生きたまま極楽! 

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“奇跡のV9・打撃の神様”お別れの会

2013年12月17日 | スポーツログ

○川上哲治氏お別れの会で長男貴光氏が謝辞

 

   プロ野球巨人のV9監督として知られる、10月28日に93歳で死去した川上哲治氏のお別れの会が2日、東京都内のホテルで行われた。長男の貴光(よしてる)氏(67)が謝辞を述べた。

  謝辞 川上貴光(よしてる)

 みなさま、本日はご多用の中、父・哲治のお別れの会にご参集たまわり、まことにありがとう御座います。王貞治さまには、ご丁重なるご弔辞をいただき、まことにありがとう御座いました。

 去る10月28日、朝の10時に入院先の病院から「できるだけ早く来て下さい」と連絡があって、すぐに病室に駆けつけると、父は酸素マスクを付けて、荒い息をしながらベッドに横たわっておりました。前日には、見舞いに来た私の娘の顔を見て、笑顔を見せるほどでしたが、その夕方から血圧が下がるなど、様子が急に変化したそうでございます。

 そして夕方の4時58分。私たち家族に囲まれながら、静かに息を引き取りました。近くにいたのに、息が止まったことに、すぐ気付かないほど、静かで穏やかな、本当に眠るような最期でございました。

 父は生前、冗談とも本音とも言えない、こんなことを私たちに話しておりました。「オレは死ぬときは、坐禅を組んで、飯も食わん、水も飲まんで、木が枯れていくように死んで見せるからな。ようみておけ」

 どこで見たのか聞いたのか、それが1番苦しまない、かっこいい死に方だ、と思っていたようです。しかし、最後の数カ月は、思考力も、意志の力も弱って、かなわぬことでございました。

 それどころか、亡くなる少し前まで、食欲は旺盛で、出前のうなぎを食べたり、「すき焼きを作ってきてくれ」と言われて持っていくと、ぺろりと平らげたり、皆さまご存じの食いしん坊ぶりを発揮して、看護婦さんたちを驚かすほどでございました。

 「テツ、メシば食わるっうちは、絶対死なんバイ」

 父は、いかなる時も、自分の母のこの教えを信じ、固く守っておりました。どんなに連敗が続いたときも、風邪で熱があるときも、手術で入院したときも、食べ続けました。「病気は食べて治す」が父の口癖でした。しかし、亡くなる10日ほど前から、飲み込む力が衰えて、ついに口から食べることができなくなったのでございます。

 

 長男として生まれた私は、60年あまり、いつも父を近くに見て暮らしてきました。生まれたときにはすでに野球人で、私が小学校の6年のときに現役を引退、その後、コーチ、監督として懸命に生きる姿を見て育ちました。

 仕事柄、華やかなスポットライトを浴びることもありましたが、反面、批判、中傷の嵐に晒されるときも何度となくありました。肥後もっこすの頑固者。口下手、言葉足らずで、誤解されることも多い父でしたが、言い訳や、反論が大嫌いでした。そのため、逆風の高波を家族がかぶることもしばしばでございました。

 しかし、父は実に運に恵まれた人でした。

 「これだけの努力を、人は運といい」と、運で片付けられることが不満だった父に叱られそうですが、どこか天から守られていたような強い運気を持っていたように思います。

 小さなころから家が貧乏で、高校時代に下宿先で苦労し、「阿蘇の火口に飛び込んで死んでやる」と阿蘇山に向かったら、様子が変だと父親に通報が行って、すんでのところで助かるということがありました。

 戦時中、飛行場にいたところを敵機来襲の爆撃に遇い、カンが働いたのか、それまで非難していたところから部下数十人を引き連れて別の場所に移動しました。その数秒後に、元いたところが直撃弾でやられて、全員が命拾いをしたということがありました。

 やはり軍人時代、軍服姿で自転車に乗っているとき、今度は艦載機に銃撃されました。この時はとっさに田んぼのあぜ道に飛び込んで助かったそうでございます。

 その後も、早期の胃がんが定期検査で見つかって、事なきを得たり、4年前、自宅で脳梗塞に襲われたときも、運ばれた医療センターの当直が脳外科の先生で、瞬時に処置していただくという幸運があって、全く後遺症も残りませんでした。

 亡くなってから、発売された雑誌の追悼文の中に、「あまり知られていないが、川上は家庭を大事にした人だった」という記事がありました。監督時代、キャンプ地から、選手の奥さんに、また独身の選手には親御さん宛てに手紙を書く。「何々君は毎日頑張っています。寂しいでしょうが、しっかり留守を守って応援していて下さい」

 そんなエピソードが紹介されていました。実際、家庭人としての父は、優しい父親でした。武骨で口下手。「愛してる」「好きだよ」なんて言葉は死んでも口にできない。しかし、私たち家族は、いつも大きく包み込まれるような父の愛情を感じて育ちました。

 私は生意気な息子でしたが、殴られたことは一度もありませんでした。ただ一度、母の心を傷つける言葉を吐いた私に、猛烈に怒ったことがありました。母を泣かせてしまったのです。いきなり私を素っ裸にして、家の雨戸を開けると、横かがえに持ち上げるや、庭に放り出したのです。外は一面の雪で、何十センチも降り積もっていました。そしてぴしゃりと雨戸が閉められたのです。小学生だった私は、泣き叫んで雨戸をドンドンたたきましたが、開けてくれません。

 その15分間のお仕置きについて、父は後にどこかでこんな風に話していました。

 「いやあ、あのときは、雪がこれくらいの深さなら、放り出してもケガはせんだろう。それくらいの計算はありましたよ、ワッハッハ」

 烈火のごとく怒ったように見えたのに、うーん、敵もさるもの、案外冷静だったんだ、と思ったのを覚えています。キャンプに出る前にお灸を据えておけば、留守中2カ月は安心だ。そう考えていたに違いありません。後に監督になって、選手たちにもこんな計算した叱り方をしたのかなあ、だから連覇もできたのだろうか、などと考えてみたこともございます。

 私たち家族の大きな危機は、昭和39年、12月のころでした。36年に監督になった父は、幸運にもその年初の日本一に輝きます。しかし、翌年は4位、その翌年に再び日本一になるものの、次の39年は3位に沈みました。父の口下手、説明不足に起因する、一部選手やコーチとの摩擦やトラブルが表面化し、連日のようにマスコミからたたかれました。批判記事が載らない日がないほどの大騒ぎになったのです。

 家族はもろにその波をかぶりました。まだ学生だった私や妹はそれほどでなくても、母が耐えきれずに倒れたのです。激しい下痢が何日も止まらず、どんどん痩せていく。はじめはガンが疑われましたが、潰瘍性大腸炎という診断でした。

 先生から「ストレスからくるので、やっかいな病気です。完治は難しい」と聞かされました。難病指定のこの病気に、当時は特効薬がありません。

 父は毎日夕方になると病院に行き、朝まで病室の簡易ベッドに泊まり込むようになりました。しかし、病状はいっこうに良くならない。父は私や妹に話しませんでしたが、母はもうこのまま家に戻ってくることはないだろうと思っていたようです。

 ところが、母は敬愛していたある先生から、諄々と諭されたことをきっかけに、奇跡的な回復をみせたのです。病室まで足を運んでくださって、その先生はおっしゃいました。

 「あなたは、死ぬんじゃないかと自分の心配ばかりしている。マスコミにたたかれて、あなた以上に苦しんでいるのはご主人の方じゃないですか。自分がどんなに心配をかけているか、そこに気が付けば必ず病気は治ります」

 快方に向かい、一時帰宅を許されて自宅に戻った母に、父が言いました。

 「このまま監督を続ければ、いつかお前を殺してしまう。いつ監督を辞めてもいい、正直に言ってくれんか」

 父の言葉を遮るように母が言いました。

 「あなたから野球を取ったら何が残るんですか。私はもう大丈夫です。思う存分、野球をやってください」

 安心してキャンプに出かけていった父から、1通の電報が届きます。

 何十年もあとに、私が母から見せてもらった電文にはこう書いてありました。

 「過ぎた20年昨日のごとし。雨あり風あり晴天あり。変わらぬ誠に感謝す。今日あり、明日あり、苦楽あり。喜びに満ちて、生きて行こう。 テツ」

 その日、2月4日は父たちの結婚記念日でした。

 そして、その年から9連覇が始まったのです。

 父はこの3月の誕生日までは元気でしたが、春先に転倒して入院し、それからは日一日と目に見えて弱っていきました。しかし入院の5カ月間、父は自分の望んでいた通りの日々を過ごすことができたのではないかと思っております。

 「災難にあう時節は災難にあうがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候」という良寛さんの言葉がございます。今の自分の状況をありのままに受け入れる。じたばたしないで、病気の時は病人になりきり、不自由なつらい思いもやり過ごす。もうだめとなったら、最後は静かに死を受け入れて、大自然に戻っていく。そんな姿を私たちに見せてくれたような気がいたします。

 今日はお別れの会、別れの場でございます。しかしこれまで父がご縁をいただいた、たくさんの方々が一同にお集まりくださった今日の日は、出会いの場であるとも言えるのではないでしょうか。父をしのんで、昔話をしてくださり、そしてそれがまた新しい人と人との出会いになるなら、人の心のつながり、家庭の和、チームの結束を大切にしていた、父の本望ではなかろうかと思う次第でございます。皆さま方には、今日はどうぞ笑顔でお帰りいただきたいと存じます。

 これまで、父を支えてくださった野球関係の皆さま方、ゴルフや釣りなどの遊びにお付き合いいただき、たくさんのご迷惑をおかけしたであろう皆々さま、そして終生変わらぬ温かい声援をいただいたファンの皆さま方、本当にありがとうございました。

 最後に、今日のこの場をご用意下さった読売巨人軍のご厚意、弔辞をいただいた王貞治様、OBの皆さま方、そして東京ドームの関係者の皆さまに心からの感謝を申し上げ、お礼のごあいさつとさせていただきます。本日は誠にありがとうございました。

 

※(2013-12/31)漫画・・「九番打者」~「ミラクルA-エース-」

 

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日本のスーパースター

2013年05月05日 | スポーツログ

長嶋、松井両氏に国民栄誉賞 東京ドームで授与式

 

  プロ野球元巨人監督の長嶋茂雄氏(77)、巨人や米大リーグのヤンキースなどで活躍した松井秀喜氏(38)への国民栄誉賞の授与式が5日、東京ドームでの巨人―広島の試合前に行われた。

 長嶋氏は勝負強い打撃や華麗な守備でファンを魅了し、巨人の1965~73年の日本シリーズ9連覇を支えた。戦後日本を代表する国民的スーパースターで「ミスタープロ野球」と呼ばれた。93年の巨人監督復帰後は松井氏を鍛え、球界を代表する強打者に育てた。

 松井氏は「ゴジラ」の愛称で親しまれ、日米の人気球団で活躍し、通算507本塁打をマーク。2009年のワールドシリーズでは3本塁打を放ち、日本選手初の最優秀選手(MVP)に選ばれた。昨年12月に日米20年の選手生活からの引退を表明した。

 

○長嶋氏が肉声披露、松井氏は国民栄誉賞に「身に余る光栄」 背番号「3」長嶋氏、松井氏の投球をフルスイング!

 

  長嶋茂雄・巨人終身名誉監督と、巨人やヤンキースで活躍した松井秀喜氏の国民栄誉賞表彰式、および松井氏の現役引退セレモニーがこどもの日の5日、巨人対広島の試合前に東京ドームで執り行われた。

 国民栄誉賞表彰式に先駆けて行われた引退セレモニーでは、松井氏があいさつに立った。昨年12月28日の引退表明以降、日本のファンの前で話すのは初めて。濃紺のスーツ姿で登場した松井氏は「皆さまからの温かい声援が僕に元気を与えてくれました」と感謝の言葉を口にした。あいさつのあとは長嶋氏とともに特注のオープンカーに乗り、場内を1周しファンの声援に手を振って応えた。

 続いて、「3」「55」と描かれた赤じゅうたんの上で行われた国民栄誉賞表彰式では、安倍晋三内閣総理大臣から表彰状、記念の盾、黄金のバットが贈呈。首相が「長嶋さんが演じた数々のメークドラマに、アンチ巨人の私も手に汗を握りながらラジオに耳を傾けていました」と思いがけないカミングアウト込みのあいさつをしたのに続き、長嶋氏は「本当にありがとうございます。松井くんもいっしょにこの賞をいただいたこと、厚く御礼申し上げます」と、ファンの前で力強くスピーチ。松井氏は、国民栄誉賞受賞者である王貞治氏、衣笠祥雄氏の名前も挙げ、「偉大なお三方の背中を追いかけ、日本の野球の、野球を愛する国民の皆さまの力に少しでもなれるように努力していきます」と誓った。

 フォトセッション後、「長嶋」コール、「松井」コールに応えるような形で長嶋氏が左手を大きく上げると、超満員の東京ドームからはひときわ大きな歓声。続けて、長嶋氏がバッター、松井氏がピッチャー、そして原辰徳・巨人監督がキャッチャー、安倍首相が球審を務める始球式が行われた。

「4番サード、長嶋茂雄、背番号3」のコールに呼びこまれ、上半身ユニホーム姿の長嶋氏が登場。松井は上下ともに2002年以来となるジャイアンツの55番ユニホームを身にまとってマウンドへ。また、安倍首相は2人から贈呈された第96代内閣総理大臣にちなんだ背番号「96」のユニホームでホームベースへ駆け寄った。
 左手でバットを握って構える長嶋氏に対し、松井が投じたのは山なりの内角高めのボール。これを長嶋氏がよけることなく果敢にフルスイングするも空振り。ボールを打つことができず、長嶋氏はちょっと悔しそうな表情の笑顔を浮かべたものの、国民栄誉賞授与式で実現した夢の“師弟対決”に、場内からはこの日一番の祝福の声と拍手が送られた。

松井氏「またいつかお会いできることを夢見て…」

 以下は引退セレモニーでの松井氏のスピーチ全文。

「ジャイアンツファンの皆さま、お久しぶりです。2002年、ジャイアンツが日本一を勝ち取った直後、ジャイアンツに、そしてファンの皆さまにお別れをお伝えしなければならなかった時、もう二度とここに戻ることは許されないと思っていました。しかし、今日、東京ドームのグラウンドに立たせていただいていることに、いま感激で胸がいっぱいです。

 1992年のドラフト会議で私をジャイアンツに導いてくださったのは長嶋監督でした。王さんのように1シーズンで55本打てるようなバッターを目指せと背番号『55』をいただきました。将来は立派にジャイアンツの4番を務めないといけないと思い、日々、努力をしてきたつもりです。ジャイアンツの4番を任せていただけるようになり、誇りと責任をもって毎日プレーしました。ただ、その過程にはいつも長嶋監督の指導がありました。毎日、毎日、二人きりで練習に付き合っていただき、ジャイアンツの4番バッターに必要な心と技術を教えていただきました。また、その日々がその後の10年間、アメリカでプレーした私を大きく支えてくれました。そのご恩は生涯忘れることはありません。

 今日、ファンの皆さまに久しぶりにお会いしたのにも関わらず、再びお別れのあいさつとなってしまい、もう一度プレーする姿をお見せできないのは残念ですが、これからも僕の心の中には常にジャイアンツが存在し続けます。どういう形か分かりませんが、またいつか皆さまにお会いできることを夢見て、また新たに出発したいと思います。

 ジャイアンツでプレーした10年間、そしてアメリカでプレーした10年間、いつもいつも皆さまからの温かい声援が僕に元気を与えてくれました。ファンの皆さま、長い間、本当に本当にありがとうございました」

長嶋氏が生スピーチ「本当にありがとうございます」

 以下は国民栄誉賞表彰式での長嶋氏のスピーチ全文。

「国民栄誉賞をいただきまして、本当にありがとうございます。松井くんもいっしょにこの賞をいただいたこと、厚く御礼申し上げます。ファンの皆さま、本当にありがとうございました。よろしくお願いします」

松井氏「光栄ではありますが、同じくらい恐縮」

 以下は国民栄誉賞表彰式での松井氏のスピーチ全文。

「私はこの賞をいただき、大変大変光栄ではありますが、同じくらいの気持ちで恐縮しています。

 私は王さんのようにホームランで、衣笠さんのように連続試合出場で何か世界記録をつくれたわけではありません。長嶋監督の現役時代のように日本中のファンの方々を熱狂させるほどのプレーをできたわけではありません。僕が誇れることは日米のすばらしいチームでプレーし、すばらしい指導者の方々、チームメート、そしてすばらしいファンに恵まれたことです。

 今後、偉大なお3方の背中を追いかけ、日本の野球の、野球を愛する国民の皆さまの力に少しでもなれるように努力していきます。このたびは身に余る光栄ではありますが、私を支えてくださったファンの皆さま、そして野球で関わったすべての方々に感謝申し上げます」

 
 
 

 戦後・昭和のスーパースターというと、力道山、横綱大鵬、長嶋茂雄の三者だろう。僕らが子供の頃言われていた、子供の大好物三つ、「巨人・大鵬・卵焼」の「巨人」を象徴する選手とは、川上哲治でも王貞治でもなく、文句なく長嶋茂雄だったろう。僕が子供の頃、不思議に思ってたのは、野球漫画ではどうして主人公は全部、所属球団がジャイアンツなんだろう?ということだった。子供時代の僕はそれ程は、野球漫画が好きな方ではなかった。少年誌で読む野球漫画の魔球を投げる主人公投手はみんな、巨人軍選手で、必ず長嶋選手にアドバイスを受ける。また、当時「ロボット長嶋」など、長嶋茂雄を主人公にした野球漫画もあった。月刊誌「少年」末期に森田拳次が「ミスタージャイアンツ」という漫画を連載してたが、漫画の中には主人公の“ミスタージャイアンツ”が居たけど、実際の「ミスタージャイアンツ」とは長嶋茂雄その人だった。だから、現役引退後の長嶋さんの愛称は“ミスター”だ。日本で野球が始められて以来、オールエイジで一番人気の高かった野球選手とは、やはり長嶋茂雄だろう。ミスター・プロ野球。
 
 そういえば、雑誌「少年」には、わちさんぺいの「ナガシマくん」も50年代末から60年代、長らく連載されてたな。実際の長嶋選手でなくて、主人公のナガシマシゲオという、少年野球をやってる子供の話の、ゆかい(ギャグ)漫画。
 
 僕がプロ野球に興味を持ち始めたのは19歳頃からで、僕はアンチ巨人だったから、松井秀喜選手にはあんまり興味がなかった。若い頃、西武ライオンズ・ファンだった僕は、清原選手が好きで、松井選手にはあんまり関心がなかった。あの当時好きだったのは、西武の清原、石毛、秋山、工藤あたりだった。松井秀喜に関心を持ち始めたのは、渡米してニューヨーク・ヤンキースに入団してからだ。
 
 穿った見方をすると、安倍晋三総理はこの国民的記念イベントを、自分の現内閣の人気度をさらに高揚させるために政治利用した感じもする。第二次安倍内閣は現時点では好調でうまく行ってますからねえ。まだまだ実質が着いて来てはないだろうが、少なくともイメージ的には好調の波に乗り続けている。ここで、このイベントもさらに点数を上乗せするんだろうな、と思える。今は安倍さん、絶好調の感。
 
 今日は、自分のコトでもないのに、ミスターと松井のダブル受賞で、祝杯を挙げているお父さん、オジサン連中が日本中にごまんと居るんだろうな。現代では、女性ファンも祝杯挙げてるか。戦後・昭和と平成前期のスーパースターのお祝いに、日本国中が沸いてお祝いムードで笑顔が溢れる。社会的にとても良いコトだよな。長嶋茂雄さんの授賞に、ン十年前の自分らの記憶をよみがえらせて、泣いたり笑ったりした人はいっぱい居たんだろうな。スーパースターの活躍した時代は、自分たちの思い出の象徴でもある。スーパースターの社会的な存在意義って、一般の多くの人々の心にいろいろなものを与えるコトなんだろうな。感動も勇気も涙も闘う意志も笑いも共感も克己心も我慢も根性も生きるヒントも、いろいろ‥。
 
  戦後のスパースターで、最初のスパースターはプロレスラー・力道山だったけど、力道山が死んだのは僕が7歳8歳のときだ。当時、僕が住んでた家の斜め向かいの屋敷に住んでた、幼馴染のM君が、自分ちの前に立つ電信柱を指して、「力道山は空手チョップでこの電柱を折れるかなあ?」と言っていたのを、僕は未だ憶えている。当時の電柱はコンクリート製になる直前で、まだ太い一本の幹の柱だった。すぐに電信柱はコンクリート製に立て替えられ、全国の木製電柱は各地の学校のトーテムポールになった。力道山も大山倍達も、実は朝鮮人だと知ったのは僕が20歳くらいになってからだ。当時の力道山って、勿論、戦後の力道山だけど、国籍はどうだったんだろう? あの当時は国籍はそんなにはっきりとしなくても良かったのかな?王貞治さんはずっと台湾籍だったしなあ。国民栄誉賞受賞時も。まあ、今日のダブル授賞イベントは良かったですね。嬉しいし、喜ばしい。
 
 
 

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巨人・大鵬・卵焼き

2013年01月20日 | スポーツログ

○大相撲の元横綱大鵬、納谷幸喜さんが死去

 

  大相撲の第48代横綱で同じく名横綱の柏戸と「柏鵬時代」と呼ばれる黄金期を築いた元横綱大鵬の納谷幸喜さんが19日午後3時15分、東京都内の病院で死去した。72歳だった。

 サハリン(旧樺太)で生まれ、16歳のときに二所ノ関部屋に入門。昭和31年秋場所で初土俵を踏んだ。早くから将来を嘱望され、同35年初場所では、19歳の若さで新入幕を果たした。

 20歳5カ月で幕内優勝など数々の最年少記録を塗り替えて、昭和36年秋場所後に、柏戸とそろって横綱に推挙。このとき、21歳3カ月で、当時の最年少昇進の記録だった。

 「剛の柏戸」に対し、「柔の大鵬」といわれ、得意の左四つになってからジワジワと相手を追い詰める安定した取り口で、多くの記録を作った。幕内優勝32回、2度の6連覇、45連勝など相撲史に残る大記録を次々に打ち立て、双葉山とともに「昭和の大横綱」と評された。

 また、当時の子供たちに人気のある代名詞として「巨人、大鵬、玉子焼き」という言葉もあったほど、広く国民に親しまれた。

 柏戸とのライバル対決に多くのファンが手に汗を握ったが、昭和46年夏場所で引退。優勝30回を記念して、現役の昭和44年9月に贈られた一代年寄「大鵬」を襲名した。親方としては元関脇巨砲らを育てた。また、昭和55年から8期16年にわたり、日本相撲協会の理事を務め、名古屋場所部長などの要職に就いた。

 脳梗塞(こうそく)の後遺症などで、平成8年2月に理事を辞任。以降は相撲教習所所長として新弟子の教育などにあたっていた。

 

 

 横綱大鵬。僕は子供の頃、大相撲は全く興味が無く、TV中継なんて見たことなかったし、大人が相撲の話をしていても全然、関心が無かった。でも、この言葉は有名で、いつでも聞いていたような気がする。巨人・大鵬・卵焼き。当時の子供の好きなもの三つ、ですね。子供だけではない、一般的にも、人気のもの、か。ミーハー人気に通じるのかな。週間少年マガジン連載の「巨人の星」の中でも、プロ野球11球団が飛雄馬をスカウトに、長屋に来た時、星の親父が「巨人しか入れん!」と11球団を拒絶すると、一人のスカウトマンがセリフとして、この言葉を言う。「巨人・大鵬・卵焼きですか」みたいな。飛雄馬のプロ入団時期って、僕はもう中一くらいなってたろうか?まだ小六か?やっぱ中一くらいか。長屋シーン、ちょっと違うかも知んないけど、何かそういうシーンだった。

 子供の頃の僕は野球の球団というと、西鉄ライオンズと巨人軍しか知らなかった。子供の僕は野球もあんまり興味がなく、巨人は漫画の主人公がみんな巨人軍所属で魔球を投げるので、巨人だけは覚えていたが、読売ジャイアンツだけどうして巨人軍と別の呼び名があるんだろう?とか不思議に思っていた。また、漫画の魔球を投げる少年エースが全員、巨人軍所属であり、特に、強敵のライバル・バッターが阪神所属なのもよく解らなかった。さすがに小学校も高学年時は、いろいろと事情を呑み込んで来たけど。西鉄ライオンズは住み家の前に接続する、親父が仕事する事務所に毎日やって来る若い社員たち、まあ、親父の部下になる人たちだけど、この若い人たちが西鉄ライオンズのファンで、遅番で事務所に残ってる人がよく、TVで西鉄ライオンズの試合の中継見てたから。遅番の人は夜九時近くまで残って、電話が来たら仕事に出向いてた。後の深夜は電話があれば、親父が夜中に仕事に出てた。親父はあの当時、野球に興味はあったんだろうか?あんまり、熱心に野球や相撲を、TV観戦していた様子は記憶にはないなあ。

 大鵬だったなあ。僕は子供の頃は力士といえば、横綱大鵬の名前しか知らなかった。後に柏戸関という名前も憶えるけど。子供の頃からプロレスは大好きだったけど、相撲はとうとう関心なくて終わったなあ。大人になってからの若貴ブームのときも。朝青龍の騒動のときはワイドショー気分でヤジウマ関心が強かったけど、相撲中継は見なかった。漫画もねえ、僕が漫画読み始める以前には大相撲漫画って、けっこう少年誌に掲載されてたんですよ。1950年代後半から60年代初めまでは。でも僕が漫画を精力的に読み始めた、1963年以降は相撲題材の漫画はほとんど見なかったなあ。有名な相撲コミックって、ちばてつや氏の「のたり松太郎」までは無かったんじゃないかなあ。あれも青年誌だし。

 卵焼き、というのは、やはり昭和40年代初め頃までの、国内一般庶民の家庭の貧しさ、でしょうね。卵焼きは砂糖入れて焼くから甘くて、子供が大好きだったんですよね。まあ、戦後から当時の一般庶民の食糧事情ですよね。卵焼きは、栄養価が高くて、それなりにご馳走だったんですよ。当時の家庭では。子供の好きなもの。巨人・大鵬・卵焼き。大人になると「通」になるからね。

 映画の世界も、若松孝二さんに続いて大島渚さんも死んじゃったしねえ。子供から少年期、映画を娯楽としてしか見て来なかった僕が、青年になり、60年代末から70年代の大島渚監督や若松孝二監督の映画を見て、僕は「あれ?何だ?」と思い、映画を単純に娯楽として面白く見るだけでなく、この映画で「何が言いたいんだろう?」と考え、ま、言ってみれば、そこに「芸術性」みたいなものを見出していた。そこに「娯楽」の面白さ、ではなく、何か別の、もっと高度なものが表現されてるんだ、と一生懸命それを捜そうと、見出そうとして鑑賞した、みたいなものか。70年代はよく、劇場決めて、ATG系の映画の特集公開とかやってたしね。大島渚さんも死んじゃって、昭和は終わり、昭和は遠く遠くなっちゃったなあ。昭和は遠くへ行った。横綱大鵬も死んじゃったし。

 横綱大鵬の納谷幸喜さん、72歳か。意外と若かったな。けど、プロレスラーとか相撲取りはあんまり長生き出来ない、って昔からよく聞いてた。だいたい長年、肉体を酷使するプロスポーツの選手は、そうは長生き出来ないような気もする。一概には言えないけど。特にレスラーや関取は巨漢で、引退後は肥満体形のままの人が多いしね。大鵬って、子供の頃か、白系ロシア人の血が混ざってる、とかって噂聞いたけど、サハリン生まれか、どうだったんだろう。まあ、出自に関してはあんまり滅多なことは言えないけど、まあ、国籍日本人だし、戦後大活躍したプロスポーツの選手って、力道山や王貞治、金田正一張本勲大山倍達もだけど、そういう意味では純血的に日本人でなかった人って多いよね。戦後スポーツシーンで有名な人。中韓てイメージ的に嫌らしいけど、向こうが反日イズムのパフォーマンスを盛大にやるからだけど、20万年前のアフリカのイヴから考えて(アフリカのイヴ以降の新たな考察もあるのかも知れませんが)、アジア人はそうは変わりはしないよなあ。特に東アジア人は。何万年か昔は日本も大陸とくっついてたし。ま、人間は基本、みんな人間だけど。

 まあ、昭和がどんどん遠くなって行ってしまっているのは、本当に寂しい限りです。

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ホークス・城島

2012年09月28日 | スポーツログ

 

○貫いた捕手のプライド、投手たちに感謝

 

  城島は、最後まで「捕手」としてのプライドを貫き通した。引退決意の最大の要因は、右肘の故障。「小さいときから投げることが人一倍好きで自分の武器だった。プロでもそれが評価され、一番生かせるのも捕手」という彼にとって、投げられないという事実は耐え難い苦しさだった。

 手術の選択もあったが「僕は高給取り。2年続けてまともに活躍できなければユニホームを脱ぐときと自分のルールとして決めていた」。さらに「捕手ができなくなったら僕の野球選手としての商品価値はなくなる」とまで言い切った。

 野球人生の喜びも捕手らしく、投手のタイトル獲得だった。「勝ったときに最初に握手を交わす、すばらしいポジション。自分のサインにうなずいて投げてくれた投手に感謝」と振り返った。

 球団側にはクライマックスシリーズ(CS)出場の可能性がなくなった9月中旬に引退の意向を伝えたが、チームメートには「若い選手に、ベテランも危機を持って一生懸命やる姿を見せないといけない」と最後まで黙っていた。

 29日、鳴尾浜での2軍戦が最後のマスクとなる。今後については「4、5年はメディアの方も絶対にやらない。おやじ、旦那の試験に通ってないですから、家族の評価を上げていきます」。号泣しながらの会見。しかし、周囲を笑わせる城島節は最後まで健在だった。

 

 

 城島健司捕手は、福岡ダイエー・ホークス時代の1999年、2000年、2003年のパ・リーグ優勝とその間二度の日本一の、福岡ホークス最強の黄金時代の、文句無い立役者の一人だった。一時代の最強捕手。大リーグからの帰国後はパッとしなかったけど、出来ればもう一度、ホークスでプレーする姿を見たかった。

 

Victory Again~2003年福岡ダイエーホークス優勝への軌跡~

【オーナーズリーグ】城島健司 阪神タイガース スーパースター 《2010 OWNERS DRAFT 02》

 

FOR THE FLAG 野球日本代表 もうひとつのアテネ

 

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田中理恵さん

2011年12月11日 | スポーツログ

 

○理恵満足!跳馬で昨年に続き2位

 

  女子跳馬で田中理恵(24)=日体大大学院=が昨年に続いて2位に入った。

 田中理恵は2本とも安定した試技を見せ、昨年に続き2位。現在は修士論文の作業でなかなか練習時間もなかっただけに「あまり調子は良くなかったけど、まとめられて良かった」と、ホッとした笑みを浮かべた。最終日は床に出場。「自分らしく、笑顔で美しい体操を見せたい」と、年内最後の演技に気合をみなぎらせた。

 

○理恵、ロンドンへ卒業後も拠点は母校・日体大

 

   体操女子日本代表の田中理恵(24)=日体大大学院=が5日、都内で行われた森喜朗元首相(74)への日体大名誉博士称号授与式に出席。ロンドン五輪に向け、来年春の大学院修了後も母校の日体大を練習拠点とすることを明かした。大学院2年の理恵は現在、横浜市の日体大体育館を拠点に練習。来年春で修士課程を修了するが、「環境を変えずにやるのが一番だと思う」と五輪まで母校で練習を続ける意向を示した。所属は調整中で、同校職員などで母校に残る可能性もある。

 

○ 田中理恵がほしい!芸能プロが争奪戦「なでしこより上」「アイドル以上」

 

  ロンドン五輪予選を兼ねた体操の世界選手権(7日開幕、東京体育館)に出場する日本女子の田中理恵(24)=日体大大学院=に、複数の大手芸能事務所やマネジメント会社が獲得に向けたオファーを検討していることが明らかになった。田中はロンドン五輪に備え、大学院修了後の来春も日体大に残る可能性が高く、五輪後の“争奪戦”はヒートアップが必至。今や、なでしこ級の存在感だ。日本女子はこの日、本番の会場で公式練習を行った。

 “美しすぎる体操選手”の獲得に、多くの芸能人やアスリートを抱える超一流事務所が、こぞって名乗りを上げた。

 「欲しい逸材です。あの笑顔はアイドル以上の癒やし効果があるでしょう」(大手芸能事務所)

 「一度競技生活で挫折しながらここまでもってきた精神力はすばらしい。タレントの原石としても、なでしこジャパンより上です」(大手芸能プロダクション関係者)

 「美しい体操の技と華麗な容姿。女子体操で伝説になり得る存在です。ぜひ一度、お話を聞きたい」(某スポーツマネジメント会社)

 田中は昨年のロッテルダム大会では個人総合17位ながら、美しい演技をした選手に贈られる「エレガンス賞」を獲得。演技だけでなく美貌にも注目されてテレビ出演が相次ぎ、写真週刊誌の表紙も飾った。

 

 

 そりゃあ芸能界は欲しいだろうなあ。実際にMCみたいなこと、リポーターみたいなこと、メディアで何か喋る能力があればなお良い訳だけど、とにかく美しいし、清楚だし、凛としたひたむきさ。文句なく好感度バツグンでしょうね。現在のままのキャラなら絶対に大衆ウケして国民的アイドルクラスになれそう。やっぱ何だかんだ言ったって時代が変わろうが、清楚さや真面目さが大好きなんだよね、国民は。性格も良さそうだし。その美しさから真央ちゃん以上かも。正に、まんま“ヤマトナデシコ”キャラ。今のところは意外とCMにはあんまり出てないですよね。オリンピック目指すアマチュア選手だし、CMやTVバラエティーとか芸能関係は、まだ控えてるのかな。ワシみたいな爺さんが言うと気持ち悪いと言われそうですが、ワシも理恵ちゃん、大好きです。頑張れ~!

 

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山本小鉄さん逝く

2010年08月30日 | スポーツログ

  

「鬼軍曹」元プロレスラーの山本小鉄さん死去

 

     元プロレスラーの山本小鉄(やまもと・こてつ、本名山本勝=まさる=)さんが28日、低酸素性脳症のため死去した。 

 68歳だった。告別式は近親者で行う。

 日本プロレスに入門後、1972年、新日本プロレスの旗揚げに参加。後輩を厳しく指導した「鬼軍曹」として知られ、引退後は解説者や、タレントとしてテレビで活躍した。

 

 

 山本小鉄さんはものすごく真面目な人だったらしいですね。多分、昔気質の頑固一徹、根性の人だったんでしょう。

 力道山、最後の弟子。日本のプロレスの父、力道山が亡くなったのは63年ですよね。ちょっとはっきり憶えていないけど、63年暮れだっけか。64年正月?やっぱ63年暮れ頃だっけかな。山本小鉄さんのプロレス入門は63年。直接、力道山先生から教えを受けたかどうかは解らないけれど、力道山プロレス道門下、最後の弟子ですよね。

 この時代になると力道山はもう実業家の顔もあったから忙しくて、新弟子に直接指導したりはしていなかったかも知れない。この時分の力道山は毎日の試合でエキサイトするために試合前に薬を打っていた、というウワサがある。この時代って38歳くらいかな、力道山。調べもせず、うろ覚えの記憶だけで書いていて、申し訳ないんですが、この当時はリキパレスという総合レジャー施設を作ったり、スチュワーデスさんと結婚もしたし、古巣の大相撲の重鎮と接触を図ったりと、次のステップアップを考えていた時期だから、ましてや大人気TV放送プロレスの唯一絶対エースだし、超多忙、力道山は直接、新弟子の稽古を着けることはしてなかっただろうなあ。

 ヘビー級の山本小鉄さんは身長は170センチくらいしかなくて、入門当時は小さ過ぎて、常に門前払いで、最後まで諦めずに力道山に直談判、そのしつこさの鋼鉄の意志で入門が出来たんだそうだ。

 ヤマハブラザース、山本小鉄さんは、僕の記憶に残る印象は、プロレスラーとしてよりも、古館伊知郎アナウンスのワールドプロレスリング新日本の実況中継で、名解説者として時折エキサイトしながらも実況していた山本小鉄さんだよなあ。

 というのも僕が子供時代育った地方では、ローカル局でプロレスの放送はTBS系列の国際プロレスだけだったからだ。僕が中二か中三くらいの時に、NET(現在のテレ朝)系列のワールドプロレスリングの放送が始まって、猪木他の試合が見れるようになった。多分、この時初めてヤマハブラザースを見たのだろうけど。ヤマハブラザースのプロレスはあんまり印象に残っていないなあ。当時の少年漫画誌のプロレス漫画で読んで、ヤマハブラザースは知ってはいたんだけど。

 旧日本プロレスを追放されたアントニオ猪木を助けて、1972年だっけか、猪木の新日本プロレス立ち上げに甚大な加勢をする。いわば猪木の縁の下からのつっかえ棒的存在、だったのかな。猪木の支え役、ですね。当時の新日、営業本部長、新間寿氏といい、猪木という人間には人望があったんですね。もう一人の全日のジャイアント馬場さんも違うタイプの人望を持ったリーダーだったけど。

 馬場、猪木という、日本のプロレスの、カリスマリーダーのキャラクター比較をすると面白いかも知れないな。両雄の往時をよく知る人たちの話を詳しく聞いて。力道山というリーダーも居るが、時代が時代だし出自もあるだろうし、後年ムチャクチャな面があったからなあ。単純に比較するのはどうかなあ‥。馬場・猪木リーダー比較論、は面白そうだな。誰か、知識人、発表してくれないかなあ。三沢や長州を入れても面白いけど。前田日明も。

 山本小鉄さんだったなあ。鬼軍曹、山本小鉄。ストロングスタイルのプロレスに誇りを持った、頑固一徹、曲がったことの大嫌いな根性の人、山本小鉄。

 昭和の時代から平成、21世紀へ。小鉄さんのような不器用だが真っ直ぐな昔気質な人間は絶滅種になりつつあるんだろうな。寂しいですね。

 御冥福をお祈りいたします。

 

 

 

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大大ダァ~イ大躍進!!!

2010年06月25日 | スポーツログ

 

○<南アW杯>日本2大会ぶり決勝T進出 デンマークに3-1

 

      サッカーのワールドカップ(W杯)南アフリカ大会第14日は24日、1次リーグ4試合があり、E組の日本はデンマークを3-1で降して2勝1敗(勝ち点6)とし、自国開催だった02年日韓大会以来、2大会ぶり2回目の決勝トーナメント進出を決めた。オランダ-カメルーンはオランダが勝ってE組1位となり、2位の日本は、29日午後4時(日本時間午後11時)の決勝トーナメント1回戦で、F組1位のパラグアイと対戦する。

  前半17分、ペナルティーエリア右角前の位置、ゴールまで30メートル超のFKから本田が直接、無回転で不規則に変化したボールをゴール左隅へ突き刺した。前半30分には、ゴール中央20メートルの位置で得たFKから遠藤が直接シュート。右隅に絶妙にコントロールされたボールがゴールに吸い込まれた。後半36分には、トマソンのPKをGK川島が止めるが、こぼれ球を押し込まれ1点を失った。しかし後半42分、本田の突破から、フリーの岡崎が無人のゴールに流し込みダメ押しの3点目を挙げた。

 

 

 おおおォォォ~!!やってくれました、デンマーク相手に3対1の快勝!

 文句無し、言うコト無し。すごいぞ全日本!大活躍!だ。

 いやあ~、ボク、この南アFIFAワールドカップ、日本はどーせ、1次リーグ3敗0勝で終わってとぼとぼ帰って来るんだろう、と踏んで、全く期待してませんでした。

 済みません!失礼しました!
 ダウナーマイナー下げ下げ期待を裏切って、すごいすごい大活躍だ。

 こう言っては大変失礼だが、奇跡!いや、実力だ。日本人のサムライブルーの魂だ!気力だ、精神力だ!!

 めでたいめでたい!

 けっこう言ったが、言うコト無し!

 こうなったら、もう行っちゃって!岡ちゃん、頑張れ!

 全日本全員頑張れ!!

 さあ、行くぞ、次はパラグアイだ。

 渋谷スクランブル交差点の大騒ぎも、迷惑で危ないかも知れないけど、解るよなあ~。おまわりさんたち、早朝から大変ご苦労様です。

 

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ギネス!真央ちゃん世界記録

2010年04月12日 | スポーツログ

 

○真央“世界記録”ギネス認定

 

      フィギュアスケートの浅田真央(19)=中京大=が11日、都内でギネス世界記録認定証を授与された。バンクーバー五輪で計3回のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)に成功。女子史上初の偉業が、3月1日にギネス・ワールド・レコード社によって“世界記録”として認定されていた。

 「ずっと挑戦してきて、一番大きな舞台でできたことがうれしい」。日本スケート連盟・橋本聖子会長からは「精神的な強さを感じて頼もしく思った。ソチもお願いします」と、4年後への期待をかけられた。

 日本フィギュア界からは、89年の伊藤みどりさん、02年の安藤美姫以来、3人目の“快挙”。「自分が載っているところを早く見たい」と、9月発売の「ギネス世界記録2011」を心待ちにしていた。

 

 

 わ~い、やったね!真央ちゃん。

 これこそが世界アスリートの祭典、オリンピックの金メダルだよ!

 これは文句なし、オリンピックの金メダル。

 アスリート真央ちゃんの身体能力、技術力。

 なまめかしい、セクシーダンスの演技の滑らかさが、アスリート競技の主体ではない。オリンピックは世界アスリートの祭典だ。

 いや、あまりにも点数の開き具合が広過ぎるのが、おかしいだろう!?と、どうしても思えるんで。この間の世界選手権でも、フリー競技で、ほぼ完璧な真央ちゃんに対し、転倒のあったキム・ヨナの方が上位、というのも全く、納得がいかない。

 いや、それはキム・ヨナも、身体能力も技術力も素晴らしいものを持った選手だろう。だが、アスリートとしては、浅田真央の方が上だ。

 真央ちゃん、万歳。
 

 

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バンクーバー五輪Ⅲ

2010年03月02日 | スポーツログ

 

○バンクーバー五輪 閉会式行われる

 

     バンクーバーオリンピックは現地時間先月28日、閉会式が行われ、17日にわたって展開された熱戦に幕を下ろした。

 冬のオリンピック史上最多となる82の国と地域が参加して、17日間の熱戦が繰り広げられたバンクーバーオリンピック。閉会式は、冒頭、開会式でトラブルのため出なかった聖火台が4本そろい、炎がともされた。

 日本の旗手は、フィギュアスケートで銀メダルを獲得した浅田真央選手。日の丸を手に晴れやかな表情で入場した。日本が獲得したメダルは銀メダル3個、銅メダル2個で、いずれもスケート種目での獲得となった。また、入賞はメダルを含めて26種目で、メダル・入賞とも前回のトリノオリンピックを上回った。

 閉会式では、次回14年の開催地、ロシア・ソチへと五輪旗が引き継がれ、4年に1度の雪と氷の祭典に幕が下ろされた。

 

 

 閉会式の音楽ショーにアヴリル・ラヴィーンが出て歌っていて、日本選手団の若者たちもノリノリでしたね。みんなで腕なんか突き出しちゃったりしてて。世界トップクラスのアスリートも、普通の若者と変わらないんだな、と改めて思いました。真央ちゃんも自分の演技出番直前に、ヘッドフォンで聴いていたのは浜崎あゆみだったとか。

 アヴリル・ラヴィーン、イケてるというかカッコイイというか、綺麗ですね。ケバイけど美人。だいぶ前にミュージックステーションにも出演してましたが、カナダ人アーティストだったんですね。もう、一度結婚してるんですね。見ていて、ああ、そうか、カナダ人だったのか、と思い出したんですが、僕は勘違いしてインド系カナダ人だと思い込んでました。

 アヴリル・ラヴィーンはフランス系カナダ人でした。宗教の印象があって、何か、イスラム系かヒンズー系だと思い込んでいたのですが、これも勘違い、普通にキリスト教系でした。バプテスト派というキリスト教系の一派らしい。ちょっとだけ太ったかなあ。でも、アヴリル・ラヴィーン、イイですね。僕の好みとしての音楽はまあまあですが、ケバイ美人のルックスはけっこう好きです。でも同じケバイ美人系でも、ブリトニー・スピアーズなんかは僕は、初めから興味なかったですけどね。

 真央ちゃんの国旗・旗手は良かったですね。あの閉会式会場に居るお客さんはほとんどが選手か関係者なんでしょうが、選手が自由に動き回ってた後半、真央ちゃん、人気ありましたね。諸外国の選手やスタッフに、写真をせがまれてたのがひっきりなしでした。国際的人気はキムヨナよりもぐーんとあるんじゃないですか。キムヨナの3倍は可愛いし、魅力的だし。でも、まあ、僕は小平奈緒ファンですが。

 しかしオリンピックに出る選手はすごいですね。4年間ですからね。4年に一度、たった何分間ですよ。競技によっては、数十秒から何分間。競技によるでしょうけどね、二度出来たり、1時間2時間掛かるものもあったり。でも4年にたった1度だけに、4年間の生活全てを掛けるんですから。

 何たってモチベーションの維持がすごい。 無論、ずば抜けた運動能力の持ち主ばかりでしょうが、やっぱり精神力は並大抵のものではないですよ。4年間地味な練習を毎日毎日コツコツ、同じことの繰り返しを積み重ね積み上げていく。普通の凡人では気が狂うようなことに思えるけど。他の全てを犠牲にしてね。国民の大多数の凡人の一般人は、気安く「もっと、がんばれ」とか言えませんよ。

 上村愛子さんが、金メダルを取るんだ、って過酷な練習を繰り返し繰り返し行っていたけど、ドキュメントの練習風景の中で、駄目だ無理だ、って泣いてるトコがあったけど、普通の人はあそこで止めますよ。普通の人は諦めます。でもあの人は、また立ち直ってその時点での不可能に再び挑戦するんだから。そしてその挑戦っていうのは、気が遠くなるくらいの長期に渡る、毎日毎日の練習の繰り返しなんだから。本当にすごいですよ。運動能力というよりも精神力。浅田真央ちゃんもキムヨナもそうでしょう。

 やっぱり、国民の多くは感動をもらったでしょうね。面白かったしね。

 

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バンクーバー五輪Ⅱ

2010年03月01日 | スポーツログ

 ○バンクーバー五輪閉幕へ スピード女子団体追い抜きで銀

 

      バンクーバー冬季五輪第16日の27日(日本時間28日)、3人1組で滑るスピードスケート女子団体追い抜きで日本が銀メダルを獲得した。穂積雅子(23)、田畑真紀(35、ともにダイチ)、小平奈緒(23、相沢病院)の日本は準決勝でポーランドに競り勝ったが、決勝ではドイツにわずか0秒02差で惜敗した。

 今大会で日本の獲得したメダルは銀3、銅2の計5個となった。

 17日間の雪と氷の祭典は28日(同3月1日)の閉会式で幕を下ろす。日本選手団はフィギュアスケート女子で銀メダルの浅田真央(19、中京大)が旗手を務める。

 

 

 小平奈緒ちゃん、可愛いですね。僕、カーリング女子の本橋マリリンよりも何とかアンナちゃんよりも、女子フィギュア陣よりも、小平奈緒ちゃんのルックスファンなんですよ。女子スノボクロスで不運の出場取り止めだった藤森ユカちゃんも可愛かったけど、何といっても僕は、大会前から小平奈緒選手でした。その、ルックスが。

 小平奈緒ちゃんは最後に、パシュートなる競技で銀メダル獲りましたね。その他にもスピードスケートでは、1000と1500の両方で5位入賞の記録を獲りましたね。ワシのお気に入りの小平奈緒ちゃん、すごい!サイン、欲しいくらいだな。

 後は、カーリング女子に美女や可愛い娘がけっこう居ましたね。イギリスの娘とロシアの二人。良かったなあ。え?メダル?競技の記録?いや、そういうのはいいんです、別に。可愛い系アスリートが見れたら。女子フィギュアではルックスではもう、何倍も真央ちゃんですね。キムヨナの妖艶とかいう色気なんて、真央ちゃんの凛としたアスリートとしての美しさの前では到底、問題になりませんよ。良かったなあ、真央ちゃん。

 それにしても小平奈緒ちゃんだよなあ、やっぱ。後はまあ、別にいいや、何でも。 

 ああ、そうだ。女子モーグルの上村愛子ちゃんも可愛いといえば、まあ、可愛いけど、人妻だしな。亭主は最悪に終わりましたね。ゴシップですが、何でも、上村愛子さんの元カレがモーグルの一流選手で、愛子さんと付き合いだして大不調に陥り、別れた後は復活したんだとか。現亭主の今回の、わずか十数秒での競技棄権では、こんなことは言ってはいけないことかも知れないけれど‥、サゲマン?

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