旅限無(りょげむ)

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歴史的遺産の利用法 其の弐

2006-06-19 10:43:27 | 歴史


遼寧省大連市の政治協商会議では今年1月、大連大学の王禹浪教授らが石碑研究の促進を求める提案をした。旅順市では石碑の展示館建設計画も浮上している。北京の研究者らが04年に設立した「唐鴻ロ井碑研究会」(羅哲文会長)の関係者は、「石碑研究での協力を進め、駐日友好関係を発展させたい」と話し……。

反日運動に利用しようという悪意はまだ見えないようですが、下手をすると一番損な役回りが日本に押し付けられる危険は有ります。


中国側の関心の背景には、歴史的な帰属をめぐる韓国との論争がある。渤海国の前にあった高句麗をめぐる論争は、昨年5月の中韓首脳会談で取り上げられるなど、外交問題に発展した。中国から見れば、高句麗の流れを引く渤海国が唐の藩国であったことを示す石碑は、両国とも中国の歴史に位置づけられるとの立場を裏付ける重要な証拠になる……。

■高句麗時代、楽浪郡や帯方郡を置かれてチャイナの藩国になっていたのは事実ですが、313年には五胡十六国の動乱時代の開始に合わせて完全な独立を回復しています。その全盛期に出現したのが広開土王で、チャイナは南北朝時代へ移る中、高句麗は現在の北朝鮮の2倍以上の国土を北に広げて元気でした。現在の韓国に当たる場所には新羅・百済・加羅(任那)が鼎立して大和朝廷も勢力争いに介入しているという非常に複雑な国際情勢でしたなあ。そんな高句麗ですから、朝鮮半島の人々にとってはチャイナの圧力を押し返した歴史の希望であるわけです。しかし、相手のチャイナ側からすれば、楽浪・帯方郡を置いて呑み込んだ時点から歴史を語りたいわけで、高句麗が元気になったのは北方民族が乱入して起こった天下大乱の五胡十六国から南北朝の「特殊な時代」に起こった一時的な椿事だったと言いたいのでしょうなあ。

■一度呑み込んだからと言って自分の領土だったと言うのは怪しからん!と韓国は怒っているのですが、その舌の根も乾かないうちに竹島ばかりか対馬にまで唾を付けたと偽書を振りまわして興奮しているのは困ったものです。世界は二枚舌で喧嘩するのが常態なのですなあ。日本もこういう図々しさと逞しさを身に付ける必要が有りそうですぞ。渤海国の遺跡は遠くロシア沿海州にも残っているのだそうです。ウラジオストクの西300キロ、その名を「クラスキノ遺跡」と言うのだそうです。昔は「塩州城」という地名で、日本へと向う船が出た港町だったようです。環日本海文化と呼ばれる広大な交易ネットワークの歴史は古く、渤海国もこの伝統の中に出現したのでした。渤海は海上交易によって栄え、唐王朝さえも羨むほどだったのです。

■このロシアのクラスキノ遺跡から発掘された陶器の破片が、福岡県、石川県、山東省、四川省、陝西省、浙江省などでも発見されている湖南省産の物だとか、何とも壮大なネット・ワークを作ったものですなあ。日本海沿岸の地方自治体では、新しい日本海文化を創り出そうと頑張っているところが多いようですから、渤海国の歴史は決して他人事ではないのです。


渤海史を専門とし、99年に石碑を紹介する論文を発表した国学院大栃木短大の酒寄雅志教授は「渤海という国ができた当時を考える史料だ。皇居の奥深くしまい込んでおかないで、まずは開放・公開してほしい」と語る。宮内庁によると、石碑は現在も「国有財産」として皇居内の吹上御苑で保管されている。立ち入り規制があり、写真の提供には応じることはあるものの、公開はしていないという。返還などを求める動きについては、「そういう報道には接していない」としている。

■高熱をおしてシンガポール、マレーシア、タイを歴訪していらっしゃる天皇皇后両陛下がお聞きになったら悲しむような宮内庁のコメントです。こういうのは世が世ならば「君側の奸」と言うのではないでしょうか?宮内庁には新聞も雑誌も届かないのか?海外での武力行使を認めない「憲法9条」を遵守するなら、「戦利品」はどんどん送り返してしまえば良さそうなものですが、縦割り官僚達にとっては国益よりも省庁を守ることが大切なのでしょうか?欧米では平気で「戦利品」を博物館に展示しているのですが、それでも「国民の財産」として全面的に公開していますぞ。皇居内に仕舞い込んでいるのなら、「皇室の財産」なのではないですかな?もたもたしていると「略奪者」の汚名を天皇家に負わせることになるかも知れませんからご注意を願いたいものですなあ。

歴史的遺産の利用法 其の壱

2006-06-19 10:43:11 | 歴史
■日韓、日中間には「歴史認識問題」が出たり引っ込んだり、偶には暴動になったりしてテレビ・ドラマや映画などの交流に水を差します。面倒臭くなると、歴史など何も知らない素人が最近の歌手や俳優を気に入ったという単純な理由で「交流」が進めば良いのではないか?と考えたくもなりますが、それは所詮は「商売」の話という限界が有って、下手をすると新たな幻影が生まれて歴史自体が歪んでしまう危険が有ります。

■対馬では韓国からの観光客を抜きにしては地域経済が成り立たなくなっているという報道も有ります。それも草の根交流の一種なのですが、釣り人の違法行為やゴミ問題が深刻化しているとの話も有るようです。テレビ・ニュースによりますと、韓国からの団体客のガイドさんが参加者を喜ばそうと、「竹島も対馬も韓国領です」などとメチャクチャな説明をしてお客さんから拍手喝采を受けているようですぞ!地元の人にとっては大切なお客様ですから、何を言おうと放って置くしかないでしょうが、目に余るようになると抗議に出向いて暴力沙汰を起す元気な日本人が現われるかも知れませんなあ。戦後、韓国も中華人民共和国も、現政府の正当性を前面に押し出すために無理な物語で歴史を書き換えてしまっていますから、そんな教育を受けて育った人達が観光客になって日本に来ると面倒臭いことになりますなあ。


皇居の中に、中国から運ばれた一つの石碑が眠っている。7~10世紀に東北アジアにあった「渤海国」と、唐王朝の関係を伝える史料で、日露戦争後、「戦利品」として当時の日本軍によって持ち出された。中国の研究者らの間でいま、この碑の公開や返還を求める声が出始めている。……  以下 朝日新聞2006年5月28日記事

■記事の中でも言及されていますが、同時期に朝鮮半島から持って来た「北関大捷碑」が、置かれていた靖国神社の境内から今年3月に北朝鮮に返還されています。「日本は歴史的遺産も拉致した!」とでも騒ぎ立てるつもりなのか、と思っていたら案外静かに返還されたようです。戦争中の石碑と言えば、高句麗時代の「広開土王」を日本軍が改竄したのしないのと変な騒動が起きたことが有りましたなあ。朝鮮半島とチャイナとは、長い「押し競饅頭」の伝統が有りますから、高句麗VS隋だの高句麗VS新羅VS百済VS唐だの、朝鮮半島は分裂と統一を繰り返しながら、チャイナの歴代王朝とも対立と臣従とを繰り返していましたなあ。騎馬民族の雄だった高句麗は、隋の大遠征を3回に亘って撃退し、その莫大な戦費が原因で隋は滅亡したとさえ言われています。その高句麗の跡を継いだのが渤海国です。

■講談社現代新書1104『渤海国の謎』上田雄著が、コンパクトにまとまっていて読み易い渤海の入門書です。日本との関係がどれほど濃密だったのかが分かって楽しい本です。


石碑は「鴻ロ井碑」と呼ばれ、横3メートル、高さ1.8メートル。713年、唐朝が渤海国の国王に「渤海郡王」の位を授け、唐朝と渤海国が君臣関係を結んだ事を記している。現在の中国遼寧省旅順市に設けられた。日本と直接関係のないこの碑が皇居に移されたのは1908年。防衛研究所図書館収蔵の「明治37、38年戦役戦利品寄贈書類」などによると、海軍によって、日露戦争の激戦地だった旅順から運ばれ、戦利品として明治天皇に献上された。

■「日本と直接関係のない」と言い切れるかどうかは疑問が有りますが、激戦地だった旅順から手ぶらでは帰りたくなかった日本軍の気持ちは分かります。しかし、韓国が独立し満洲国も無くなったのですから、いつまでも日本が持っているのは問題が有ると言えるでしょうなあ。しかし、高句麗の跡を継いだ多民族国家の渤海の跡目はどこの国が継ぐべきなのか?と問われれば、非常にややこしい事になります。