「プラトンの対話篇」というが、本作は、主人公ティマイオスの一人語りが34ページから165ページのラストまで、延々と続くのにゃ。
高校の先生がプラトンを持ち出して、「西洋文化は対話によって発展した」と言ったのを覚えているが、実際はそうでもないのにゃ。そもそも、作者はプラトン一人だし。
「プラトンの対話篇」というが、本作は、主人公ティマイオスの一人語りが34ページから165ページのラストまで、延々と続くのにゃ。
高校の先生がプラトンを持ち出して、「西洋文化は対話によって発展した」と言ったのを覚えているが、実際はそうでもないのにゃ。そもそも、作者はプラトン一人だし。
「神は、すべてのものが自分に似たものになることを望んだ。」(29E) プラトンは、創造神はひとりで、彼がオリンポスの神々を創り(41A~D)、人間はその神々によって、「土をこねて」創られた(73E)と書いている。まず男が生まれ、男から女が生まれた(76E)、と。
旧約聖書の「創世記」がプラトンから多大な影響を受けていることは、明らかだろう。その逆は、ない。古代のギリシア人は、ユダヤ人について無関心だったのだから。
ただ、土(粘土)をこねて人間を創るという話は、メソポタミア神話にも出てくる。人類が普遍的に持つイメージなのかもしれないにゃ。
「まず、神官の種族が他の人々とは別に区別されていること、次に、職人の種族は、牧人の種族も、漁師の種族も、農夫の種族も、それぞれが独立して、他の職種と混ざることなく自分の仕事に従事していること、そしてさらに、この地では戦士の種族が他のすべての種族から分離されていることにも、たぶんあなたはお気づきでしょう。」(24A~B)
エジプトの神官がソロンに語った、古代アテナイの神話的な描写なのだが、これって・・・。デュメジルの「インド・ヨーロッパ語族の三機能体系」じゃん。これが元ネタかあ。前に、ロベール・ド・ボロンの「魔術師マーリン」が元ネタかも、と書いたが、デュメジルが読みそうなのは、プラトンの方なのにゃ。
「金も銀も個人の所有物とみなしてはならない。」「価値のない子供は隔離する。」なんとも、スパルタ的な内容なのにゃ。クセノフォンは「スパルタびいき」で有名だが、プラトンもなかなかなのにゃ。
アテナイとスパルタを対立的にとらえるのは、少なくとも哲学の分野では、間違いなのにゃ。
プラトン著。講談社学術文庫。いろんなところに(ユングの本とか)出てくるので、読んでみたにゃう。プラトンを直接読むのは初めて。
プラトンは、ピュタゴラスから多大な影響を受けている。当然、数学的な内容を含んでいるのだが、困ったことに、注釈が当てにならないのにゃ。写真に、a二乗:bc=bc:b二乗とあるけれど、これはたぶん、a二乗:ab=ab:b二乗の間違いだろう。どこからcが出てくるの? 数学嫌いのワシでも、このくらいわかるぞ。
を読む。フロイト著。新潮文庫。
症状の代理形成。心の中のモヤモヤを表に出す代わりに、病気になる。モヤモヤが表に出れば、病気は存在理由をなくす。病気によって、患者が救われている面もある。
・・・といった内容はおもしろいが、とても全部を理解できたとはいえないのにゃ。ただ、ユングやアードラーに対する批評が、興味深い。「たんなる精神分析医にとどまって、予言者になろうなどとは考えていなかった時代のユング」とか、「この学説(アードラー派)は複雑なことは認めず、理解しにくい新概念を導入せず、無意識的なものについては何事も知らず、性欲という何人にも重荷になっている問題を一撃のもとに除去し、人生を何とか気楽にする術策を見つけ出すことだけを狙っている」とか。
ただ、それでもユングとの共通点もある。幼児期の体験を超えた、人類共通のイメージ(集合的無意識、元型)について、フロイトも触れているのにゃ。
NHKの「100分de名著」で、デュルケムの「社会分業論」をやってるのだが・・・。
ついこの間、「アイスランド サガ」を読んだばかりなので、間違いが目立つ。古代社会においては民法よりも刑法が優勢だったというが、これは逆だ。強力な中央政府がまだ存在しないから、有力な個人が好き勝手なことをやってしまう。殺人ですら、金銭的な和解で片づけられてしまうのだ。デュルケムはユダヤ人だから、古代のゲルマン社会には興味がなかったのだろうか。
古代社会に個人は存在しなかった、という説も疑わしい。ソクラテスは個人ではなかった、とでもいうのだろうか。
サガに出てくる幽霊たちは、全然幽霊っぽくない。実に肉体的で、生きている人間に悪さを仕掛ける。一言でいうと、粗暴犯だ。ゾンビを筋肉質にして、スピーディにしたような感じ。彼らを完全に殺すには、火葬にして、灰を海に流す(「ラックサー谷の人びとのサガ」、「エイルの人びとのサガ」)。後世の魔女の処刑方法の原型だろうか。
魔法もいろいろ出てくるが、極めつけは、ノルウェーの王母グンヒルドがかけるやつ。彼女はアイスランドの男性と愛人関係になるが、彼が故郷に帰る時に、ある呪いをかける。男性はアイスランドで婚約者と結婚するのだが、すぐ破局する。夜、妻の中に入る段になると、ナニがデカくなりすぎて、どうしても入れない。それが原因になったそうにゃ(「ニャールのサガ」)。
1日10ページくらいのペースで、やっと読み終えたにゃ。
内容は、同じパターンの繰り返し(有名な「ヴォルスンガサガ」を除く)。有力者の一族どうしの殺し合いが、延々と続く。10世紀頃のアイスランドでは、「人を殺したら死刑」などという法はなかった。すべて金銭的な和解で処理される。だが、それでは当事者の感情が収まらないので、結局殺し合いになってしまうのにゃ。
キリスト教が受け入れられる課程もおもしろい。ノルウェーのオーラヴ・トリュッグヴァソン王が布教のためにアイスランドに送った、サングブランドなる人物が出てくるが、「ラックサー谷の人びとのサガ」では逆らった人間を二人殺して逃げた荒くれ者になっている。それが、「ニャールのサガ」ではさまざまな奇跡を起こす聖人として描かれている。「ニャールのサガ」は、キリスト教化が進んだあとに書かれたのだろう。
ノルウェーでは、キリスト教は国王が強権的に国教とした(逆らえば死刑、手足の切断、財産の没収、国外追放)のだが、アイスランドでは違った。キリスト教徒と伝統的な神々(オーディン、トール・・・)を崇拝する人びとが対立し、決定はある首長に委ねられたのだが、キリスト教徒側が銀3マルクで買収して、アイスランドのキリスト教化が決まったという(「ニャールのサガ」)。
また、「トールとキリストが決闘する話」もちらっと出てきて、過渡期ならではの空気が伝わってくるのにゃ(「ニャールのサガ」)。
この他、数多くの幽霊話、魔法・・・が出てきて、タマらない人にはタマらないのにゃ。
を買う。谷口幸男訳。新潮社。
前から憧れていた一冊。2万円したけど、買ったにゃう。1000ページくらいあるのにゃ。
「農耕民は温和で、狩猟民や牧畜民は攻撃的」。そんな俗説は大間違いであることが、最初の数ページを読めばわかる。バイキングの正体は富裕な農民たちで、彼らは自分たちで軍船を用意して外国へ出かけ、現地の農民に掠奪をはたらく。
9~10世紀ごろの北欧の農民は武装していて、気に入らない相手はたとえそれが国王であっても、容赦なく殺す。ノルウェー国民にキリスト教を強制したオーラヴ聖王も、農民軍との戦いに敗れて死んだのだった。
北欧の神トールは、戦いの神であると同時に農民の守護神でもあった。それはおそらく、当時の農民が戦いに明け暮れていた、という事実を反映しているのにゃ。
「クレオパトラは、知性で男性を魅了したのだ」、という説がある。だが・・・。
それなら、なぜ彼女は、おっぱいを毒蛇に咬ませるという死に方を選んだのか(アントニウス伝)。
まず、この自殺方法は、かなりの巨乳じゃないと無理だ。もしもクレオパトラがAカップだったら、何回毒蛇に咬ませようとしても、その度に蛇は虚しく下にズリ落ちるだけだったろう。しまいにはいじけて、巣穴に帰ったに違いない。
この巨乳によって、彼女はカエサルやアントニウスを魅了したのだ。彼女の人生は、おっぱいがあってこそのものだった。だから、人生を終えるにあたって、あの自殺方法を選択したのだ。ハード面から見ても、ソフト面から見ても、これで間違いない。
現代は知性偏重の時代だが、それに惑わされず、実証的な研究を心がけるべきにゃう。
紀元前850年ころ、イスラエル、ユダ、エドムの連合軍が、モアブを攻めた(列王記下3、5~9)。
この戦争については、預言者エリシャがこんなことを言っている。「主はモアブをあなたたちの手にお渡しになる。」(同3,18)
にもかかわらず、結果はこうなった。モアブ王が長男をいけにえとしてささげると、イスラエルに対して激しい怒りが起こり、イスラエルは自分の国に帰った(同3,27)。
エリシャが、うそをついたのだろうか。そうではない、と思う。「主」は、モアブ王のいけにえの方を喜んだのではないか。
そもそも、モアブ人はユダヤ人と近い。アブラハムの甥のロトが、彼らの始祖だ。このことは、アンモン人にも当てはまる。さらに言うと、エドム人は、アブラハムの孫であるヤコブの兄エサウの子孫だ。さらに、血縁は近い。
はっきり言おう。ユダヤ人の神エホバ、モアブ人の神ケモシュ、アンモン人の神モレク、聖書には名前が出てこないエドム人の神。これらは、実は同一の神だったのではないか。神は気まぐれで、その時の状況に応じてユダヤ人を勝たせたり、モアブ人を勝たせたりしたのではないか。
この神は、人間のいけにえを喜ぶ。ユダヤ人も、それに応えている。アブラハムとイサクのエピソードを振り返ってみよう。神に息子をいけにえとしてささげよと言われて、アブラハムは実に手際よく準備をしているではないか(創世記22、1~10)。いけにえの風習が一般的だった証拠だ。また・・・。
エフタは、自分の娘をいけにえとしてささげた(士師記11,39)。さらに時代が下ったイスラエル王国でも、この風習は続いた(列王記下17、17)。
「あなたの神、主に対しては彼ら(※カナンの先住民)と同じことをしてはならない。彼らは主がいとわれ、憎まれるあらゆることを神々に行い、その息子、娘さえも火に投じて神々にささげたのである。」(申命記12,31)
だが、この規定は、実はバビロン捕囚時代に書かれたという説がある。ヴェーバーの「古代ユダヤ教」に、そう書いてあったにゃう。
※補足 モアブ人の神はケモシュしか出てこないし、アンモン人の神はモレクしか出てこない。つまり彼らの宗教は、ユダヤ人と同じ一神教だった、と考えるほかない。これは、「エホバ=ケモシュ=モレク説」の傍証となるのではないか。
エホバがケモシュに敗れたのではない。エホバは、ケモシュ(モレク)だったのだ。
今月は、ジーン・シャープ「独裁体制から民主主義へ」の再放送。
前に見たが、内容に問題があるのにゃ。たぶん来週の放送になると思うが、「独裁体制を平和的に転覆させたのか、暴力的に転覆させたのか。統計的には前者のケースの方が多い。だから、暴力を使うべきではない」、というような主張をアメリカの政治学者が行ったという。だが、これは、実に愚かな考え方だと思う。暴力的なやり方が選択されたケースには、それなりの必然性があったのではないか。どちらのやり方が適切なのかは、それぞれの国情によって違うのではないか。ルーマニアのようなケースで、暴力を用いない革命はありえたのか。暴力を用いなければ成功の確率が上がるというのは、まったく現実離れした意見ではないか。
どうも、非暴力的な闘争が、きれいごとにすり替わっているような感じがするにゃ。非暴力でダメなら暴力で、という選択も当然ありうるのにゃ。