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↑ 荒れ野で、四十日間も断食するイエス。
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
受難節第1主日 2024年2月18日(日)午後2時~2時50分
礼 拝 順 序
前 奏 辺見トモ子姉
司 会 邉見 順子姉
讃美歌(21) 141(主よ、わが助けよ)
交読詩篇 91(いと高き神のもとに身を寄せて隠れ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)マタイによる福音書4章1~11節(新p.4)
説 教 「荒れ野の誘惑」 辺見宗邦牧師
祈 祷
聖餐式
讃美歌(21) 284(荒れ野の中で)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
◎オン・ラインで、どなたでも礼拝に参加できます。
090-3365-3019の辺見まで連絡ください。
次週礼拝 2月25日(日)午後2時~2時50分
聖 書 ヨハネによる福音書9章13~41節
説教題 「メシアへの信仰」
讃美歌(21)288 78 446 27 交読詩篇 18
本日の聖書 マタイによる福音書4章1~11節
1さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 4イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」 7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
本日の説教
2月14日の水曜日(灰の水曜日)から、イースター前日の3月30日までの、6回の日曜日を除く、40日間の受難節(四旬節)に入りました。40日という期間は、主イエスが悪魔から誘惑を受けるために荒野で断食した40日を思い起こして過ごすためです。
この期間中にある6回の日曜日を除くのは、日曜日をイエスの復活を記念する主の日として、教会で礼拝をするためです。受難節の最後の一週間を受難週と呼びます。イエスが十字架に架かるためにエルサレムで過ごした最後の週として、その苦難を覚えるためです。受難節の間は、主イエスが荒れ野で誘惑に会われ、十字架への道を歩まれたことを思って感謝し、主の復活を祝うイースターに備えるための期間です。
イエスの「荒野の誘惑」は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に記されていますが、本日はマタイの福音書からメッセージを与えられたいと思います。
主イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた後、悪魔から誘惑を受け、その誘惑に打ち勝つために、聖霊に導かれ荒れ野に行かれました。荒れ野は、エリコから西3キロに広がる「ユダの荒れ野」と推定されています。そこには「誘惑の山」と呼ばれている所があります。
「誘惑の山」
イエスは荒野で四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えました。イエスの四十日間の断食と誘惑は、モーセが山で食糧もなく四十日間放浪したこと(出エジプト記34・28、申命記9・9)と関連し、背景となっています。
イエスは洗礼を受けたとき、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞きました。イエスは「神の子」の自覚をもって、悪魔の誘惑にあわれるのです。イエスは伝道を始める前に、人間に罪を犯すように誘った悪魔の誘惑に勝たねばならなかったのです。「誘惑する者」の第一の誘惑は、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という誘いでした。
四十日も断食し、空腹を覚えているイエスにとって、パンは口から手を出したいほど欲しいものでした。悪魔の言うように、イエスは神の子として権能を用いて石をパンにすることは、できないことではありませんでした。
しかし、イエスは自分をお遣わしになった神の御心を行うために世に来られたことを自覚され、自分の意志を行うために神の子としての権能を用いることはしませんでした。
イスラエルの民は、シナイ半島の荒れ野の旅で空腹だったとき、指導者のモーセとアロンに不平を述べ立て、必用なものを与えてくださる神を信頼せず、不信仰を表しました(出エジプト記16・3)。しかし、不平を聞かれた神は天からマナを降らせ、うずらの肉を与え、こうして民を守る神であることを知らせたのです。
主イエスは荒れ野で、イスラエルの民と同じような空腹を味わいましたが、イスラエルの民と同じような不信仰の罪を犯しませんでした。悪魔の誘惑に対して、イエスは神によって命じられたのではない奇跡を行うことを拒絶しました。「『人はパンだけで生きるのではない。人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある」と聖書のことばを引用し、現実の空腹に目を留めるのではなく、神に信頼し、神のみ心に従って生きることを宣言したのです。イエスは、申命記8章3節のことばを引用しました。
「人はパンだけで生きるのではない」とは、生きるために人はパンを必要とするが、パンだけで生きるのではない。人は神が与える命のパンで生きる(ヨハネ6:35)、と解することができます。人の生死は神の計らいの中にあり、人は神に生かされている存在です。人には、いのちの霊の糧が必要なのです。
人は神のことばによって生かされるのです。天地の創造も神のことばによるものでした。万物は神の言(ことば)によって成りました(ヨハネ1:3)。神はことばによって、ご意思を示されます。活ける神は、ものを言わない偶像の神とは違います。神と人との関係は、人格的・霊的なものです。神の言葉は、荒れ野の旅におけるマナのように、私たちに、単なるパンとは違う命の糧を与えて生かし、神に信頼して歩む者としてくださるのです。私たちは、日用の糧とともに、日々神のみことばによる霊の糧で養われて生きるのです。
次に悪魔は イエスを聖なる都エルサエムへ連れて行き、神殿の屋根の端に立たせ、神の子なら飛び降りたらどうだ、と誘いました。
当時のユダヤの人々は、いつの日か自分たちを救いに来てくれるメシアが登場する場所は、このエルサレムの壮大な神殿の、しかも誰からもよく見える屋根である、と信じていたのです。そこに救い主が姿を現して民に救いを告げる。そういう最もふさわしい場所を悪魔は選んだのです。
悪魔は、「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と書いてあると聖書のことばを用いて、イエスに対して、神の子メシアとしての力を魔術的に行使して自分が神の子たることを示しなさい、と誘ったのです。
悪魔が引用した聖書のことばは、詩篇です。このように書かれています。「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」(詩編91・11~12)とあります。
悪魔が引用したこの詩篇は、神への全き信頼を示す祈りです。イエスは、悪魔の要求する奇蹟は自分のための悪用であり、神への偽りの信頼への誘いであることを見破り、イエスも聖書の言葉を引用し、「あなたの神である主を試してはならない」と言って誘惑をはねのけました。
イエスが言われたこの言葉は、モ―セが民に語った言葉です。これは旧約聖書の出エジプト記で語られている出来事を背景にしています。荒れ野で民の飲み水がなかったとき、「イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試し」ました。主は、苦境にあるモーセの祈りを聞き、モーセが岩を打てば、そこから水が出て、民は飲むことができるようにしました(出エジプト記17:1~7)。
モーセはこの時の出来事を回顧し、イスラエルの民に対し「あなたたちがマサにいたときのように、あなたたちの神、主を試してはならない(申命記6・16)」と語りました。主イエスはこの言葉を引用して悪魔を撃退したのです。イエスはイスラエルが犯した不信仰のあやまちを犯すようなことはしませんでした。
ここにはイエスの内面的な霊的戦いが描かれています。
悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行きました。一瞬のうちに世界のすべての国々とその繁栄ぶりを見せました。そして「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ、と言ったのです。この悪魔の言葉は、神の子の権威を表す言葉であり、「すべてのことは、父からわたしに任せられています(ルカ10・22)」というイエスのことばに類似しています。この誘惑はイエスにとって大きな誘惑です。この世の権力と繁栄は、すべての権力者が求めるものであり、この世の繁栄、栄華と富はすべての人を魅了するものだからです。この誘惑は、神の子への権威の約束が暗示されています。「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする」(詩篇2:8)とあります。
悪魔はここで自らを神として、神の子イエスに拝むことを要求したのです。しかし、悪魔に全世界を与える力も権限もあるわけありません。全世界は、神のものだからです。悪魔は、できもしないことを言って、自分を拝ませようとしたのです。
主イエスは、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と言って悪魔を退けました。
イエスが用いたこのことばは、モーセがホレブの山(シナイ山)で十戒を与えられたあと、イスラエルの民に神の言葉を取り次いだときの言葉です。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないように注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい(申命記6:13)」とモーセは語りました。主イエスは、悪魔をこの聖書のことばで退散させたのです。
たしたちは、人生において追い求める目標が、富とか地位とか世間での名誉とかいう地上の宝ではなく、何よりもまず、神の国と神の義を求め、主に仕え、隣人を愛すことが大切です。それが「宝を天に積む」ことになり、心はいのちの源である神に結びつけられて、死によっても脅かされることのない、霊の喜びと永遠の命に生きる者とされます。
悪魔はあらゆる誘惑を終えてイエスを離れました。すると天使が来て仕えました。これは、誘惑に打ち勝たれたイエスに、神の豊かな恵みが伴ったことを示しています。イエスは、わたしたちに赦しと恵みを注ぐために来られたのです。私たちにサタンに打ち勝つ聖霊による力を与え、私たちを罪と死の支配から解き放ち、永遠の命を与えるために、この世に来られたのです。私たちはこの主イエスを信じ、復活されたイエスと結び合わされ、この主イエスと共に生きていくことが出来るのです。そのことによって、私たちも神の子とされるのです。
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