富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「メシアへの信仰」ヨハネによる福音書9章1~7、13~41節

2024-02-21 16:19:54 | キリスト教

↑ 盲人の目を癒すキリスト」エル・グレコ(ギリシャ人)1567年作                 メトロポリタン美術館(ニューヨーク)所蔵

解説 生まれつきの盲人を癒す記事は、マタイ9:27-31とヨハネによる福音書にあります。マタイでは二人の盲人を癒しています。絵画の中心ではキリストが盲人の目に触っています。左で空を指さしている人物は、先に視力を取り戻した盲人です。右側の集団は隣人たちとファリサイ派の人たちで、キリストが安息日に癒すことに反対しています。手前の二人は、盲人の両親だと言われています。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

   日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

受難節第2主日 2024年2月25日(日)午後2時~2時50分 

       礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21) 288(恵みにかがやき)

交読詩篇    18:26-35(あなたの慈しみに生きる人に)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書9章1~7、13~41節(新p.184)

説 教     「メシアへの信仰」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)   449(千歳の岩よ)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

         次週礼拝 3月3日(日)午後2時~2時50分

         聖 書 ヨハネによる福音書6章60~71節

         説教題   「受難の予告」

         讃美歌(21) 204 311 27 交読詩篇 90

 本日の聖書 ヨハネによる福音書9章1~7節、13~41節

 9:1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 2弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 5わたしは、世にいる間、世の光である。」 6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 7そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。・・・・・・・

 35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、 39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」 40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。 41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

 本日の説教

 ヨハネによる福音書9章には、イエスが生まれつきの盲人の目を見えるようにされたという奇跡物語と、それに続く長い論争と対話とが記されています。

   主イエスは、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。その時、主イエスの弟子達が、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」とイエスに尋ねました。弟子達は道ばたで物乞いをしている目の見ない人を見て、この人が何故、目が見えないのかというその苦難の原因を尋ねたのです。理由の分からない苦しみの理由、原因をたずねることは、人間にとって昔からの深刻な問題でした。

  それに対して、主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と、お答えになったのです。弟子たちは、生まれつきの盲目という苦しみの原因とだれの罪かという責任を問うたのですが、イエスはそれに対して、その苦しみの意味と目的を明らかにしたのです。

  更にイエスは、この人の目に唾でこねた泥を塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と、言われました。この人が言われた通りにすると、目が見えるようになって帰ってきたのです。

シロアムの池は、ギホンの泉からエルサレムの城内に水を引くため、ヒゼキヤ王の時代に、竪穴を掘って水路を造り、下の池まで水を引いた所されてきましたが、発掘調査によって大きい古池が発見され(現在は池に降りていく階段)、これがヨハネ福音書9章に出てくるシロアムの池と見做されています。 上の地図では、ギホンの泉から(上の池)から縦の赤い点線で示されている古い地表水溝を通って行く先の古池が、新しく発見されたシロアムの池です。

   イエスのこの「だれの罪でもない。神の業が現れるためである」とのお言葉は、その後今日まで、どんなに多くの人々を救いに導いたかは計り知れません。

    ヨハネの9章の8節以下には、イエスによって癒された盲目だった男のその後の人生の歩みが記されています。シロアムの池で目が見えるようになった人が、もとの場所に帰ると、そこで彼を待っていたのは、目が開かれたことを共に喜ぶのではなく、むしろ、彼を質問責めにする人々がいたことを記しています。人々は、「お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで行って洗ったら、見えるようになったのです。」と答えました。人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言いました。

    人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行きました。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日でした。ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」という者もいれば、「どうして罪ある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいました。人々は盲人であった人に、「お前はあの人をどう思うのか。」と言いました。彼は、「あの方は預言者です」と言いました。

    ユダヤ人たちは、盲人であった人を二度も呼び出しました。この癒された男は、イエスが「神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と答えました。この言葉はファリサイ派の人々を憤慨させました。そこで彼は会堂から追放されました。それは社会的にもユダヤ人としての市民権を失う致命的なことでした。

   イエスは彼が追放されたことを聞き、彼に出会って言いました。「あなたは人の子を信じるか」と言われました。「人の子」とは、救い主を意味する呼び名です。彼は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と答えました。イエスは、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と言われました。彼は目が見えるようになってから今まで、イエスを肉眼で見たことはなかったのです。しかし、今、自分の前にいる方がメシアであることを知り、「主よ、信じます」と言ってひざまずきました。この盲人だった人は、目が癒されて見えるようになっただけでなく、それ以上にもっと大事なことに目が開かれ、メシア・救い主に出会い、信じることが出来たのです。

 イエスは言われました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」「裁くために来た」とは、イエスが来た主なる目的が人の罪を裁くために来たという意味ではなく、むしろ、イエスが人を救うために来た結果、振るい分けが生じ、裁きが起こったという意味です。この方こそ、真に善悪を判断し、裁きをなさることが出来る方でありますが、裁くために来られたのではありません。イエス様がこの世に来たのは、罪人を招いて救うためです。

 「こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」見える者とはだれのことでしょう。また、見えない者とはだれのことでしょう。私たち、生まれながらの人は皆見えない者たちです。神に頼らなくても生きていけるという自信の故に、真の光に至る道を、自分たち自ら拒否しているのです。自己を神の前に正しい者とする心が罪の本体なのです。自分の不完全さ、弱さ、病や罪や死の恐怖を認め、真の光として世に来たイエスの光を受け、イエスの愛と憐れみを受け入れ、イエスのみ言葉を信じて受け入れることによって初めて目を開かれ、見える者とされ、救われるのです。わたしたちは、聖霊によってわたしたちの「心の目を開いてくださるように」に、祈り求めましょう。そのとき、更なる大いなる祝福にあずかる者とされるでしょう。 


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