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極楽飯店.57

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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「ねぇ、みんなは『シンクロニシティ』って、聞いた事ある?」

しばらくコミュニオンを通じて語りかけていた閻魔が、風船をグニャグニャと変形させながらそう呟やいた。

「新くろにシティ?」藪内が首をかしげて口を挟む。

「『シンクロニシティ』だよ。日本語だと『共時性』。『意味のある偶然の一致』なんていう風に説明されることもあるね。たとえば…『あの人、いまどうしてるかな?』って思った瞬間に、その相手から電話がかかってきたり、『今晩はカレーが食べたいなぁ』って何となく思ってたら、横にいるお母さんが『今晩はカレーにしようと思うの』って、同じこと考えていたりとか、買おうと思っていたモノを、突然プレゼントされたりだとか。そういう物理的因果を超えて生まれる出来事のことを、『シンクロニシティ』って言うんだ」

「それで?」

「これも一つの『奇跡』。同じ仕組みで生まれる現象なんだよ。『奇跡』は、あり得ない出来事・滅多に起こらない現象じゃなくて、氷(カルマ)が溶けた時に自然と起こることなんだ」

「え?」

「源(ソース)はいつだって、僕たちに『最善』を与えようとしている。『分裂』という錯覚をもったモノへも、休むことなく無償の愛を送り続けている。だからこそ、源(ソース)との繋がりを閉ざす壁さえなければ、自然と『最善性』が反映された流れが生まれるんだ。『分裂した自己』の意志ではなく、『源(ソース)』の意志が主導となった現実が創られていくんだよ。それは時に、分裂した自己の次元から見るととても不思議な現象、意味のある偶然に見える。ねぇ、もう一度この風船を見て」



「人間は普段、思考や恐れによって源(ソース)との繋がりが遮断されている。でも、ずっと遮断されっぱなしってことでもないんだ。不意に思考と恐れがなくなることがある。それは、腹から笑えることだったり、お風呂に浸かった瞬間だったり、我慢していたおしっこを、ようやくすることができた瞬間だったり、時間や自分の存在を忘れるほど何かに没頭しきっている時だったり。あらゆる思考や恐れを手放して、リラックスしている時。考えることや評価することではなく、その状況を純粋に味わっている時。ほんのつかの間ではあるけど氷の壁がなくなることは、誰にでも、日常的にあることなんだ。とはいえ、人はなかなかその状態を継続しているとは言えない。それまでに培ってきた防御反応で、無意識のうちに壁を創り、繋がりを閉ざしてしまう。だからね……」



「こんな風に『お互いの壁が同時になくなっている』という状態は、もっと稀な出来事になってしまう。その『稀さ』が、『シンクロニシティ』や『奇跡』という稀な現象に見えるんだ。そして……」

「そして?」

「君たちはついさっき、極楽飯店でその奇跡に触れたんだ」

「どういうことです?」

「久しぶりの食事を、君たちは無心で味わうことができたよね。先の見えない状況の中ででも、徐々に警戒心を無くし、互いに信頼し、与え合うことができたよね。そこに生まれる充足感を共有することができたよね。その中に、『もっと○○だったら』みたいな、現状を否定する気持ちも、『こうなったら嫌だな』っていう未来への不安も、『あの時の方が…』みたいな過去との比較もなかったよね。そうやって君たちは、奇跡を捉えたんだ。神のエネルギーに乗ることができたんだよ」

「な、なんスか、『神のエネルギーに乗る』って……」



閻魔の話には、しばしば聞き慣れない言葉が現れる。

それはなにも、単語や専門用語だけではない。「神のエネルギーに乗る」というこれもその一つだ。

「神」も「エネルギー」も「乗る」も、それぞれは聞き慣れたものなのに、それが一つの文章になると、とたんに意味が分からなくなる。

相変わらず話が飲み込めずにぼんやりする俺たちを見て、くすりと笑いながら閻魔は話しを続けた。



……つづく。



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