富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「聖霊降臨日のペトロの説教」 使徒言行録2章14~26節

2021-05-22 23:58:23 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第1主日(ペンテコステ礼拝)  2021年5月23日(日)   午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。(エフェソ3・16-17)

        礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 343(聖霊よ、降りて)

交読詩編  100(全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)使徒言行録2章14~26節(新p.215)

説  教  「聖霊降臨日のペトロの説教」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                    

讃美歌(21) 342(神の霊よ、今くだり)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 ズームで名古屋の辺見貴広兄が礼拝に参加します。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。  

 

                    次週礼拝 5月30日(日)午後5時~5時50分    

                    聖 書 ヨハネの手紙一、4章7-12節

                    説教題  「ゆるしの愛」

                    讃美歌(21) 13 481 27 交読詩編 103  

   本日の聖書  

2:14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。

17『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。 わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 19上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。 20主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。 21主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

22イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 23このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 24しかし、神はこのイエスを

死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 25ダビデは、イエスについてこう言っています。

『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。 だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。 28あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

29兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。 30ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。 31そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。

 32神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 33それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 34ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。 35わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』 36だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

37人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 38すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 39この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 40ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。

本日の説教 

主イエスは、ユダヤ教の<過越祭の>安息日の翌日(日曜日)に復活されました。この復活日(イースター)から数えて五十日目がユダヤ教のペンテコステ(五旬祭)(レビ記23:15-16)」の日です。<五旬祭>はギリシア語の第五十を意味する「ペンテコステ」に由来するユダヤ教の「七週祭」のことで、<小麦の収穫の初穂>を神にささげる日でした。

この五旬祭(ペンテコステ)の日に、復活の主が約束された聖霊降臨が起こりました。このことから、<ペンテコステ(第五十)>という語は、キリスト教の<聖霊降臨日>を意味するようになりました。

 弟子たちは、主イエスが約束された聖霊を受けるため、エルサム市内に家に集まっていました。五旬祭の日になり、一同が一つになって集まっていると、突然聖霊が降り、一同は聖霊に満たされ、聖霊が語らせままに、他国の言葉で話しだしました。おそらく異言だったと思われます。

エルサレムには、当時の世界各地出身の信心深いユダヤ人たちが住んでいましたが、この物音に大勢の人々が集まってきました。

  当時、エルサレムに住んでいた外国出身のユダヤ人の故郷

そしてだれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、驚き、怪しみました。「この人たち、皆ガリラヤの人ではないか」。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と、人々は皆とまどい、「いったい、これはどいうことなのか」と互いに言いました。しかし、このような不思議な熱狂的様子を、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける者もいました。

 

この奇跡に驚いている民衆に向かって、ペトロは他の十一人の使徒と共に立って、声を張り上げて話し始めました。ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち」とペトロは呼び掛け、「知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください」と語りかけました。

ペトロは、「今は朝の九時ですから、この人たちは酒に酔っているのではありません」と話し出しました。聖霊の働きによって弟子たちが、外国の言葉で語った現象を、ペトロは預言者ヨエルによって語られていた預言が実現したのだと語りました。

ヨエルが活動したのは、紀元前450年から400年頃と思われています。ヨエルは旧約聖書の預言者の中では、年代的には最後の預言者です。ヨエル書3章1~5には「神の霊の降臨」が生じ、人々が神の言葉、すなわち、福音を聞いて救われる恵みの時代がくると預言されています。

ペトロは、ヨエルの預言を語り聞かせます。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」<わたしの霊>とは、神の息であり、神の力です。ここでは神が人の命を支え、歴史の中で力強い業を行い、救いを与えることが預言されています。

旧約聖書の伝統の中では、神の霊は、神の特別な選びと好意を受けた者だけ注がれるものでした。例えば王や士師、預言者でした。ところが、預言者ヨエルは、「あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ」と、「神の霊」が全ての人に対して注がれると預言したのです。

「すべての人」とは、イスラエルの民のすべての人です。「息子や娘」、すなわち、男女の性別にかかわりなく、聖霊は与えられて、人は預言をする。また、「奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」とあり、社会の階級や立場にかかわりなく、社会の最下層の男の奴隷、女の奴隷にも、神は聖霊を与える、と預言したのです。

ペトロは、ヨエルの世の終わりの預言を、「上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」と語り聞かせました。

世の終わりの最後の審判が来るとき、その前兆(しるし)が、天にも地にも、自然界に異変、災害が現われる。しかし主の名を呼び求める者は、救われると、ヨエルの預言を悔い改めの勧告に結びつけます。

ペトロは、「イスラエルの人たち」(22節)と再度の呼びかけをし、ユダヤ人を告発します。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。……このイエスを、……あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」(2:22b… 23)と告発します。「律法をしらい者たち」とは、ローマ帝国の総督ピラトやその兵卒たちを指しています。このことは神が予知されていたことが起きたのです。

ペトロは、「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデはイエスについてこう言っています」(2:24~25a)。

ペトロはこう言って、詩編16篇8~11節を引用し、ダビデ王が言った言葉で、イエスの復活を証明しました。この詩編の言葉は、主イエス・キリストの復活が神様のご計画の中に既にあったことなのだと、ペトロは説明したのです。

「兄弟たち」(29節)、とペトロは三度目の親しい呼びかけをしました。ペトロは詩篇16編10節の「彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない」を再び引用して、キリストの復活を証明しました。

イエスの復活を詩編の言葉で証明したペトロは「わたしたちは、イエスの復活と昇天の証人です」と宣言しました。さらにペトロは神の右の座に上げられたイエスの昇天を、詩編110・1を引用し、「主(神)は、わたしの主(キリスト)に神の右の座に着くようにお告げになった」と証明しました。

 ペトロは、今度は「イスラエルの全家(ぜんか)は」と言い、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と語りました。「イスラエルの全家」とはイスラエルの全(すべ)ての家のことで、国外に滞在するユダヤ人を含めたユダヤ人をも対象として語りかけたのです。そして、神はあなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神の右に上げられ、主(世を支配する主)とし、メシア(救い主)とされたのです、と宣言しました。

 ペトロの説教は、ユダヤ人に対して、キリストの十字架と復活、昇天、聖霊降臨を、聖書の預言の成就であると説き、自分たちは主の復活の証人であることを述べ、イエスは神の右に座す支配者であり、救い主(キリスト)であると宣言したのです。

 「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(2・36)は、ペトロの説教の要約です。ペトロはこの説教で、「あなたがたはこのイエスを殺してしまったのです」(23節)、「あなたがたが殺したイエス(36節)」と、二度もイエスの殺害の責任をユダヤ人に帰しています。神の民であると自負するユダヤ人が神の子を拒否し、直接手を下さないまでもイエスを十字架に追いやった責任と罪に気付き、悔い改めるように迫っています。

しかし、ペトロの説教はユダヤの罪を告発しただけではありませんでした。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」という言葉には、イスラエルの人々の罪を用いて救いのみ業を達成して下さった神様の恵みが示されています。罪が指摘されていると同時に、その救いと赦し、人間の罪に対する神様の恵みの勝利が宣言されているのです。神様の恵みが、人間の罪と死に既に打ち勝ち、それを滅ぼしてしまっていることを、ペトロの説教は告げているのです。

ペトロの説教を聞いた人々は心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言いました。

ペトロは、彼らに向かって、「悔い改めなさい。イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と言って、聖霊はイスラエルの人々に限定されない、すべての人に与えられるものであると言いました。

ペトロが告げ知らせた福音は、ダビデ王の時代から、およそ一千年もの間イスラエルの民が待望してきた、イスラエルの民を救うメシアが、神の右に座し、世を支配する主となられたという知らせです。神がイスラエルの始祖アブラハムに誓われた「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という約束が実現したのです。実に、紀元前二千年も前にアブラハムに誓われた、全人類を救う神の御計画が実現したのです。

今から二千年前に弟子たちや初期教会を導いた聖霊が、同じように現代のわたしたちにも与えられるのです。聖霊は、キリストが今も生きておられる方であることを示し、キリストの力と栄光を示すものでもあります。聖霊は罪から清める力でもあり、愛の賜物でもあります。この聖霊を祈り求めましょう。そして、神の偉大な救いを世に告げ知らせようではありませんか。

      

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