引き続き「心理学と錬金術」を読む。いわゆる「自己」が、「個我」と表現されているのが気になる。どうしても「古河」を連想してしまって、読んでいてテンションが下がるのにゃ。
患者の無意識を意識化する過程において現れる夢や幻覚を、さまざまな神話や物語、錬金術の象徴で説明しようとするユング。だが、それらはどんなに奇妙に見えても、意図的に作られたものであり、「意識の世界」の産物であることは間違いない。どんなにユングが弁明を重ねても、それらを用いて「無意識の世界」を説明しようと試みること自体、すでに恣意的といわざるをえないのではないか。また、錬金術の難解な表現による説明を聞いた患者は、果たして安心感を得られたのだろうか。
だが、正直に言うと、私が魅力を感じるのは「個人的無意識」でも「集合的無意識」でもなく、そのような「ユング自身の恣意」の方なのだ。これもまた、一種の「背理」というやつだろうか。ユングの試みは、冥界(無意識の暗黒)に降ったオルフェウスに匹敵する神話として、語り伝えられていくだろう。
この本を読んでいくつかわかったことがある。「エヴァンゲリオン」の「人類補完計画」は、いわば「失敗した錬金術」だったんだな。ユングによると、意識と無意識を統合して、より高次の「全き人間」に至るのが、錬金術ならびに心理学の真のテーマなのだという。彼はそれを「個体化」と呼んでいる。そこではもちろん個人の意識の価値が否定されることはないのだが、「人類補完計画」ではすべての個人が自分の意識を喪失して、人類共通の無意識の海へと還る結果になってしまう。「個体化」とはまさに正反対だ。
また、「ローゼンメイデン」でお馴染みの、「ローザ・ミスティカ(神秘の薔薇)」も少しだけ出てくる。聖母マリアの形容語のひとつだという。
この本に影響されたのか、最近幻覚を見るようになった。・・・・・片桐背理。背理ヒットラー。背理スク背理ターン。背理背理ルレ背理ホー。アルプスの少女背理。背理ーン・キャラ。
凡人は、安易に「背理」を援用すべきではない。それが許されるのは、論理を極めた人間だけだろう。