を読む。レヴィ・ブリュル著。岩波文庫。
古本屋で見つけたけど、漢字が旧字体なので(聯合とか、割禮とか)最後まで読み通せるか不安だったのにゃ。でも、年の功というやつか、意外とすらすら読めたのにゃ。
本の形式は、フレイザーの「金枝篇」と似ている。世界各地の未開の人々の慣習が紹介されているのだが、その量は「金枝篇」ほどではない。「金枝篇」や、ユングの「変容の象徴」は、膨大な情報量でまず読者を圧倒し、一種の催眠状態に陥らせてしまう。そうしておいて、まるでサブリミナル効果を狙うかのように、自説を短く挿入するのだ。だが、ブリュルは違う。自説をはっきりと前面に出している。
彼は、フレイザーの霊魂説を批判する。未開人は「霊魂」のような明確な観念を持ち合わせていない。そのかわり、彼らは次のように信じているという。「この世界では、人間、動物、植物、太陽、月、雨・・・等、ありとあらゆるものが神秘的な力のもとに融即(一体化)している」。
たとえば、オーストラリア原住民の雨乞いの儀式。人々は、雨を真似た扮装・身振りを行うが、「雨の精霊」に祈っているわけではない。彼ら自身に雨を降らせる力がある、いやむしろ、彼ら自身が雨だと信じているのだ。
たとえ観察や経験に基づく合理的な思考が発達しても、このような原始的な思考は決してなくならない、とブリュルは主張する。合理的に考えるということは、離れたところから対象を冷静に見つめる、ということだ。だが、これだけでは人間は満足できない。彼が望むのは、むしろ対象(たとえば神)と一体化し、激烈な感情の昂りを得ることなのだ。演劇の言葉を使うなら、「異化」ではなく「同化」だ。
この他、「死者の財物」や「幼児殺し」等、さまざまな興味深い集団表象についてブリュルは論じていて、個人的に表彰したくなったにゃ。