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 “人間風車”ビル・ロビンソン

2014年03月07日 | 格闘技ログ

“人間風車”ビル・ロビンソン氏死去 75歳

 

   “人間風車”の異名をとり、日本でも人気のプロレスラーだったビル・ロビンソン氏が3日、米アーカンソー州で死去した。75歳。新日本プロレスが4日、発表した。

 ロビンソン氏は1938年、英国・マンチェスターで生まれ、19歳でプロレスデビューした。ダブルアーム・スープレクスを武器に、60年代後半から国際プロレスを日本の主戦場として活躍。その後、新日本、全日本に活動の場を移した。85年に引退。99年から2008年まで東京・高円寺で後進の指導にもあたっていた。

 

ビル・ロビンソン氏死去 元プロレスラー、「人間風車」

 

  ビル・ロビンソンさん(元プロレスラー)が米アーカンソー州で亡くなったと新日本プロレスが4日、発表した。75歳。

 英マンチェスター出身。15歳で通称「蛇の穴」と呼ばれるジムに入門し、アマチュアレスリングで数々のタイトルを獲得後、21歳でプロレスデビューした。1965年に欧州ヘビー級王座を獲得。大技「人間風車」で知られ、75年のNWF世界ヘビー級選手権でアントニオ猪木と引き分けた試合は「伝説の一戦」として語り継がれている。

 85年に引退後は米国で暮らしていたが、92年、日本のプロレス団体UWFインターナショナルの専任コーチとして若手を指導。99年から東京・高円寺に住み、元プロレスラー宮戸優光氏のジムで08年まで指導していた。

 

 

 ビル・ロビンソンは強かったなあ。子供の頃の憧れの一人でもありました。“人間風車”ビル・ロビンソンは、徹底したベビーフェースで、絶対反則をしなかった。あの“鉄人”ルー・テーズでさえ、ナックルパートっていうのか、拳骨パンチの反則をやってた。まあ、僕が見てた頃のテーズは既に老いていて、ナックルパートでワザの衰えを補っていたのかも知れない。僕がTVのプロレス番組を熱中して見てた、少年の頃は、まだプロレスのマッチワークの構図は、悪の外人レスラーたちを正義の日本人レスラーが迎え撃ち、大きくて不気味で怖そうな外人レスラーたちの、怪物的な力のレスリングや汚い反則攻撃を浴びて、日本人レスラーが最初やられっ放しで苦戦し、後半チャンスを掴み、何とか盛り返し、終盤形勢逆転、悪の外人レスラーをこてんぱんにやっつける、という、まだまだ戦後力道山のプロレスの構図だった。来日する巨漢レスラーたちはみんな、“悪”側だったのだ。悪者側。まあ、例外もありますけどね。例えば“鉄人”ルー・テーズとか。在りし日のテーズは、文句ない世界最強レスラーだったからね。あとは、頑固な正統派レスリングを守る、“神様”カール・ゴッチ。ゴッチが“神様”って呼ばれてたのって、日本だけなんじゃないのかな(?)。まあ、他にもレスリングのワザを主体にしたベビーフェースも居ましたけどね。でも、大半の来日外人レスラーは、不気味で怖い悪役レスラーだったように思う。入れ替わり立ち代りやって来る、反則悪役レスラーたちも、“悪役”の程度の差は個々にありましたけどね。ごく少数のベビーフェース以外、みんな悪者外人レスラー。最後には日本人ヒーローレスラーがやっつけて、戦争に負けた日本国民は溜飲を下げ、スカッと晴れやかな気分を味わう。その方式は、昭和40年代いっぱいまで続いた。

 力道山はキャバレーでヤクザ者に刺され、その二、三日後(正しくは一週間後のようですね)に病院で亡くなった訳だが、それは、僕が七歳当時の、国民的大事件くらいの大騒ぎで、あの時代、力道山のことは日本国中知らない人は誰一人居ないくらいの、スーパースターだったけど、僕の住む地方では当時、プロレス中継はTVでやってなかった。僕がものごころ着いた頃には、既に家庭にモノクロTVはあったし、力道山の存在も幼少時から知っていたけど、僕は実際にリアルタイムで力道山のプロレスファイトを見たことはない。多分、TVのワイドショー的な情報番組か何かでか、雑誌で知ったか、周囲の大人たちの会話から知ったのか、まあ、当時は児童雑誌のプロレス漫画には絶対、力道山が登場したし、僕は見たことないけど力道山の映画もあったろうし、子供向けTV番組で「チャンピオン太」なんてのもやってた。だから、幼少期の僕は、力道山のプロレス試合は見たことないけど、力道山は知ってた。現に幼い頃の記憶で、幼馴染の、向かいのM君が、家の前の、まだコンクリ製に替わる前の樹木・丸太製の、木の電信柱を、手刀でとんとんやりながら、「力道山は空手チョップでこの電信柱折れるかなあ」とか何とか話していたのを、今でも僕はよく覚えてる。当時、僕の住む地方では、TVでプロレス中継放送してなかったけど、力道山亡き後のエース、ジャイアント馬場の存在も僕は知ってた。当時は親父が、読売新聞と西日本新聞の他に、スポーツニッポンも取っていたというのもあったかも知れない。また、当時の親父の職場である、家の前の事務所に来るイロイロな、若い社員とか請負の人や作業員の人たちが、九州スポーツを買って来て置いて行ってたし。力道山亡き後、G馬場は知ってたけど、猪木さんは多分、知らなかったろうなあ。少年マガジンの漫画で「潜艦豊登」というのがあったから、もしかしたら豊登選手は知っていたかも知れない。「潜艦豊登」のマガジン掲載は昭和39年だな。あるいは、吉村道明さんとかも名前くらいは知っていたのかも知れない。多分、あの当時の僕は、イロイロな情報を漫画雑誌で得ていたんだろうな。僕は、小学校高学年とか中学生時代、家から近くのアーケード商店街にあったI書店に、当時の「ゴング」や「プロレス&ボクシング」を立ち読みに行ってた。まあ、I書店に漫画雑誌を買いに行ったついでに、立ち読みしてたんだろうが。そういう専門誌の記事で、プロレス世界ランク番付が載ってて、ベスト10に日本人で唯一人、G・馬場が9位とか10位に入っているのを見て、世界には強いレスラーがいっぱい居るんだなあ、とか感心してた。NWA世界チャンピオンが“荒法師”ジン・キニスキー、WWWF世界チャンピオンがブルーノ・サンマルチノの時代。あの時代、プロレス専門誌をいつ見ても、AWAチャンプはバーン・ガニアだった。

 プロレスの試合が見たくて見たくてたまらなかった子供時代、やっとこさ僕らの住む地方でもTVでプロレス中継が放送されることになった。少年誌の紹介記事を見て、もうワクワク気分に高揚した。何でも、馬場や猪木の居る日本プロレスとは別の団体が、新しく出来て、TBS系列で毎週放送されるらしい。もう本当に嬉しくてワクワク、放送が待ち遠しかった。その新たな団体は、雑誌ではTBSプロレスと紹介されてたが、実際は国際プロレスという新しい団体だった。放送が始まったのは、僕が11歳か12歳のときだ。敵役の外人レスラーたちは僕の知らないレスラーばかりだったけど、もう老境に差し掛かっている、“鉄人”ルー・テーズも外人レスラーの中に居た。そのときのテーズはもう、NWA世界チャンピオンではなかった。しかしテーズは強かった。雑誌で紹介された、迎え撃つ日本人レスラー軍は、いざ試合を見てみるとたいしたことなかった。エースと言われる、グレート草津は弱かった。まあ、みんなプロレスを始めて間もないような、若手選手ばっかりだったからね。アマレス経験のあるサンダー杉山がいくらか強かったけど、テーズを初めとする外人レスラーのワザのテクニシャンたちに比べると、何か泥臭いレスリングだった。日本人選手サイドが勝利する試合も、ふうふうぜいぜい、やっとこさ勝ててるような按配だった。全盛期を過ぎたルー・テーズは、ナックルパートの反則を多用して狡賢く試合運びしても、最後はキッチリ、バックドロップを決めて鮮やかに勝利し、国際プロレスの中でTWWA世界チャンピオンのベルトを巻いていた。まあ、その後ジュニアヘビー級のダニー・ホッジに敗れる訳だけど。国際プロレスにはその後、IWAというベルトが出来るけど、TWWAベルトとは何だったんだろうな。結局、ホッジが持って帰っちまったし。IWAの時代とは、ストロング小林とかラッシャー木村が出て来てからの時代だな。

 TBS系列でプロレス中継が確か、水曜夜七時放送で始まって、敵役の来日外人レスラーには怪力や巨漢や怖そうなのや、けっこう魅力的なレスラーが登場していたけど、それを迎え撃つ国際プロレスのグレート草津やサンダー杉山他が、何かパッとしなかった。強そうにも見えなかったし、正直あんまし強くなかった。途中から、怪力・豊登が参加してから、豊登選手はけっこう強かった。いつも裸足で上背はないが、相撲上がりの身体がけっこう良くて、何せ力がメチャ強くて、ベアハッグとか力ワザが魅力的で、当時の日本人選手中では一番強く、強豪外人レスラーと充分渡り合えた。豊登の活躍で、日本人サイドは救われた。あの時代の国際プロレスには、けっこう有名な外人レスラーが来てるんですよねえ。中には、まだ無名時代のモンスター・ロシモフ、後のアンドレ・ザ・ジャイアントも居たし。そして、次期エースとなるストロング小林やラッシャー木村が、まだメインやセミファイナルを張るレスラーにまで成長する以前に、正統派レスリングの、絶対反則をしないベビーフェイスで超強豪の、ビル・ロビンソンがやって来た。

 いやあ~、ビル・ロビンソンは強かった。反則を全くせず、正統派レスリングのワザだけで戦う試合は見事で、魅力的だった。バックドロップはルー・テーズで知っていた。僕はリアルタイムでカール・ゴッチの試合を見たことなかったけど、日本で原爆固めと呼ばれていたジャーマンスープレックスも、何故か知っていた。けれど、ビル・ロビンソンの、このワザを見たのは初めてだった。ダブルアームスープレックス。このビル・ロビンソンの必殺技をして、ビル・ロビンソンは“人間風車”と呼ばれた。“人間風車”は決めワザだった。ビル・ロビンソン以外の誰も使ってなくて、当時の僕は多分、誰もこのワザを真似できないのだろう、と思っていた。中学生になった僕は、だいたい僕は小さい頃から生まれつき身体が柔らかくて、学校でプロレスごっこをしていて、中一くらいでジャーマンスープレックスが出来た。家では毎日ブリッジをして首を鍛えていた。この当時は毎日、家の畳の上で、腕立て伏せとスクワットと腹筋とブリッジを、日課でどれも百回以上やっていた。首を鍛えていたので、学校のクラスメートに、背筋・腹筋を使って、ゆっくりとジャーマンスープレックスを掛けることが出来た。時折バックドロップもやってた。廊下でいきなり、当時“イタケン”と呼ばれていたI君にバックドロップを掛けたら、モロに後頭部を床で強打して、I君はしばらく立てず心配したが、その内起き上がって、僕は、怒ったI君から顔面を殴られた。殴られたけど、不意打ちにバックドロップを掛けた僕の方が悪いので、僕は素直に謝った。このシーンは今でも覚えている。“イタケン”とのあれこれも懐かしいな。中二か中三時に千葉か何処かへ引っ越しちゃった。あ、いや違った。思い出した。I君は僕の胸か腹を殴ったんだ。顔面を叩かなかったのは、気を使ってくれたんだろう。かなり強くだが、胸か腹だった。しかし、あのときの僕もまたどうして、廊下で出会いがしらにバックドロップなんて掛けたんだろう(?)。で、僕は中学生時、ジャーマンスープレックスホールドが出来た。でも、ダブルアームスープレックスは出来なかった。だが運動神経が良くて野球部所属のY君は、このダブルアームスープレックスが出来た。僕は、凄いな、と驚いて感心した。Y君は運動神経抜群だったけど、けっこう勉強も出来てたな。学業も優秀な方だった。小六頃、小学校の足洗い場で、僕ん家向かいのM君が怒って、Y君の胸をどんどん突いて当たっている(詰め寄っている)シーンを覚えている。Y君はされるままだったな。何か憶えてるシーン。小学校時代、M君とY君は同じクラスだった。ああ、こんなことイチイチ書いてたらキリがないな。まあ、あの当時の、Y君のダブルアームスープレックスは凄かったよ。僕のジャーマンスープレックスもゆっくりゆっくりやって、技を掛ける相手にケガさせないようにしてたけど、Y君も技を掛けてる相手にケガさせなかった。床への落下に気を使って、慎重にやってたんだな。子供の頃のプロレスごっこも懐かしいね。

 どんなに悪役レスラーに反則攻撃を受けても、決して反則で返さずに、正統派レスリングのワザで返す、ビル・ロビンソンのプロレスはスポーツマンシップ的で、繰り出すワザは華麗で鮮やかで、文句なく強くて、また、正義の味方然としてて、カッコ良かった。来日外人選手なのに、日本人側に入って、悪役反則外人レスラーたちを次々やっつけてた。僕が、TVで国際プロレスの試合を見てた時代は、まだ、日本人レスラー正義軍対悪役外人レスラー軍の構図だった。前座以外で、日本人選手どおしが試合することは先ずなかった。最終的には、日本人レスラーが悪役反則外人たちを蹴散らして、見ている観客・ファンが試合後、溜飲を下げて気分をスカッと爽快にさせる、そういう構図の興行だった。日本人選手どおしの遺恨の試合、とかいうシナリオは70年代に入ってからだな。70年代半ば頃からだろうか。新たな構図は、猪木さんが始めたんだろうけど。70年代に入ってから猪木さんは、異種格闘技戦も含めて、プロレスに新しいドラマを持ち込んだ。馬場さんのところは相変わらず、日本人対外人だったけど、80年代に入ると、長州力さんや元国際レスラーとかが合流して、軍団結成方式で、馬場さんの団体に参加して、日本人どおしの抗争ドラマが始まった。80年代以降は日本人選手どおしの遺恨のドラマも、日本のプロレスの柱になったな。力道山の時代から、プロレスを盛り上げるのはドラマ性だったからなあ。ドラマはプロレスの醍醐味。アメリカのスター外人を呼ぶより、日本人選手どおしの方が安く着く、というコスト面もあるだろうな。まあ、猪木対タイガー・ジェット・シンも、ファンク兄弟対ブルーザー・ブロディもあった訳だけど。話がビル・ロビンソンから逸れてしまった。

 ビル・ロビンソンは、カール・ゴッチと共に、日本の古流柔術みたいな、古きヨーロッパの、歴史ある隠れた実力派実戦レスリング、イングランドのキャッチアズキャッチキャンの正統継承者だった。寝技・関節技・レスリングで、文句なく本当に強い実戦レスリング。梶原一騎が「タイガーマスク」の構想でモデルにしたという、「蛇の穴」の出身者。これも、カール・ゴッチともども、蛇の穴=スネーク・ピット=実戦最強レスラー養成所出身の、レスリング実戦高等技術マスターの強者。日本には、カール・ゴッチとビル・ロビンソンの弟子筋がたくさん居る。カール・ゴッチさんが亡くなったのは2007年かあ。“神様”ゴッチの死もショックだったけど、ビル・ロビンソンさんの死も衝撃だなあ。僕らの子供時代、少年時代、青年時代までも、プロレスラーは強さの象徴で憧れの存在だった。僕の子供時代、青年時代のヒーローが居なくなって行くのは本当に寂しい。もうあらかた僕の少年時代のヒーローは、現世を退場したなあ。寂しいなあ。

 

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