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極楽飯店.52

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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「でも…、今の話が本当だとしたら、私自身が神ってことになってしまいますよね…」

白井が戸惑いながらそう言うと、閻魔はその通りだと笑った。

「ねぇムネっち。『モーセの十戒』は知ってるよね」

「え?『十戒』って、旧約聖書の出エジプト記に書かれているアレですよね。知ってますけど…」

「その一番目に出てくる言葉を思い出してごらん」

「一番目?え~と確か、『私はあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。あなたは私のほかに、何者をも神としてはならない』だったと思います」

閻魔は、白井のその答えに静かに頷き、ニッと白い歯を見せた。

「そう、すでに知っているじゃない。その言葉の通り君は、『私』のほかに、何者をも神としてはならない」

「え?……あっ!!! え~~~!?『私』って、その『私』!?」

「そして、モーセの言葉はこう続くよね。『あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない』と。君はこれまで、この言葉の意味を理解しないままに神を求め、探し続けていたんだ。『私』以外の神がいると想像し、ありもしないそれにひれ伏していたんだよ。いいかい?神を探してどんなに長い旅を続けようとも、誰一人として、神と出会える者はいない。神を探し求めている当の本人が神自身だからね。自分自身が神であることに気づく以外、どこに神を求めても、決して見つかりはしないんだ。だから、別な時代、異なる場所でも違う言葉で同じ事が語られる。禅仏教なら『仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん』という言葉で、古代ギリシャならもっとシンプルに『汝自身を知れ』ってね」

閻魔の話が小休止に入ると、また、言葉にできない圧倒的な何かが押し寄せてきた。

(『私』は天と一つであり、地と一つであり、また地の下の水に中にあるものとも一つの同じものである。自分のために、刻んだ像(分離意識)を造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない……)

閻魔と目が合うと、そんな、話の続きが俺の中に勝手に入り込んでくる。

まるで、テレパシーで交流しているかのような、奇妙な感覚。

その感覚と共に、無造作に散らばっていたあらゆる記憶が、新たな意味をもって繋がってゆく。

なぜか、あのドアを通ってもいないのに、『源(ソース)』と繋がっているという感覚があった。

しかしそれは、先ほどの感覚とは若干の違いがある。

完全に源(ソース)へ溶け込み、「全」になっているワケでもなく、かといって、源(ソース)と切り離された「個」があるわけでもない。その間に漂うような、「全」と「個」を繋ぐ次元……。

(お、タクちゃん。いい感じじゃない!そうそう、それだよ、それ!そこが僕たちがいる『聖霊の次元』だ!)

視覚でも聴覚でもないところから感知される波動。その発信源が閻魔であることは明確に感知できた。

これは…、テレパシー?

(そうだね。似たようなものかもしれない。どちらかと言えば「コミュニオン」と呼ばれるものに近いけど)

コミュニオン?

聞き慣れない言葉だった。

(言葉、表情、ジェスチャー…、そう言った、いわば五感を通じて得られる情報・意志・感情共有。人間同士の交流の多くは「コミュニケーション」と呼ばれるもの。それは、繋がりが分断された関係の中で生まれる外側でのやりとりなんだ。それに対して「コミュニオン」は、五感を超えた次元でやりとりされる内側での交流、繋がりのことだよ。この交流の仕方において、僕たちは『源(ソース)』と『個』を繋ぐ。言い方を変えれば、「神」と「人間」を結ぶ次元のバイブレーション。「以心伝心」の次元のことだよ)




……つづく。




←言葉にしなくとも…。通じてますよね、僕の気持ち。
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