旅限無(りょげむ)

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日本敗れる時 其の伍

2006-06-18 10:50:07 | 歴史
■暑さと疲労で守備陣はへとへとになっていた所に、試合前日まで休養を充分に取っていたオーストラリア軍が攻め込んで来ます。最長でも6ヶ月の軍務が終れば戦線を離れて休養を取っていた米軍に対して、召集されたら最後、ずっと戦線に貼り付けられていた旧日本軍の心身ともに追い詰められて行く状況に似ています。自殺説さえ囁かれる山本五十六大将の最前線での戦死は、始めから罠を仕掛けられたも同然の中田ヒデ君の疲れ果てた姿に重なります。楽勝を予感しつつ中途半端な守勢に入る事を言い訳にして疲れている仲間達は、邀撃漸減策と一度の大海戦を計画して最後まで全力の出撃を躊躇って終った旧海軍と重なり、間断なく積極的な攻撃を主張して受け入れられなかった山本五十六の悲劇が、「走らないとサッカーは勝てない」と言い続けた中田ヒデ君に重なります。

■ワールド・カップの会場に立てたサポーター達が眠りも忘れてはしゃぐのは許されても、選手が試合本番に疲れを残してしまうほどの直前練習に励むのは褒められたことではありません。同点に追いつかれた時、既にヒディング作戦に翻弄されてしまった中盤組は実力を発揮できないほどの疲労に襲われていたようです。それはまるで旧海軍が永久に実現しない大海戦を夢見て戦力を温存しながら徐々に保有艦船を無駄に沈められて行った姿に似ています。選手達は変なプレッシャーを感じて不安に陥ってしまったのでしょうか?練習せずに休養を取ったりすると無責任なマスコミが「怠けている!」「緊張感が足りない!」などと「撃ちてし止まん」の伝統を振り回すと心配したのでしょうか?


後半43分、投入された小野によって補強された中盤からパスが出て、ゴール前の福西に繋がるがシュートは不発。

後半44分、MFカーヒルがゴール前20メートルからのミドル・シュートがポストを直撃してそのままゴール左隅に決まり勝ち越しの2点目。その3分後ロスタイムに入って、FWアロイージがゴール前に突入して左足シュートで駄目押しの3点目。

1944年7月7日、サイパン島玉砕。
 同年7月21日、米軍がグアム島上陸開始。
 同年8月3日、米軍テニヤン島占領。飛行場建設。
 同年10月24日、レイテ沖海戦。神風特攻隊出撃。
 同年11月24日、サイパン島を発進したB-29が東京を初空襲。
1945年3月10日、東京大空襲。
 同年3月26日、沖縄上陸作戦開始。
 同年8月6日、広島に原爆投下。
 同年8月9日、長崎に原爆投下。

■一度だけ完成した縦パスの連携で福西君にシュートのチャンスが訪れましたが、敵陣ゴール前で足がもつれて自爆同然の不発シュートになってしまったのは、レイテ湾を目前にして反転した栗田艦隊の姿と重なりましたぞ。可哀想なのは川口君で、勝っている話ばかりを聞かされていた銃後の国民が焼夷弾の雨の下で、疎開だの灯火管制だのと追い詰められていった悲惨な姿とGK川口君の切なそうな顔が重なりました。後半44分に投入された大黒君は神風特攻隊みたいなものでした。健気(けなげ)に走り回ってもシュートのチャンスはやって来ませんでした。それは戦闘機として戦えなくなった零戦達に似ていました。

■そして、ロスタイムの3点目は、(誠に不謹慎な比喩になってしまいますが……)戦後のソ連との対立を見越した長崎への「無駄な原爆」投下みたいなものです。得失点差を有利にすると同時にブラジルとクロアチアに向けて怒涛の得点力を見せ付けるためのデモンストレーションのように見えましたなあ。既に日本の姿はオーストラリアの眼中に無かったのではないでしょうか?初出場のオーストラリアを韓国を率いて駆け上がったベスト4よりも上に押し上げようとする気迫がヒディング監督には満ちていましたなあ。

■日本側の敗戦の弁には、旧日本海軍が愛用した「米国の物量」神話によく似たものが漂っているようでした。自分の作戦ミスを相手の有利な条件を言い訳にして誤魔化しては行けません。始めから石油資源を遠方の求めねばならなかった日本軍が当然のエネルギー不足で自滅して行ったように、暑さと緊張と言う敵も味方も同じ条件下で、スタミナ温存に失敗したばかりか、選手交代に逡巡したジーコ監督の失敗は誰の目にも明らかです。出場選手を発表した記者会見で、監督交代というサプライズが必要だったという冗談が冗談ではなくなってしまいましたなあ。日本が戦争(サッカー)に勝てるようになるには、まだまだたくさんの苦労を経験しなければなりません。サポーターの皆さんはプロ野球界の阪神ファンや横浜ファン、或いは最近の楽天ファンを見習って粘り強く応援し続けねばならないでしょう。

■日本社会ぜんたいの問題として、小さな子供達が走り回ったりボール遊びが存分にできる「空き地」を確保しない限り、ワールド・カップのピッチを90分間疾走する馬力の有る強靭な足腰を持つ選手は出現しない事も考えるべきでしょう。テレビ・ゲームと自動車遊びが大好きな若者の中からサッカー選手など生まれるはずはないでしょうし、元々、スポーツの基本になる「走る能力」を軽視している文化にも問題が有ります。イチロー君が出て来るまで、本格的な「走攻守」に優れた選手が居なかった野球界にしても、陸上競技のトラック種目に強力な選手が出現しないのは、設備にも指導者にも制度にも、大きな欠点があることの証拠でしょう。文科省あたりに主導権を預けている限り、ワールド・カップは「参加することに意義が有る」世界的なお祭で有り続けるのでしょうなあ。

■クロアチア戦に望みを懸けて応援するのは当然ですが、オーストラリア戦に感じた悔しさは絶対に忘れては行けません。今大会の結果がどうであろうと、「打倒オーストラリア」が当面の目標になるのでしょうなあ。因みに韓国チームは初戦を勝利で飾って士気が高まったそうです。ヒディング監督の教え子達ですなあ。ジーコ監督を選んだのは誰なのでしょう?

※FIFAの広報から「誤審」の発表が有ったそうです。憎っくきMFカーヒル選手がペナルティ・エリアでファウルを犯していたのを見過ごしたのだそうです。本来なら、イエロー・カードを貰っていたカーヒル選手は退場で、日本は貴重なPKの権利を得られたのだそうです。歴史と試合に「もしも」は禁物ですから、これで2対2になっていたはずだ!と言うのは止めましょう。高原君のファウルと相殺だ!と言われたら困りますし、日本チームは攻撃力を失っていたことに変わりは無いのですからなあ。でも、ちょっと悔しい!

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日本敗れる時 其の四

2006-06-18 10:49:28 | 歴史
■元気者の坪井君ですが、04年7月のスロバキア戦で負傷し、半年間の戦線離脱を強いられたのと同じ箇所の故障なのだそうです。単なる筋肉の痙攣(けいれん)ではなかったの?という厳しい指摘も有るようですが、本人が駄目だと言っているのですから仕方が有りません。自陣ゴール前を元気に走り回っていた坪井君は、無敵の零式戦闘機みたいでしたなあ。坪井君は故障で退場、零式戦闘機は構造を徹底的に調べ上げられて対抗兵器が大急ぎで開発されて時代遅れになって行き、最後は爆弾を抱いて特攻が始まるのです。

後半16分、DFムーアに代えて1メートル92センチの大型FWケネディを投入。

■この長身の選手は敵陣ゴール前にも攻め寄せて来て、ただでさえ高い身長に加えて抜群の跳躍力を持っている手強い相手です。何だか巨人機を思わせますなあ。1942年9月21日、米国で超空の要塞B-29が初飛行します。南太平洋ではガダルカナル島の奪い合いが激しくなって、日本軍が第二次奪回作戦に失敗した頃の話です。敵は重爆撃機を投入して来たというのに、日本側にはそれに対抗する大型爆撃機も無ければ、撃墜する対抗機も充分には揃っていませんでした。後は焼夷弾で主要都市が灰燼に帰すのを待つばかり……。


後半8分、DFエマートンが中央からミドル・シュートを放つがゴールの枠外。

後半14分、GKがクリアしたボールを高原がカット。ドリブルで攻め込みシュートしたが相手DFに跳ね返される。

後半24分、ゴール前18メートルからFWビドゥカの低空FKをGK川口が右手一本で阻止。

■戦力の差が隠しようも無く露になり始める流れですなあ。1942年4月18日午前7時20分、銚子沖1200キロ地点に進出した空母ホーネットから陸軍機B-25爆撃機16機が発艦。帝都初空襲と言う大事件の始まりです。この日は「防空演習」の日になっていて、朝から帝都東京上空では模擬空中戦が行なわれていたそうです。ラジオも新聞も「勝った、勝った、また勝った」と連日報道していましたから、国民は暢気に空を見上げていたようです。日本軍は油断無く海上哨戒をしていて、ちゃんとホーネットを発見していたのですが、まさか長距離爆撃機を空母から発進させるとは想像もしていないので、発見場所が700海里(1296キロ)地点だった事から艦載爆撃機が発進するには翌日まで空母は航行しなければならないだろう、と考えたのでした。

■防空訓練している日本の飛行機の群の中に見た事もない巨大な機影が混ざっているのに気が付いた人はほとんど居なかったそうですし、高射砲が射撃を始めた音も訓練だと思っていたそうですなあ。御丁寧にもこの日、東條英機首相は宇都宮と水戸を視察する予定になっていて、宇都宮師団司令部と宇都宮飛行学校の視察後、水戸に向って陸軍機で飛行中に、見慣れない変な飛行機と擦れ違っているのだそうですなあ。水戸市の視察をしている時に県庁職員から「帝都空襲」を知らされて真っ青になったのだそうです。ビドゥガ選手が見せた唸りを上げる低空シュートは、B-25爆撃隊の轟音を思わせる迫力が有りましたなあ。


後半30分、ヒディング監督はFWアロイジを投入して前線を厚くする。

■零式艦上戦闘機と対抗するために新型戦闘機が投入された時期に重なります。1943年10月6日、中部太平洋のウエーキ島上空でグラマンF6Fヘルキャットと零戦が初の空中戦を行なって苦戦します。その後は銃撃されても堕ちないムスタングやライトニングなどの化け物は、空の戦車として日本の飛行機を次々と撃ち落して行くのです。ジーコ監督の手には交代カードが3枚しか無いのに、坪井君の交代で1枚使ってしまったのが敗因とも言われますが、相手が攻勢に出て来たのを傍観したのは大失敗です。旧日本軍には対抗兵器が無かったけれど、ジーコ・サムライ日本には控えの選手が居たのですからなあ。ここで小野君でも大黒君でも即座に投入しておけば、追加点を奪いに行くぞ!という意思が選手にも伝わったはずなのですが……。

■ヒディングの悪魔の戦術で中田ヒデ君も中村俊輔君もぼろぼろに疲れ切っていたのでした。ピッチ上の温度は摂氏38度だったとの情報も有ります。前日までボーリングやらゴルフやらで、一見暢気に過ごしていたオーストラリア軍は、この猛暑に耐えるスタミナを温存していたのかも知れませんなあ。日本のマスコミは連日、日本チームの練習風景を報道しており、特に中田ヒデ君が居残り特訓をしていると頼もしげに伝えていたのでした。疲労を心配する報道は皆無だったのではないでしょうか?大本営発表の提灯記事を書き散らしていた戦時下の新聞社と何処が違うのでしょう?「気持ちだ」「気合だ」「応援だ」などと、戦時中の馬鹿馬鹿しい標語みたいな報道をしているセンスを疑わねばなりませんぞ!


後半30分、柳沢の力を失ったシュートはゴールを外れる。

後半34分、中盤強化のために小野を投入し柳沢を下げる。

後半39分、オーストラリアの左サイドからロングスロー、GK川口が飛び出し、ゴール前にこぼれたボールをMFケーヒルの右足がネット中央にシュート!

1942年6月5日、ミッドウェー海戦始まる。空母4隻喪失。
 同年8月18日、ガダルカナル島第一次反攻作戦失敗。
1943年2月7日、ガダルカナル島撤退完了。
 同年4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官戦死。
 同年7月29日、キスカ島撤退作戦成功。
 同年11月1日、米軍がブーゲンビル島に上陸開始。
1944年2月17日、米軍がトラック島基地を攻撃。
 同年3月8日、地獄のインパール作戦開始。
 同年6月15日、米軍がサイパン島上陸開始。