旧約聖書を読む 35

2018-02-28 17:51:57 | 

 カナン征服後、ユダヤ人は、モーセ以前の神、創世記でアブラハムの前に現れた神に回帰する。その神とは、前々回に書いたが、カナンの神バアルだと思われる。簡単な話だ。ユダヤ人にカナンの地の支配を約束できるのは、カナンの神に他ならない。そして、いったんカナンの地に入ってしまえば、シナイ山の神エホバよりも、もとからのカナンの神バアルの影響力の方が強くなる。

 エホバの神もこのことをわかっていて、ユダヤ人に告げる。「 あなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。わたしもこう言わざるをえない。わたしは先住民を追い払って、あなたたちの前から去らせることはしない。彼らはあなたたちと隣り合わせとなり、彼らの神々はあなたたちの罠となろう 」( 士師記2 )。

 また、エホバの神は預言者サムエルに言う。「 ユダヤ人をエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった 」( サムエル記上8、8 )。

 もともとアブラハムの前に現れた神なので、バアルはユダヤ人にとって親しみやすかったのだ。 

 
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旧約聖書を読む 34

2018-02-27 18:54:37 | 

 ユダヤ人のカルト集団化。

 モーセに率いられてカナン地方に向かったユダヤ人は、その地の人々を見て、とてもかなわない、と嘆く。神は怒り、「 二十歳以上の者は、ヨシュアとカレブ以外、だれ一人カナンに入れない。お前たちは死体となって荒れ野に倒れる。お前たちの子供は、荒れ野で四十年間羊飼いとなり、お前たちの最後の一人が死ぬまで、お前たちの罪を負う 」、と宣告する ( 民数記14 )。

 こうして、エジプトでの安楽な生活を知り、荒れ野で不平を鳴らす世代は死に絶えた。そして、幼いころからモーセの教えを聞いて育った世代になった。

 つまり、カナン侵攻直前のユダヤ人は、モーセ ( 神 ) の命令に絶対服従するカルト集団と化していた。「 荒れ野の四十年 」 の後に、彼らがカナンの先住民を女子供も含めて虐殺することができたのは、このためだ ( ヨシュア記 )。

 「 あなたの神、主が嗣業 ( 資産 ) として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない 」( 申命記20、16 )。

 この規定は、ナチスを含むさまざまな勢力が行ってきた民族浄化の、元型になっている。
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旧約聖書を読む 33

2018-02-26 18:56:22 | 

 創世記の神と、出エジプト記以降の神。もしくは、アブラハムの神と、モーセの神。

 創世記の神は、アブラハムに「あなたの子孫にこの土地を与える」(創世記12、7他)と言ったが、「カナン地方の先住民を滅ぼし尽くせ」(申命記7、2)とはひとことも言っていない。先住民を殺さずに、カナンの支配権をユダヤ人に移す。どうしてそんなことができるのか?

 それは、創世記に出てくるこの神が、カナンの主人であり、所有者である神バアルだから、ではないだろうか。だから、戦争抜きで、ユダヤ人にカナンの支配を約束することができた。

 創世記第1章の謎も、これで説明できる。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(26)。そう言って、神は人の男女を創造した。「我々」とは、バアルとその妻アシュトレトのことだろう。

 さて、アブラハムから400年以上の時を経たシナイ山で、モーセの前に神が現れた。この神は、前の神と同一なのだろうか?

 違う、のではないか。まず、アブラハムの前に現れた神は名を名乗らなかったが(創世記12、1)、モーセの前に現れた神は「わたしはあるという者だ」と言っている(出エジプト記3、14)。

 また、人を殺す時の手口が違う。創世記の神は、大雨を降らせてノアの一族以外の人間を皆殺しにした(創世記7)。だが、出エジプト記以降の神は、この殺し方を一度も使っていない。創世記の神は、水の豊かなカナンの神バアルだから、大雨を降らせることができたのではないか。出エジプト記以降の神はこれとは逆で、紅海やヨルダン川の水を分ける、つまり、水を乾燥させる能力を発揮している(出エジプト記14、ヨシュア記3、列王記下2、8)。

 さらに、創世記の神がユダヤ人に課した義務は割礼くらいだが(創世記17)、出エジプト記以降の神は、実にこまごまとした掟をユダヤ人に課している(レビ記、申命記他)。

 ユダヤ人及びカナンの支配をめぐって、バアル神と新しい神との間に戦いがあった。それは400年以上続いたが、新しい神、いわゆるエホバの神が勝った。彼はユダヤ人を唆して信者にし、カナンを奪い取るために、モーセの前に現れたのだった。モーセは現代でいえば、「新興宗教の教祖」といったところか。

 この説に、突っ込みどころがあるのはわかっている。創世記の神は、硫黄の火をソドムとゴモラに降らせて滅ぼした(創世記19)。これは、シナイ半島の火山の神であるエホバの神を思わせる。逆に、エホバの神は、ユダヤ人の求めに応じて、荒れ野の岩から水を出してやった(民数記20)。

 だが、創世記と、出エジプト記以降、それぞれの最大のイベントは何だったのか。そこに、バアルとエホバ、それぞれの特徴が出ていると言えるのではないか。

 
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旧約聖書を読む 32

2018-02-25 17:06:13 | 

 ユダヤ人とエジプト人の関係。

 神は、モーセを通してユダヤ人に告げる。「家の鴨井と入り口の2本の柱に羊の血を塗りなさい。私はそれを見てユダヤ人の家を過ぎ越して(スルーして)、エジプト人の家の初子を撃つ」。実際、そうなった。恐れをなしたファラオは、ユダヤ人のエジプト脱出を認めた(出エジプト記12)。この記述からわかることは・・・。

 古代エジプトにおいては、エジプト人とユダヤ人が入り混じって生活していた、ということだ。ユダヤ人だけがゲットーを作って暮らしていたわけではない。もしそうなら、特別な目印は必要ない。また、家の見た目では区別できないほど、両者の経済力は接近していた。なにしろ、生け贄として羊を屠ることができたくらいだから。

 エジプトを出て荒れ野をさまようユダヤ人は、モーセとアロンに向かって不平を鳴らす。「エジプトでは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられた。あなたたちは我々を飢え死にさせようとしている」( 出エジプト記16、3 )。

 エジプトでのユダヤ人の生活は、それほどひどくはなかったらしい。

 さらに、こんな規定もある。「エジプト人をいとってはならない。あなたはその国に寄留していたからである。彼らに生まれる3代目の子孫は主の会衆に加わることができる(祭儀に参加できる)」(申命記23、8~9)。

 ユダヤ人はエジプト人に「隷属」していたのではなく、「寄留」していたのだ。「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみを見、彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」(出エジプト記3、7)という神の言葉は、どうも怪しい。エジプト人を恨むどころか、特別な地位を認めてさえいる。

 それでは、どうしてモーセは、ユダヤ人をエジプトから連れ出したのだろうか。それは・・・(つづく)。 
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旧約聖書を読む 31

2018-02-24 18:58:18 | 

 古代ユダヤの近親相姦。

 アブラハムは、妻サラとの関係を白状する。「 事実、彼女は、わたしの妹でもあるのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではないのです。それで、わたしの妻となったのです 」( 創世記20、12 )。つまり、腹違いの妹、だと。

 創世記よりも後のレビ記では、異母姉妹と関係を持つことは禁じられている ( 18、9 )。

 にもかかわらず、ダビデの息子のアムノンは、異母妹のタマルをレイプしてしまう ( サムエル記下13 )。

 やっぱり、そういう実態があるから、それを禁じる掟ができるのにゃ。人身供犠にしても、同じことかもしれないにゃ。
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旧約聖書を読む 30

2018-02-23 17:59:37 | 

 ブログの運営の方でトラブルが発生したらしい。1日飛んでしまったにゃ。もしかして、エホバの神の祟り? それはともかく・・・。

 前回の続き。モアブ王の人身供犠に応えて、神ケモシュがイスラエル、ユダ、エドムの連合軍を撃退した。この、モアブ人とは何者なのか。

 アブラハムのおいのロトは、妻と2人の娘を連れて、ソドムを脱出。直後に神は硫黄の火を降らせ、ソドムを滅ぼした。その時、ロトの妻は後を振り向いたので、塩の柱になってしまった。生き残ったロトと2人の娘が交わって生まれた男の子が、モアブ人、そしてアンモン人の先祖だという ( 創世記19 )。

 つまりモアブ人、そしてアンモン人は、ユダヤ人と近い血縁関係にある。モアブ人の人身供犠は前回見たが、アンモン人の神モレク ( ミルコム? ) も人身供犠で知られている。

 ユダヤ人にも、そのケはあったのではないか。実際、人身供犠の記録が残っている。詳しくは、「 旧約聖書を読む 19 」 を読んでみてにゃ。
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旧約聖書を読む 29

2018-02-21 17:39:46 | 

 聖書に出てくるさまざまな神々。

 カナン地方のバアルとアシュトレトは有名だ。結局ユダヤ人はこの神々を駆逐することができず、かえって先住民に影響されて崇拝するようになる。他にも・・・。

 モアブ人の神ケモシュ。ペリシテ人の神ダゴン。アンモン人の神ミルコム ( モレク? )。バビロン人のスコト・ベノト。クト人のネレガル。ハマト人のアシマ。アワ人のニブハズとタルタク。セファルワイム人のアドラメレクとアナメレク。

 マイナーな神々だが、侮れない。イスラエル、ユダ、エドムの連合軍がモアブを攻めた時、モアブ王は城壁の上で、長男を焼き尽くす生け贄として捧げた。するとイスラエルに対して激しい怒りが起こり、イスラエルはそこを引き揚げて自分の国に帰った ( 列王記下3、27 )。

 つまり、モアブの神ケモシュが、エホバの神に勝ったのだ。預言者エリシャが 「 主はモアブをあなたたちの手にお渡しになる 」 と言ったにもかかわらず ( 列王記下3、18 )、だ。

 果たしてこれらの神々が、グラブルに登場する日は来るのだろうか。確かバアルはもう召喚石になっているけれど。
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旧約聖書を読む 28

2018-02-20 17:18:36 | 

 ダビデの息子ソロモン王の死後、ユダヤ人の王国は南北に分裂する。北のイスラエルは、神の命令に違背し、先住民に影響されてバアル神を崇拝するようになる。その結果、神の加護を失い、アッシリアによって征服された。そう、聖書には書いてある ( 列王記下17 )。だが・・・。

 これは、「 後付けの説明 」、というやつだ。古代のユダヤ人は、現代において思われているような弱小民族ではなかった。カナン地方の先住民を虐殺して、生き残りを隷属させた ( ヨシュア記 )。ダビデ王の時代には、周辺のモアブ人、アラム人、エドム人を打ち破り、貢納させた ( サムエル記下8 )。だが、しょせんアッシリアや後のバビロニアの敵ではなかったのだ。それを認めたくないユダヤ人は、納得のできる 「 説明 」 を求めた。そうしてできたのが、聖書なのだ。

 それでも聖書の記述を信じるならば、この時以来、ユダヤ人に神の加護はない。それを求めるには、自分たちが神の命令を守らなければならない。たとえば、安息日に薪を拾っただけで死刑だ。そう書いてある ( 民数記15、32~36 )。だが、この掟は守られていない。

 現代のイスラエル人は、神の約束が無効になっていることを、だれよりもよく知っている。「 イスラエルは神が約束した地だ 」 と言いながら軍事力に頼るのも、当然のことなのだ。 
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旧約聖書を読む 27

2018-02-19 18:02:02 | 

 クズ預言者と、その神。

 預言者エリシャがべテルに上って行くと、町から小さい子供たちが出て来て、「 はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け 」 と嘲った。エリシャがにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から2頭の熊が現れ、子供たちのうちの42人を引き裂いた (「 列王記下2、23~24 」)。

 ・・・こんなんで、神の力に頼るなよ。いちいち応える神も神にゃう。
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旧約聖書を読む 26

2018-02-18 17:59:31 | 

 旧約聖書の中のBL。

 旧約聖書は、同性愛を禁じている。「 女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである 」( レビ記18、22 )。「 これらのいとうべきことの一つでも行う者は、民の中から断たれる ( つまり、死刑 )」( 同18、29 )。だが・・・。

 サウル王の息子ヨナタンは、ダビデを一目見ただけで・・・。「 ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した 」( サムエル記上18、1 )。「 ヨナタンは着ていた上着を脱いで与え、自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた 」( 同18、4 )。

 神に愛されるダビデをサウル王は妬み、殺そうとする。ヨナタンとダビデはやむなく別れるが、「 互いに口づけし、共に泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた 」( サムエル記上20、41 )。

 ヨナタンは、父サウルと共にペリシテ人との戦いに敗れて死ぬ。ダビデは嘆いて歌う。「 あなたを思ってわたしは悲しむ。兄弟ヨナタンよ、まことの喜び。女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を 」( サムエル記下1、26 )。

 ・・・これらを、どう見るべきか。単なる男と男の友情だけでは片づけられないモノを含んでいるようなカンジがするわ。

 ダビデの孫のレハブアムの時代になると、ユダヤ人は先住民のように偶像を崇拝するようになり、神殿男娼さえいた ( 列王記上14、24 )。

 また、創世記に遡ると、こんな記述がある。アブラハムはしもべに言った。「 手をわたしの腿の間に入れ、主に誓いなさい。わたしの故郷に行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように 」( 創世記24、2~4 )。

 はて、腿の間に手を入れて誓う、とは? やっぱり、ユダヤ人にも、もともとそのケがあったんだわ。うふっ。
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旧約聖書を読む 25

2018-02-17 14:52:14 | 

 預言者状態になる。

 ダビデの命を狙って追いかけるサウル王に神の霊が降り、預言する状態になった。彼は着物を脱ぎ捨て、一昼夜、預言者サムエルの前に裸のままで倒れていた。このため、「 サウルもまた預言者の仲間か 」 と人々は言った ( サムエル記上19 )。

 ということは、預言者って、裸なのか。モーセも、素っ裸でユダヤ人に神の命令を伝えたのだろうか。

 これは、古代ユダヤのイメージを引っくり返しかねない、大問題にゃう。
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旧約聖書を読む 24

2018-02-16 20:14:12 | 

 「 ユダヤ古代誌 」 と聖書の違い、その2。

 サウル王は、「 アマレク人を家畜もろとも皆殺しにしろ 」 という神の命令に背いてしまった ( サムエル記上15 )。それで神の加護がダビデに移り、ダビデは次々と手柄を挙げるようになる。そんな彼をサウル王は妬み、殺害を図る。

 ある時、ダビデを追跡するサウルは、用を足すために洞窟に入った。たまたま洞窟の奥にダビデが潜んでいて、ダビデは 「 サウルの上着の端をひそかに切り取った 」( サムエル記上24、5 )。

 これが「 ユダヤ古代誌 」 だと、「 サウルの外衣の毛ぶさを引き抜いた 」 ことになっている。

 2つは、かなり印象が違うのではないか。聖書によるとサウルは 「 大の方 」 だったような感じがするが、「 ユダヤ古代誌 」 だと 「 小の方 」 だったように見える。「 ユダヤ古代誌 」 のエピソードの方が、より瞬間的なのにゃ。
 
 やっぱり、聖書を読み始めてよかったにゃう。いろんな本を読まないと、歴史の深奥に迫ることはできないのにゃ。
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旧約聖書を読む 23

2018-02-15 18:36:47 | 

 「 ユダヤ古代誌 」 と聖書の違い。たとえば・・・。

 サウル王から、「 娘と結婚したければ、ペリシテ人 ( パレスチナ人 ) の陽皮 ( 包皮 ) 100枚を取ってこい 」 と命ぜられたダビデは、ペリシテ人200人を殺してその陽皮を持ち帰った ( サムエル記上18 )。

 これが 「 ユダヤ古代誌 」 だと、「 陽皮200枚 」が 「 首600 」 になる。それはそうだ。この本は、ローマ帝国に降ったユダヤ人ヨセフスが、ローマ人のために書いたものだ。ローマ人が生理的に受け付けないであろう表現を、自粛したのにゃ。

 
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旧約聖書を読む 22

2018-02-14 18:34:40 | 

 聖書に出てくる公私混同。

 ダビデ王が、人妻をモノにするためにその夫を死地に追いやる話は有名だ ( サムエル記下11 )。それ以前にも・・・。

 ヨルダン川東岸を制圧したユダヤ人は、いよいよ約束の地を獲得しようと、西岸の町エリコに二人のスパイを送ったのだが・・・( 「 ヨシュア記2、1 」)。

 「 二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった 」。任務にかこつけて、「 ヌイた 」、ということなのだろう。無理もない。エジプトを出て40年もの間、荒れ野をさまよっていたのだから。たまっていたのにゃ。

 その後、エリコの王の探索からかくまってもらったこともあり、遊女ラハブの一族は生き延びることができた。それ以外の住民は、ユダヤ人が 「 男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした 」( ヨシュア記6、21 )。

 神は繰り返し、「 カナン人を皆殺しにしろ 」 と命じている ( 出エジプト記23、23。申命記7、2。同20、17 )。その例外を認めるとなると・・・。よっぽどサービスがよかったのではないか。命と釣り合うセックスもあるのにゃ。

 ちなみに、娼婦は創世記第38章にも登場する。いや、聖書以前に 「 ギルガメシュ叙事詩 」 にも。世界最古の職業のひとつなのにゃ。

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旧約聖書を読む 21

2018-02-13 19:04:26 | 

 聖書に残る自然崇拝。

 「 また目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない 」( 申命記4、19 )。

 「 あなたたちの追い払おうとしている国々の民が高い山や丘の上、茂った木の下で神々に仕えてきた場所は、一つ残らず徹底的に破壊しなさい 」( 申命記12、2 )。

 以上は、自然崇拝を否定し、抽象的な神を信じよ、と述べているように思える。だが、にもかかわらず・・・。

  聖書には、さまざまな自然物が登場する。「 アブラハムは、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた 」( 創世記13、18 )。

 ヤコブは、天まで届く階段の夢を見た後、枕にしていた石を記念碑として油を注ぎ、その場所をべテル ( 神の家 ) と名付けた ( 創世記28 )。

 モーセの警告。「 もしも偶像崇拝の禁止を犯したなら、わたしは今日、あなたたちに対して天と地を呼び出して証言させる。あなたたちは、ヨルダン川を渡って得るその土地から離されて速やかに滅び去り、そこに長く住むことは決してできない 」( 申命記4、26。さらに同30、19。同31、28 )。神ではなく、天と地、なのだ。

 モーセの祝福。「 主の祝福がその土地にあるように。天からは露の賜物。下は横たわる淵の賜物。太陽がはぐくむ賜物。月ごとに生み出される賜物。いにしえの山々のもたらす最上の物。とこしえの丘の賜物 」( 申命記33 )。抽象的な神の力だけでは、説明がつかないような感じがする。

 ヨシュアはシケムで民と契約を結び、彼らのために掟と法を定めた。ヨシュアは大きな石をテレビンの木のもとに立て、民に告げた。「 この石がわたしたちに対して証拠となる。この石は主の仰せをことごとく聞いているからである 」( ヨシュア記24 )。

 結局、自然崇拝を捨て切れないのだ。
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