん中か後部に設置されているので、汽船の舳先で操舵という絵柄はおかしいと思える。本当は船の中央で舵を取っていたのだけど、僕が何となく記憶イメージとして、ポンポン船の舳先で立って操舵ハンドルみたいの握っている主人公の姿を偽イメージで記憶してたんでしょうね。だからココの表現は多分間違い)。

 こういう言い方も失礼なのかも知れないけど、ネットのニュースで桂小金治さんの訃報を知って、僕がものごころ着いてからTV見始めて、小学生時代くらいまでの、毎日熱中して見てた昭和のTV番組をイロイロと思い出した。懐かしい。僕が中学生になってから以降、大人になってからは、無論、TV画面でその姿は見てはいたんだろうけど、70年代以降は、僕には桂小金治さんはあんまり印象にない。「アフタヌーンショー」で司会やってたというのも知ってるんだけど、印象的にはよく覚えていない。やっぱり僕が4、5歳くらいから12、3歳くらいまでの子供時代に、白黒テレビでよく見ていたタレントさん、という印象だなあ。

 懐かしいなあ。僕の子供時代に見ていた、当時の人気番組がイロイロ、頭の中に惹起される。「ポンポン大将」は、日曜夕方の六時半放送と思い込んで記憶してたけど、調べたら日曜NHK六時からの放送なんですね。当時は日曜夕方六時は、TBS系列で「てなもんや三度笠」見てたしなあ。どっちも記憶にあるが、どっちの番組を見てたんだろう(?)。そして六時半からは「シャボン玉ホリデー」。七時からはTBS系列でタケダアワーをやっていて、「ウルトラQ」や「ウルトラマン」が有名だけど、その一つ前の時代に、子供たちに一大忍者ブームを巻き起こした、「隠密剣士」がやってた。でも、僕が「ポンポン大将」とセットで覚えてるのは、「隠密剣士」が始まる以前の、ごく初期のタケダアワー、「夕やけ天使」。カワユイ松島トモ子さんが出てた。同じ時代ということでか、「ポンポン大将」と「夕やけ天使」はセットで記憶してる。勿論、「夕やけ天使」というドラマも、若き日の松島トモ子さんが出演してたこと以外、内容はほとんど忘れてるけど。

 日曜日の夕方から夜のTV番組は、六時の「ポンポン大将」「てなもんや三度笠」、六時半の「シャボン玉ホリデー」、七時のタケダアワーで「夕やけ天使」「隠密剣士」、七時半は僕と歳の離れた兄とでチャンネルを争った、「ポパイ」と「怪傑ゾロ」。どっちもアメリカ輸入ものの、アニメとあっちのヒーロー時代劇。時代劇というか西部劇に近いけど、戦闘シーンは主に拳銃よりもフェンシングの剣だったし。

 調べてみたんだけど、日曜八時は「サンセット77」だったんだね。アメリカ輸入ドラマ。探偵アクションもの、かな。TBS系列日曜夜八時の、一時間ものサスペンス。ウチの母親が好きだった。まだまだ幼児期の僕には難しかったから見てたかどうか、見てたにしてもドラマの理解はしてなかったんだろうけど、ドラマオープニングのテーマ曲、♪Seventy seven Sunset strip~、という一節は今でもよく憶えてる。ここだけだけど。若い頃の母親がよく「今日はセブリセブリがある」とか「今からセブリセブリをやる」とか言って、この洋画を楽しみにして見ていたのを思い出す。懐かしい。オフクロはクーキーが好きだった。

 桂小金治さんから外れっ放しの話になったが、桂小金治さんというと僕の子供時代を思い返して、やっぱり凄く懐かしい。日本は世界トップレベルの長寿国だし、現代では90代の人なんてザラかも知れないけど、人間として88歳まで生きたのなら、もう大往生に近いのではないか。僕の幼少期、少年時代の、TVや映画でよく見てたヒーローたちは、もうかなりの人たちが逝っちゃったなあ、という感じ。大半は逝ってしまったのではないか。桂小金治さんが88歳になってたんだもの、俺が爺さんになる訳だ。桂小金治さん、ご冥福をお祈りします。

 

 

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