批評から創造へ

2005-02-27 20:27:12 | Weblog
 今までの書き込みを振り返ると、リクツばかりですね。このままではいけない、新しいゲームの構想でも練ってみようか、と思います。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。やっぱり無理でした。巨大な触手が出てきて、かわいい女の子と野球拳で勝負する、といった、中途半端なアイデアしか浮かんで来ません。だみだ、こりゃ。
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寺山修司3

2005-02-26 20:41:01 | 

 歌人としての彼の代表作は
      
       マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

ですが、これのバージョン違い(?)を発見しました。
 私の持っている彼のエッセイ集「悲しき口笛」(ハルキ文庫、巻末には2000年4月18日第一刷発行とある)に収録されている「消しゴムー自伝抄」の中の一篇、「センチメンタル・ジャニー」でこの歌が引用されているのですが、そこではこうなっています。
      
       マッチ擦るつかのま海に霧ふかし見捨つるほどの祖国はありや
 
 違い、わかりますか?「身捨つる」が「見捨つる」になってるでしょう。これだと、歌の意味が全然別なものになってしまう。若い頃、カード賭博のディーラーをやっていた寺山が、仲間の中国人と二人で横浜の海を見ている。そこで「見捨つる」が出てくるのですが、望郷の歌という風に読める。
 でも、日本図書センターの「作家の自伝40 寺山修司」に入っている「センチメンタル・ジャニー」では、オリジナル通りの「身捨つる」なんですよね。ハルキ文庫のは、単なるミスプリントなのでしょうか?だとしたら、ずいぶん大きなミスをしてしまったものです。

 「身捨つる」に対しては、「祖国を軽んずるな」という声もあるようですが、1935年生まれで、玉音放送を生で聞き、おそらく自分の手で教科書に墨を塗った寺山がこのように詠んだのは、ごく自然なことではないでしょうか。ちなみに私が一番好きな寺山修司の歌は、
      
       吸ひさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず

です。ほんと、ニクいことを言うなあ。   
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寺山修司2

2005-02-25 20:52:48 | 

 彼が残した言葉の一つに、「劇の半分は、観客が(想像力で)つくる」、というのがありますが、これの原型になったと思われる言葉があります。
 寺山自身がさまざまな言葉を集めた、「ポケットに名言を」(角川文庫)という本に入っている、「およそ芝居などというのは、最高のできばえでも影にすぎない。最低のものでもどこか見どころがある、想像でおぎなってやれば。」という、シェイクスピアの「真夏の夜の夢」のせりふがそれです。これは確か、劇の最後の方の、町人たちが素人芝居を演じる場面で、見物している王様が言うせりふだったと思いますが、寺山が紹介しなければ、その意味の深さに気づくこともなく聞き流してしまいそうです。
 
 私はよくアングラ演劇を観に行きますが、劇が始まる前から想像力が働き出します。パンフレットに書いてある、「私たちは日常的現実の出来事を眼で見てしまうために他の多くの経験を失ってしまっている。さあ!現象の無い現象学の領域に乗り込もう!」といった難解なコピーを読んで、これはどういう意味なのかあれこれ考えたり、白塗りの俳優たちがポーズをとっている舞台写真を見て、これはどんな場面なのか推理してみたり。舞台写真。そう、舞台写真はアングラ系に限る。新劇系のは、家族が食卓を囲んで話し合っているところ、とか、一目でわかってしまうものが多いから。そんなこんなで劇が始まって、自分の想像に勝っているかどうかで一喜一憂する。これが私の観劇スタイルになっています。別に、寺山修司の言葉を実践するつもりはなくて、自然にこうなっているのです。不思議、ですね。

 
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寺山修司

2005-02-24 19:18:37 | 

 シーザーについて書いたので、彼についても触れてみます。正確には、彼の周辺について、かもしれませんが。
 2003年は、寺山の没後20年ということで、多くの演劇誌に特集が組まれました。演劇関係者がいろんなコメントを出していましたが、中には自分こそが最高の寺山理解者であると信じているんだろうな、と思われる、実にオタク的なものもありました。その最たるものが、ある評論家の先生のもので、寺山が戯曲論の中で戯曲の再演を否定していることを引用して、だから寺山作品は再演すべきでない、などとおっしゃっています。この先生は、生前の寺山が、実際には「毛皮のマリー」や「奴婢訓」を何度も繰り返し上演した、という事実を知らないらしい。また、寺山演劇の継承者としていくつかの海外の劇団を挙げているのですが、どれもこれも「かつての寺山」のイメージを引きずったものばかり、というのはなんとも皮肉です。
 
 人は2度死にます。1度目はその人が死んだ時。2度目はその人を思い出す人がいなくなった時。この先生は、ことば(戯曲)という寺山の墓を消滅させて、彼の2度目の死を早めたいらしい。
 
 また、劇場にはさまざまな人が集まります。昔からの演劇ファン、中年になってから演劇に目覚めた人、これから自分で演劇を始めてみたいと思っている若者、出演者の関係者、ひまだからなんとなく観に来た人。実際に舞台で上演される劇は一つでも、観客の背景は無限にあって、それぞれが違った観方をしています。時間は人たちのあいだで、まったくべつべつに流れていて、決して同じ歴史の流れのなかに回収できない。たとえ昔書かれた劇であっても、初めて観る人にとってはそれは新しい「出会い」かもしれない。再演を認めないことは、「出会い」の可能性をつぶすことにつながります。
 
 「若い人たちが寺山作品を上演するのを観て、ああこんな表現のしかたもあるんだと驚かされる時がある」、という九條今日子さんのコメントの方が、この評論家の先生のよりも私にはずっと素敵に思えました。古代ギリシャのエウリピデスやソフォクレスの作品は、時空を超え、民族や言語も超えて、上演され続けています。それに比べたら、寺山修司はまだまだこれからの人、という見方もできるのではないでしょうか。

 さて、問題です。寺山修司の言葉からの引用は、全部でいくつあったでしょうか?
 
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ロック画報07

2005-02-22 19:14:33 | 音楽

 セブンアンドワイで入手。
 
J・A・シーザーの未発表音源入りCDつき。寺山修司の詩に曲をつけて本人が歌うパターンももちろんいいけれど、自ら作詞もしている「流浪物語」の静謐さが忘れ難い。あと、万有引力のファンにはおなじみの「光モザイコ」も入っているのでたまらん。持ってない人は今のうちに買っとくべき。
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J・A・シーザー

2005-02-20 20:35:48 | 音楽

 ジミ・ヘン亡き今、私が追いかけているのが彼です。
 
 シーザーといっても日本人で、本名は確か寺原さんだったかな。現在「演劇実験室◎万有引力」の主宰者で、作、演出、音楽を担当。自分の劇団以外にも、「月蝕歌劇団」の音楽をずっと手がけています。つまり彼は演劇の世界の人で、一般の音楽愛好者にはまだまだ知られていない存在なのです。

 私が彼を知ったきっかけは、「レコードコレクターズ」に載った、アニメの「少女革命ウテナ」のサントラCDの記事でした。寺山修司が主宰していた「演劇実験室◎天井桟敷」で音楽を担当していた、J・A・シーザーという人の曲が収録されていて、それが、他ではちょっと聴けない、独特なものだと知り、さっそくテレビ東京で放送されていたアニメを観てみました。・・・何というか、ストーリーよりも、観ている人にいかにインパクトを与えるかを重視した、まさにアングラ演劇のようなアニメでした。どうしてあれが平日の夕方に放送されていたのか、今でも不思議です。
 
 シーザーの曲は、クライマックスの決闘シーンで、東京混声合唱団や杉並児童合唱団によって歌われるのですが、合唱という形をとっているのに、それまで聴いたどのロック・ボーカルよりも悪魔的な力が伝わってきました。慌しく流れる夕方の時間を凍りつかせるような魔力が・・・。一人の圧倒的な個性を持ったボーカリストが思いのままに歌った歌は、どんな合唱にもまさる、というのが私の常識でしたが、それがあっさり覆されて、俄然、シーザーという人物に興味を持つようになりました。
 
 以来、「万有」と「月蝕」の公演は必ず観に行くようにしています。私にとっては単なる演劇ではなく、シーザーの音楽を聴くライヴの意味があります。
 彼に興味を持った方は、「少女革命ウテナ」と「青ひげ公の城」(パルコ劇場)のDVDがネットで入手可能なので、ぜひご覧になってみて下さい。
 
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エレクトリック・レディ・ランド

2005-02-19 11:10:21 | 音楽
 このブログの名前のもとになった、ジミ・ヘンドリックスのアルバムのタイトルです。他には「週刊初潮」、「男の穴」、といった候補がありました。名前はおちゃめなのに内容は硬派、というのが一応のコンセプトです。
 
 ジミ・ヘンは、確か中一の時に知りました。その頃からロックを聴き始めて、うん十年後の今ではCDが千枚くらいあります。たいした枚数ではありませんが、私は実際に聴くCDしか持たない主義なので。5割がロックで、4割がジャズ、残りが現代音楽、クラシック、それにアニメと演劇関係、といったところでしょうか。ジャズを聴くようになったのは、ジミ・ヘンは早死にしなければ、マイルス・デイビスと共演するはずだった、と聞いたのがきっかけでした。
 
 ジミ・ヘンはドラッグ漬けの生活を送った末に死んだ、と思っている人が多いかもしれません。彼の独創的なギター・プレイを、ドラッグ体験と結びつけて考える人もね。でも、ジミ・ヘンが生きていた60年代と今を比べると、今の方がずっと、ドラッグが社会に蔓延しています。昔は社会からドロップアウトした人たちがやるものでしたが、今では老若男女、あらゆる種類の人に広まっています。日本の中高生がやっているくらいですからね。それなのに、ジミぐらいに、音を聴いてすぐその人とわかるような強烈な個性をもった新人が、出てきません。ということは、ジミの音楽は、ドラッグによるものではなく、まさにジミだからこそ生み出せた、としか言いようがないのではないでしょうか。
 死後30年以上経っても、彼はひとりなのですね。
 
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ハインラインといえば

2005-02-18 20:57:04 | 

 「宇宙の戦士」ですが、ちょっと前に映画化された時は、「モビルスーツの原点になった強化服(パワードスーツ)が出てこない」などと批判されたものです。でも、原作では、強化服は最初と最後にちらっと出てくるだけで、話の8割以上は主人公の若者がいかに一人前の兵士になったかに費やされています。
 
 軍の教官が主人公に繰り返し言う、「・・・の正しさを数学的に証明せよ」というせりふが印象的です。「・・・」に入るのは、例えば「仲間が一人でも敵に捕まったら、味方が何人死んでも助け出さなければならない」といった軍の、いや、体制の価値観です。でも、価値の問題を数学で解決することなど、不可能なはずです。一足す一の答えはひとつですが、価値観は本来、人それぞれだからです。実際、この問いに対して主人公がどう答えたかを、ハインラインは全く書いていません。

 この小説に出てくる昆虫型エイリアンは、アメリカに敵対してきた日本人や朝鮮人、ベトナム人などの黄色人種の比喩なのだという説がありますが、私はむしろ、ハインラインが描こうとしたのは、反共一色に凝り固まってそれ以外の価値観を許さない、60年代当時のアメリカ社会そのものだったのではないか、と思います。
 ・・・あれっ、「夏への扉」はどこに?
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やるのう、NHK

2005-02-16 06:16:33 | Weblog
 ラグビーなんて、どうでもいいのか。公共の電波という観念がないんだろうな。
 朝日との戦いが話題になっているけど、私はどっちも支持しないな。ていうかマスコミは嫌いですね。大学を出て、コネである新聞社に入ったけど、2ヶ月で辞めましたよ。そこで身にしみてわかったのは、いい記者の条件は、とにかく「締め切り時間を守る」ことに尽きる、ということ。取材はさっさと切り上げるに限る。それと、記者個人には「表現の自由」というものはなくて、それはあくまで会社のものである、ということ。記事のニュアンスを決めるのは記者本人ではなくて、何の相談もなく書き換えられた記事が紙面に載る場合もある。だから、もしもあなたがどこかの記者の取材を受けるなら、決してその記者を信用というか、あてにしてはいけません。どんな会話をしても、会社の意向しだいで後から歪められて報道されるおそれがあります。
 
 あえて言うなら、NHKの例の番組が、実際にはオリジナルのまま放送されていないのに「反日的」とされるのはおかしい。事前に見たのはNHK内部の数人だけでしょうが、その判断を視聴者は無条件で受け入れないといけないのでしょうか。自分で見て判断する機会を奪われた、とも言えるのではないでしょうか。この問題は、週刊文春の発行差し止めのケースと似ている、と私は思います。
 長くなったけど、たかが「裁判ごっこ」に神経を使う必要はなかった。大目に見て放送した上で、叩くなりなんなりすればよかった、というのが結論、かにゃ。
 
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はじまり

2005-02-13 11:02:21 | Weblog
 唐突に、日々思ったことをテキトーに書き綴ることにしました。いつまで続くことやら・・・。

 最近、子供の30パーセントくらいが「生まれ変わり」を信じている、という記事が出て、実際の人生を軽視することにならないか、などと騒がれたけど、これって、仏教の「輪廻転生」とは違うのかな?例えば、動物をいじめたら、来世はその動物に生まれ変わって、今度は自分が人間にいじめられるようになる、という仏教説話を聞いたことがあるけれど。カタい言い方をすれば、憲法の信教の自由や、思想・信条の自由にもかかわる問題で、そう簡単に批判してもいいのか、という気がするなー。

 質問が「天国を信じますか」で、「信じる」という答えが過半数だったら、やっぱり問題になるんでしょうか?子供だけでなく、大人にも聞いてみたい質問ですね。
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