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旧約聖書を読む 21

2018-02-13 19:04:26 | 

 聖書に残る自然崇拝。

 「 また目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない 」( 申命記4、19 )。

 「 あなたたちの追い払おうとしている国々の民が高い山や丘の上、茂った木の下で神々に仕えてきた場所は、一つ残らず徹底的に破壊しなさい 」( 申命記12、2 )。

 以上は、自然崇拝を否定し、抽象的な神を信じよ、と述べているように思える。だが、にもかかわらず・・・。

  聖書には、さまざまな自然物が登場する。「 アブラハムは、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた 」( 創世記13、18 )。

 ヤコブは、天まで届く階段の夢を見た後、枕にしていた石を記念碑として油を注ぎ、その場所をべテル ( 神の家 ) と名付けた ( 創世記28 )。

 モーセの警告。「 もしも偶像崇拝の禁止を犯したなら、わたしは今日、あなたたちに対して天と地を呼び出して証言させる。あなたたちは、ヨルダン川を渡って得るその土地から離されて速やかに滅び去り、そこに長く住むことは決してできない 」( 申命記4、26。さらに同30、19。同31、28 )。神ではなく、天と地、なのだ。

 モーセの祝福。「 主の祝福がその土地にあるように。天からは露の賜物。下は横たわる淵の賜物。太陽がはぐくむ賜物。月ごとに生み出される賜物。いにしえの山々のもたらす最上の物。とこしえの丘の賜物 」( 申命記33 )。抽象的な神の力だけでは、説明がつかないような感じがする。

 ヨシュアはシケムで民と契約を結び、彼らのために掟と法を定めた。ヨシュアは大きな石をテレビンの木のもとに立て、民に告げた。「 この石がわたしたちに対して証拠となる。この石は主の仰せをことごとく聞いているからである 」( ヨシュア記24 )。

 結局、自然崇拝を捨て切れないのだ。