うろ覚えライフ。

巷の旬な話題と情報への個人的意見、日々雑感。懐古・郷愁。漫画・映画・小説・ポピュラー音楽。

ウナギ

2021年09月29日 | Weblog
 
 僕が4歳か5歳の頃、ということはウチの兄貴が11歳か12歳のころ、兄貴が当時、毎日一緒に遊び回ってた近所の子供たちと、何人かで当時兄貴が通ってた小学校の裏手から少し離れたところにあった、沼みたいな池で、多分子供たちだけで大量のウナギを獲って、家に持って帰って来た。
 
 僕の記憶がうろ覚えだし、僕が4歳で兄貴が11歳のときのことかも知れない。かなりの量の野生というか天然のウナギで、当時住んでた二軒長屋の隣の電気工事士のオジサンが器用で料理上手で、大量のウナギを包丁で捌いて行って、みんなで幾つかの七輪で炭焼きして食べた。
 
 ウチの家族、隣の電気工事士のオジサンの家族、兄貴と一緒にウナギを獲って来た子供たちの家族、隣近所の人たちも寄ってたんじゃないかな。4歳時の僕の記憶は微かだが、この場面は何となく覚えている。二軒長屋の裏庭の井戸端で調理してた。もう暗い夜のことで、裸電球何個か吊るして照明を点けてたように思う。
 
 ウナギは多分、子供たちは沼に入って、掴み取りで獲ったものだ。蒲焼きにして、とにかくウナギはいっぱいあった。甘い醤油ダレは誰かが作ったんだろうな。多分、ウナギ捌いた隣のオジサンか。
 
 一番上の写真は、多分その沼のあたりの写真で、真ん中が兄貴だ。ウチの家の近所の毎日兄貴が遊んでた仲間内では、兄貴が一番年上だったように思う。この写真の兄貴を囲む子供たちも、兄貴より一学年·二学年は下級生だと思う。
 
 写真の背景は沼のある場所で、湿地というと大袈裟だけど泥地みたいなとこにいっぱい草が生えてたように思う。この写真の叢の奥に確か、避病院があったと思う。僕は行ったことないけど、近寄ってはいけないと親とかから聞いた記憶がうっすらとある。避病院とは今の感染症指定医療機関、または伝染病専門病院ですね。戦前は隔離病舎と呼んでたらしい。
 
 時代も時代だが、山々と畑と田んぼしかない、地方のこの地域に、僕の一家は兄貴が小学校卒業するまで、僕が0歳から5歳まで住んでいた。まぁ、僕はこの地域で生まれたんですね。電力会社勤務のサラリーマンの親父は転勤があり、何度かの転勤で、この地方内をあちこち回っている。

 
 直ぐ上に記載した写真は、その「ウナギ」当時の写真で、真ん中で自転車に乗っているのが4歳か5歳時の僕。左端上の段の坊主頭が当時11歳か12歳時の兄貴。他は近所の人。この時代の兄貴の写真があんまりなくて。
 
 右端の大人二人が隣家のNさんご夫婦。自転車のハンドルに手を掛けた幼女が、N夫妻の子供のK美ちゃん。兄貴らの獲って来た大量のウナギを捌いて調理したのが、とても器用な電気工事士のN家ご主人。真ん中の僕の上に写る、ふくよかな女性がKラのオバチャン。Kラのオバチャンはいつも割烹着着てたな。
 
 左端の兄貴の下の女の子はK江ちゃんといって、当時は、長屋隣のN家で暮らしていた。僕自身は詳しい事情は知らなかったが、K江ちゃんの身の上には何か複雑な事情があったようだ。僕の一家がこの地を離れて伊田電業所に移って直ぐ、K江ちゃんはまた別の家に単身引っ越した。確かK町で親戚になる家じゃなかったかな。そこんちは子供のいっぱいいる賑やかな家だったなぁ。
 
 そこの家のご主人も電力会社勤めで、当時、電力会社が提携してた指定保養所が天ヶ瀬温泉の大きな旅館で、二回くらい、ウチの家族とこの家の一家と天ヶ瀬温泉に遊びに行った。このときK江ちゃんも一緒に来て楽しんでた。一度は電気工事のNさん一家も参加してた。
 
 この「ウナギ」の時代は僕は4、5歳で兄貴はもう小学校上級だから、一緒に遊ぶということが少なく、兄貴と一緒に山に入った記憶も一度か二度しかない。山の登り道から耕した軟らかい田んぼに飛び降りるというのを、兄貴を筆頭に各自子供が挑戦した。僕は一番低いトコから飛び降りた。別にケガもなかったけど、大人になった今見たら多分かなり低い位置なんだろう。
 
 あとはうっすらとした記憶で兄貴たちの缶蹴りかくれんぼに「ママコ扱い」で参加した覚えもある。何しろ僕は4歳5歳の幼児だからなぁ。兄貴ら遊び仲間はみんな小学校中~上級の年齢だし。確かこのときの「ママコ扱い」は、遊びに参加しても逃げる役だけで鬼になるのは免除されてたのかな。「缶蹴り」ってかくれんぼじゃなくて「鬼ごっこ」なんだっけ?
 
 その後も、兄貴と僕は年齢が7つ8つ離れてるから行動を共にしたことがあんまりないように思う。兄貴が高校生のとき僕はまだ小学生だったり、兄貴が大学生のときは僕は中学生だったし。
 
 僕が小学一年生の終わり頃か、小学二年生の初め頃に、兄貴が中学校の友達4人くらいで洋画を見に行ったとき、一緒に連れて行って貰ったことがある。確か「タイムマシン」とディズニーのアニメ映画だったと思う。洋画「タイムマシン」は赤と青の左右色違いの紙製メガネを掛けて見る、この当時ではとても珍しい飛び出す映画だった。今の3D映画の走りですね。全面3Dではなくて迫力シーンの部分部分だけだったように思う。紙メガネは映画館出るとき返却してた。
 
 僕が小三くらいの頃だと思う、伊田電業所に出入りしてた遊び人のマッタンの顔パスで、兄貴と僕と映画館にタダで入れて貰って、やってた映画が「四谷怪談」で、映画が始まって15分くらいで僕が「怖さ」に負けて、兄貴に「出たい」と言って、このときは兄貴もすんなり受け入れて「四谷怪談」をロクに見もせずに映画館を出てしまったのも、懐かしい思い出だ。



 直ぐ上の写真は、多分、その上の近所の人と写真を撮ったときに一緒に兄弟だけで撮って貰った一枚だろう。僕ら兄弟の右端に写る木造の建物が、この当時の、この辺り一帯管轄の電力会社の事務所。親父が1人できり回してた。台風のときとか応援が要るときは何人か電力会社の作業員が来て、ここが、この地域の電気の修復の拠点となったのだろう。ときどき電気代を持って来る人がいてオフクロがお金の授受をしていた(電気料金は集金主体で集金専業の人たちがいた)。
 
 木造事務所の板壁上部の端、屋根の直ぐ下に立て付けてる四角い小屋が兄貴手製の鳩小屋。小屋の後ろに見えるのが柿の木の枝。とんがり柿の甘柿だった。事務所に併設して風呂場が取り付けてあって、風呂場の窓の前には梨の木があったが、この梨は石梨と呼んでいて硬くて食えたもんじゃなかった。もの凄く硬いけど甘かったと思う。
 
 写真は三枚とも1960年くらいの写真ですね。この当時の兄貴は毎日、朝から夕方まで近所の友達と外で遊び回ってた。メンコ(ウチの地方ではパッチンと呼んでた)、ビー玉、コマ回し、缶蹴り·鬼ごっこ·かくれんぼ、山へ入って探検とか基地造りとか。釣りもやってたんだろうな。
 
 兄貴の基地造りは、山肌の丘状になった台地に横穴を掘って、人が何人か入れる内部を堀り終えたら横穴を塞ぎ、上から掘って出入り口を作ってた。僕もこの大きな人工のほら穴に入れて貰ったことがある。兄貴は大木の上に竹と板を組んで樹上基地を作ったと話してたし、本当に兄貴はDIYは器用だったな。
 
 ここのブログ記事のタイトルが「ウナギ」なので、ウナギの話をもっとすると、僕が子供の頃、兄貴や周囲のずっと年上の人たちから、地方地域の各池にはウナギの「池の主」がいて、普通のウナギに比べるともの凄くデカイという話を聞かされた。
 
 兄貴が子供時分、沼で手掴みで獲って来た大量ウナギはみんな普通のウナギだった。多分、野生のというか天然のウナギだろう。多分、天然のニホンウナギ。
 
 子供の頃、よく聞かされた「池の主」だという、相当デカイというウナギは、普通のウナギが数十年生きてムチャクチャ成長して、化け物級にデカくなった、仙人みたいなウナギという訳ではなくて、後々、大人になって調べたんだけど、あれは種類自体が違うんですね。
 
 普通のニホンウナギに対してオオウナギという種類がいるらしい。僕自身はオオウナギは見たことありません。
 
 オオウナギは一番デカいヤツは全長2メートル、体重20キロ、胴回り20センチに達するんだとか。まぁ、僕らの育った地方の各地の池や沼にそんなデカイ怪物級はいなかったろうけど、全長1メートル以上、胴回り15センチくらいのはいたんじゃないかな。その池や沼に他のニホンウナギと一緒に棲息していて、見た人や捕まえた人が「池の主」って思ったんじゃないかな。写真で見たことあるけど、ぶっとくて裏側の胴の部分が白色でも黄色みがかった色ですよね。
 
 オオウナギもニホンウナギと同じ生態で、産卵は海洋の深海で行い、成長するに連れ、親の棲んでた淡水の河川まではるばる泳いで来るらしい。
 
 兄貴が大量ウナギ獲った沼にオオウナギがいたのかどうか解らないが、多分そこの沼で見た話は聞いてないが、あんな山で囲まれた地域の泥沼にまで自然に天然ウナギが大量に棲息するんだから、あんな沼に流れ込む小さな小川でも、ウナギはせっせと伝ってやって来てたんだろうな。と自然の驚異に感嘆してしまうな。
 
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バスケット−空手−ボクシング

2021年09月26日 | Weblog

 
 僕の7つ8つ年上になる兄貴は、中学生時代、バスケットをやっていた。高校生になってからは空手をやっていた。
 
 バスケットは中学の部活で、空手道は家の近くの道場に通っていた。バスケットは途中、肺を悪くしてスポーツができなくなり部活を休んでいた。入院などはなく普通に学校に通っていたが運動はセーブしていた。その後、バスケット部に復帰した。
 
 空手初段で大学進学したから、高校生時代、空手道場は二年は通っていたのかな?もっと続けてたのかな?当時、小学生だった僕は兄貴の茶帯姿は見た記憶がある。

 
 兄貴が空手をやっていた少年時代、テレビ番組では「空手三四郎」という、空手ヒーローものをやっていて、高校生の兄貴と小学生の僕は毎週、熱中して見てた。「姿三四郎」の空手道版みたいな、毎週30分の番組だった。明治後期か大正初期くらいの時代設定で、人格者の立派な師範がいて空手道場に所属する青年が、各種格闘技の強敵と否応なし戦って行く、主人公が修練に勤しむのが空手という違い以外は、ほとんど「姿三四郎」というドラマだった。
 
 ちなみに「空手三四郎」の中の、沖縄から東京に出て来た主人公青年の師事する、人格者の立派な師範役をやっていたのが、「ウルトラセブン」でキリヤマ隊長を演じていた中山昭二さんだった。
 
 小学生の僕は当時、兄貴から空手の武勇伝みたいな話をよく聞かされていたように思う。今でも記憶しているのは、兄貴がやられたカッコ悪い話だけど、まだ空手を始めてそんなに経たない頃、同世代白帯三人くらいで、ストリートファイトで少し年上の空手有段者に挑んだら、三人がかりでもあっという間に三人とものされてしまったという話だった。
 
 小学生の僕は、この話を聞いて何かワクワク興奮して、兄貴のやられ話にしてもカッコ良い話に感じて、当時、僕が自分んちの子供机で鉛筆書きで西洋紙を綴じたのに描いて、市販漫画雑誌を真似て作ってたお粗末な手製雑誌に、僕の鉛筆イラスト入り記事として話を書き込んだので、よく覚えている。

 
 兄貴は大学に入ったら、空手部には入らず入学後しばらくしてボクシング部に入部した。大学二年の頃かも知れない。大学ボクシング部の武勇伝として、柔道部の学生をリングに上げて、まぁ、異種格闘技戦みたいなことをやったんだろうが、ドドドって突進して来るのをカウンターでKOした話をしていたのを覚えている。対校試合の話とかは聞いたことがないように思う。
 
 僕は中二の一学期を終えて学校の剣道部をやめて帰宅部でヒマだったから、中二の終わり頃か中三の初め頃かから兄貴に自宅の庭でボクシングの基礎を習った。フットワーク、ジャブとストレート、ナワトビの跳び方、フックとアッパー、シャドーボクシングのやり方。しばらく習った後、僕は高校生時代までずうっと独りでボクシングの練習をしていた。ド近眼の僕は高校のボクシング部には入部しなかった。
 
 兄貴も大学ボクシング部に所属してたのは一年間くらいだったんじゃないかなぁ。大学三年時は親父の取って来た電気工事の仕事を、当時閉鎖になった伊田電業所の事務所のソファーに居候してた、風来坊の電気工事士のオジサンと一緒に、各店舗や工場、各家庭の電気工事の仕事を、兄貴はアルバイトとしてやってたな。
 
 兄貴も電気工事のあれこれをこのとき習得してるから、後々、電気工事士になれば良かったのにな。兄貴は多分、伊田電業所の社宅出てから先、電気工事関係の仕事はしたことないと思う。

 
 兄貴は大学四年時はほとんど学校に行ってない。親父が僕の小六時頃から借金を作り出し、兄貴の大学二年の終わり頃から大学三年時、家には親父の作ったかなりの額の借金があり、母親は家庭のやりくりに苦労してた。だから兄貴の電気工事のバイト代もほとんど、母親に渡してたらしい。
 
 兄貴のアルバイトというと、家の近所にパン工場があり、冬場はクリスマスケーキを製造していた。冬場というか12月ですね。兄貴は12月の中旬入ってから24日まで、パン工場で夜間、ケーキ製造のアルバイトをしていた。多分、大学一年と二年の冬場だと思う。僕が朝起きたら飯台にケーキのスポンジだけが置いてあった。兄貴がパン工場からできそこないのケーキ台を貰って帰って来てたのだ。兄貴は早朝に帰って来て眠ってた。僕は朝食にケーキのスポンジ台を食べて中学校に登校した。
 
 このパン屋のバイト代は母親に渡してたのかどうかよく知らない。大学の学費に使ってたのかも知れない。
 
 その他にもイロイロ、兄貴は大学一年·二年時、アルバイトに明け暮れていたと思う。若松港の船の荷降ろし作業のバイトなどもやってたんじゃないかな。
 
 兄貴は社交的な性格でいつも友達が多かったみたいだな。
 
 商店街の電業所の所長職身分として派手な振る舞いをしていた親父がその内、女を作り、飲み屋の女に入れ揚げた。頭おかしいような大放蕩を続けて巨額借金を作った親父に母親は疲労困憊、精神的に大ダメージを受け家庭崩壊、親父は巨額借金抱えたまま愛人の元へ行き、親父以外の家族は電力会社の社宅から盛大な雨漏りと寒風吹きすさぶあばら家に引っ越した。
 
 親父と母親や子供たちは事実上の離縁となり、ここから長い間、親父と母親や子供たちとの往き来はなくなる。兄貴は一家を支える稼ぎ頭とならざるを得なかった。当然、兄貴は大学に通えなくなる。
 
 兄貴は大学四年時はほとんど学校に行けず、単位が足らずとうとう大学四年で卒業できなかった。兄貴は稼ぎの良いトラック運転手をして一家を支えた。留年した兄貴はやっとのことで大学を五年で卒業した。卒業証書を貰ったとき、兄貴はぼろぼろ涙が出たと話していた。

 
 ここのブログ記事タイトルを「バスケット-空手-ボクシング」にしたけど、スポーツ関係の話はほとんどなくて、兄貴の中学生~大学生時代の簡単な紹介と、後半、主なテーマは兄貴の若き時代の苦労話みたいになっちゃったな。
 
 まぁ、ここのタイトルは兄貴が学生時代にやったスポーツの競技名というか、話だな。学生時代はスポーツやってた兄貴も、社会人になってからは、釣りに行ったり麻雀してた話は聞いたことあるけど、何かスポーツやった話は聞いたことないな。草野球の話も聞いてない。もしかしたら草野球くらいやってたのかも知れないけど。
 
 兄貴も見方によっては波乱万丈の人生だったな。兄貴も自分の人生を精いっぱい一生懸命生きて来た。

 
 坊主頭の写真は兄貴の中学生~高校生時の写真だけど、空手をやってる写真は坊主頭に近い短髪だけど、当時の高校生って髪は伸ばしても良かったのかな?校則は運動部でなくとも男子学生は坊主頭だったんだろうか?高校生時の兄貴がどんな頭をしていたかまるで覚えてない。
 
 僕らの時代はだいたいの高校は髪を伸ばしても許されていた。あんまり長くするのは校則違反だったけど。中学校は兄貴も僕も校則は丸刈りだった。兄貴も高一は丸刈りだったが途中から伸ばしてたのかも知んないな。確か角刈りにした写真を見たような記憶がある。学生服姿のあれは多分、高校時だろう。
 
 兄貴とは7つ8つ年の離れた兄弟だったが、僕の幼児期からイロイロと思い出があるなぁ。



 ビートルズの来日が1966年で66年は兄貴は17歳くらいかな。日本のGSブームが67年、多分兄貴は18歳。兄貴は高校生の頃、友達からビートルズの初期アルバムやこの当時のJ ポップ系の日本のたくさんの流行歌のレコード盤を借りて来て聴いていた。高校生時代の兄貴は深夜ラジオも聞いていたようだ。
 
 高校生時代も17歳18歳になると髪は伸ばしてたと思う。詳しくは知らないが兄貴は友達のエレキギター·バンドでドラムを叩いている、という話をしていた。高校生の頃は校則もあって、そんなに長くはしてなかったが、大学生の頃はこの時代の流行もあって、長髪にしていたな。ボクシングをやってた頃はスポーツ刈りにしていたと思うが。GSブームの後フォークソングブームが来るが、兄貴はフォークソングにはまることはなかったな。
 
 そういえば思い出した。兄貴は家でも身体を鍛えていたが、バケツにセメントを流し込んで鉄棒を突き刺して両側に固めたセメントの重しで手製バーベル作ってたな。電力会社の電業所のウチの倉庫には、けっこう何でもあった。鉄クイに鉄棒にセメント袋に各種電線、工具に他イロイロ。バーベル作ったの兄貴の中三時か高一時か。
 
 空手やってた頃は丈夫な板立てて縄巻いてマキワラ作ってたし、後に倉庫にあった大きな丈夫なビニール製大袋に石ころや砂を入れてサンドバッグ作って、物干し台の横渡し柱に吊り下げてた。中学生のときは家屋の外壁の高いとこにバスケットボールのワッカ取り付けてたし、小五·小六の頃、当時の家の外壁の屋根近くに鳩小屋取り付けてた。犬小屋、鳩小屋、ウサギ小屋を作るのはお手のものだった。
 
 僕はもの凄く不器用なのだが、兄貴は日曜大工的なDIYが本当に器用だったな。
 
 
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ケンチブロック

2021年09月25日 | Weblog




 7つ8つ年上の兄貴の勇姿。兄貴が22歳か23歳ころ。
 このケンチブロックはかなり重い。多分、40キロ以上あると思う。
 
 ケンチブロックって間知ブロックって書くんだね。通称で積みブロックって呼んでたらしい。間知ブロックは製品によって1個、35キロ前後から50キロ前半の重さがあるらしい。
 
 団塊世代にしては上背のある兄貴は生涯肥満することはなく、一見痩せて見えたが骨格が丈夫で力が強かった。僕も身長はある方だが兄貴ほど高くなく、ほっといたら肥満する僕はこんなに腕力はなかった。
 
 間知ブロックが製造され始めたのは昭和30年代だという。
 
 子供の頃、高いところに登るのが好きだった僕は、子供時代は自分ちや他所んちの屋根や柵や塀に登るは、登れそうなら子供だから低めの崖にも登ってた。割と低めの石垣とか登ってたな。けっこう高いのに登ったこともあるかな。
 
 小学校高学年の頃に、ケンチブロックで補強した低めの崖や山肌や、河川の護岸に登った記憶があるから、昭和40年頃には間知ブロックはもう、けっこうあちこちで頻繁に使われてたんだな。
 
 ちなみにアウトドア少年だった兄貴は、子供時代は野山を駆けて遊び、毎日のように山に入っては高い木々に昇ってた。僕は見たことないが、一度、高い木の枝々に筏状に組んだ竹や板で樹上基地を作ってたらしい。
 
 兄貴は僕と違って器用だったな。
 
 
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