富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「天使の声を通して預言者とされた第二イザヤ」 イザヤ書40章1-11節

2014-07-27 16:06:19 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

      日本キリスト教 富谷教会 週報

 聖霊降臨節第八主日   2014年7月27日(日)     5時~5時50分 

               礼   拝     

                                         司会 永井 慎一兄

前 奏                                奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 288(恵みにかがやき)  

交読詩編   126(主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られと聞いて) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   イザヤ書40章1~11節

説 教 「天使の声を通して預言者とされた第二イザヤ」   辺見宗邦牧師

賛美歌(21)355(主をほめよ、わが心)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

次週礼拝 8月3日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分

 説教題   「神の霊の降臨」

 聖 書    ヨエル書3章1~5節

 交読詩篇 94  讃美歌(21)476 521 24

            本日の聖書 イザヤ書40章1~11節

  1慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。2エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。
 3呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。4谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。5主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。
 6呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。7草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。8草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
 9高い山に登れ。良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ。良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな。ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神。10見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。
 11主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。

           本日の説教

イザヤ書は66章までありますが、歴史的背景や思想などの違いから、一人の預言者の書ではなく、三人の預言者の書とされています。1章から39章までは、預言者イザヤの書、40章から55章までは、無名の預言者なので、第二イザヤと呼んでいる預言者の書、56章から66章までは、第三イザヤの書として区別しています。

   最初のイザヤは、紀元前8世紀後半、南ユダ王国の首都エルサレムで活動した預言者です。

  第二イザヤは、イザヤから200年後、バビロン捕囚の末期から、捕囚解放、そしてエルサレム帰還にいたるまでの、6世紀中頃に活動した預言者です。

   第三イザヤは、第二イザヤの弟子であったと考えられ、ユダヤ人の祖国帰還と第二神殿再建(B.C.515年)直後まで活動した預言者です。

   イザヤ書全体を通して共通しているのは、神を聖なる神としてとらえ、ヤハウェのことを「イスラエルの聖なる方(神)」と呼んでいることです。また、広い世界的視野の観点から神の言葉を語っていることです。

 イザヤの活動の後、第二イザヤが活動するまでの時代の歴史的状況を次に記します。

   南王国ユダは、バビロニアによって攻撃され、紀元前587に滅亡しました。王や住民の重立った者たちは、597年,587年、582年と三度にわたってバビロンへ捕え移されました。これがバビロン捕囚です。第一回目の捕囚の時から58年後の紀元前539年、ぺルシア王、キュロスがバビロンを攻撃し、占領しました。翌年に、「キュロスの勅令」の発布により(エズラ記1:2-4参照)、捕囚の民はエルサレムへ帰還することが許されました。

  バビロン捕囚は、度重なる預言者の悔い改めの勧告にも耳を傾けず、神への背信の罪を繰り返すユダ王国の民に対して下された神の審判でした。

  神と契約を結んだ、選ばれた民でありながら、国を失い、異教の地で半世紀近くもユダの民は苦難をなめました。彼らの苦しみは、単に政治的な屈辱や絶望、あるいは経済的な貧困や不安だけではなく、主なる神・ヤハウェが異教の神に負けってしまったのではないのかという失望や、自分達は神に見捨てられたのではないのかという疑惑がつのり、神に選ばれた民としての意識は失われ、将来への希望を失いかけていました。荒れはてた心の荒廃を、第二イザヤは捕囚民と分け合っていました。

   第二イザヤは、おそらく捕囚の地で生まれた第二世代の人であり、祭儀と深く関係していた人物と推測されます。預言者として活動したのは、捕囚時代の末期です。

  イザヤ書40章1-11節は、第二イザヤの預言者としての召命体験の記事と見ることができます。40章1~31節は、第二イザヤ書全体の序曲であり、第二イザヤの信仰と希望が集約されて、記されています。

  「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。」(イザヤ書40章1節、2節)

  天上の会議で「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と神が言われたことを聞いた天使が、他の天使たちに向かって、「あなたたちの神は言われる」と伝えているのを、第二イザヤは幻で聞いたのです。

  イスラエルの民は、その罪のため捕囚という裁きを受けていたが、天の会議では、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」と神は宣言されたのです。このイスラエルの運命の転換は、神の一方的な赦しによるものです。神がユダの民を「わたしの民」と呼ばれたのは、破られたかに思われていた主とイスラエルの契約の関係が、ここに更新されたことを示しています。

  「エルサレムの心に語りかけ」とは、心をかたく閉ざしているユダの人達に、その心に届くように、慰めの言葉を語れと、神は天使たちに命じたのです。

  「苦役の時は今や満ち彼女の咎は償われた。」 ユダの民に課せられた苦役の期間は満ちたので、その罪は許されたと神が宣言したのを、天使は仲間の天使たちに伝えています。

  「罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた。」 犯した罪に相当する刑罰の二倍もの報復を、捕囚の民は神から受けた、と神は言われました。

  「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」(イザヤ書40章3節~5節)

  「呼び掛ける声」は、天使たちが互いに呼びかけている声です。「備える」とは障害物をとり除き、きれいにすることを意味します。古代、王者が戦争に勝って凱旋する時、備えられたのがこの「広い道」でした。荒れ野の山は低くされ、谷は高くされて、そこに広い道が造られ、捕囚の民が困難なくバビロンからエルサレムに帰ることができるように、天使たちは備えるのです。バビロンからエルサレムまで、何千キロもの荒野や砂漠を経て、帰還する道が開かれるのです。谷や山が、そして丘が主の顕現の前に揺れ動き、自然が変貌します。「主の栄光」がこうして現れるのを人々は共に目撃します。隠れていた神の顕現の希望が告げられます。なぜならこれを神が宣言されたのだから、と天使は言います。

  「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ書40章6節~8節)

  「呼びかけよ」という「声」は、天使の声です。天使を通して神はイザヤに語りかけるのです。「呼びかけよ」とは、民に向かって語れと命じているのです。ここで、第二イザヤが預言者として召されたことが暗示されています。捕囚前の預言者が罪の告発と裁きの宣告を任務としていたのとは対照的に、第二イザヤは捕囚の民に解放を告げる使命を与えられたのです。

  「わたしは言う」、の「わたし」とは第二イザヤ自身です。信仰による希望を失い、心の荒廃している民に対して、「何と呼びかけたらよいのか」と第二イザヤは天使に尋ねました。天使は、人のはかなさを草花にたえて語ります。砂漠の熱風のように、主の裁きの風が吹けば、民も草のように枯れ、花のようにしぼむ。「この民」、ユダの民も草に等しいと語り、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と天使は語り、神の言葉の永遠性を伝えます。第二イザヤは、この言葉を受けて、神の不変の言葉を取り次ぐ預言者としての使命を与えられたことを自覚するのです。

  「高い山に登れ。良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ。良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな。ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(イザヤ書9~11節)

  「高い山に登れ。良い知らせをシオンに伝える者よ。」  天使が、他の良い知らせを告げる天使たちに対して呼びかけます。「シオン」とは、エルサレム南東部の丘で、エルサレム全体を象徴的に指す言葉で、ここではユダの捕囚の民を指します。良い知らせとは、捕囚の苦役から解放され、祖国にユダの民が帰還できるという知らせです。見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。」「あなたたちの神」とは、1節にもあったように、天使たちに、「あなたたちの神は」と語りかけているのです。「御腕」というのは、エジプト脱出の際の神の力ある業に使われています(出15:16,申5:15,詩77:16)。しかもヤハウェは、羊飼いのように優しくイスラエルの民を導いてくださる、と言うのです。

 今や歴史が大きく動き出している。神の新しい創造と救いが始まる。第二イザヤは、天上の天使たちの声を聞いて、それを知ったのです。第二イザヤは、偶像崇拝の危機に直面していた捕囚の民にヤハウェのみが真の神であることを主張しました。またあの有名な「苦難の僕」としてのイエス・キリストの来臨を予言しました。

  「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。」(イザヤ書53章11~12節)

  第二イザヤ書の前半部分(40-48章)においては、終始一貫してバビロン捕囚からの解放とエルサレムへの帰還が主要テーマとなっています。55章の終章では、解放された民が安全に荒れ野を通って故国に帰ることが告げられています。

  「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く。山と丘はあなたたちを迎え、歓声をあげて喜び歌い、野の木々も、手をたたく。茨に代わって糸杉が、おどろに代わってミルトスが生える。これは、主に対する記念となり、しるしとなる。それはとこしえに消し去られることがない。」 (55:12-13) 

  現代においても、戦禍のために国外に逃れ、いつ祖国に平和がくるのか、祖国に帰れる日はいつ来るだろうか、という思いで苦難の日々を過ごしたいる民は大勢います。国内においても、大津波の被害や原発の放射能汚染で荒廃した故郷に戻ることができないでいる大勢の人たちがいます。戦争が終結して平和の訪れる日、故郷が復興し、安心して戻れる日が、一日でも早く来ることを、待ち望みます。「主よ、御国を来たらせたまえ。」

 

 

 

 

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