富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「奇跡を行うキリスト」ヨハネによる福音書6章1~15節

2024-02-08 15:59:56 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

降誕節第7主日  2024年2月11日(日) 午後2時~2時50分

     礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21)   6(つくりぬしを賛美します)

交読詩篇     95(主に向かって喜び歌おう)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書6章1~15節(新p.174)

説 教     「奇跡を行うキリスト」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)    198(二ひきのさかなと)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

 ◎オン・ラインで、どなたでも礼拝に参加できます。          090-3365-3019の辺見まで連絡ください。

          次週礼拝 2月18日(日)午後2時~2時50分

          聖 書 マタイによる福音書4章1~11節

          説教題   「荒れ野の誘惑」

          讃美歌(21)141 78 284 27 交読詩篇 91

 本日の聖書 ヨハネによる福音書6章1~15節

 1その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。2大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。4ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。15イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

 本日の説教

 今日の聖書の箇所には、主イエスが、二匹の魚と五つのパンで五千人もの人々を満腹させたという出来事が記されています。四つの福音書のどれにも共通に出て来る奇跡物語は、この「パンの奇跡」だけであり、この奇跡の記事の重要さがうかがわれます。この物語は、到底ありえない話として決め付けてしまう人もいると思います。聖書の中には、たくさんの奇蹟物語が記されていますが、その中でもこの奇蹟物語は、まさに信じられないことが起こった奇蹟であり、キリストを信じる者にとっても不思議な話で、つまずきの石となるものです。一体この奇跡はどんなことを私たちに伝えているのでしょう。

 6章1節の「その後」とは、5章の記事がエルサレムでの記録であり、6章はガリラヤ地方の出来事なので、5章の記事とは切り離されています。すると「その後」とは、4章に続くガリラヤ地方の伝道の続きであることがわかります。

ガリラヤのカナで、「水をぶどう酒に変える」最初の奇跡(2:1-11)が行われ、カファルナウムの役人の息子の病気を癒す第二の奇跡(4:46-54)が行われました。エルサレムのベトザタの池では三十八年も病気で苦しんでいるひとを癒されました(5:1-9)。そして、今日の聖書の箇所は、第四の奇跡がガリラヤ湖の向こう岸で行われるのです。

 「イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に」渡られました。ガリラヤ湖をティベリアス湖と呼ぶようになったのは、紀元22年にヘロデ・アンテパスがローマのティベリウス皇帝をたたえるために、ガリラヤ湖の西南岸にその名にちなんだティベリアスという町を建てたことに始ります。ティベリアス湖の「向こう岸」とは、カファルナウムから見た向こう岸で、ガリラヤ湖の北東の岸にある町、ルカ福音書によれば「ベトサイダという町」(9:10)です。

 イエスは弟子たちとこの町に渡られました。イエスは群衆から逃れて弟子たちを教えるためだったと思われます。ところが、大勢の群衆がイエスの後を追いました。イエスが病人になさったしるしを見たからです。イエスは、その町から更に人里離れた所に移動し、山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになりました。

 「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいて」いました。この翌年の過越祭のときにイエスは十字架におつきになるのです。過越祭では、神の怒りを過ぎ越すために子羊が屠(ほふ)られ、出エジプトの時のことを記念します。イエスは、人間の罪の贖いとなるため、世に送られた神の小羊です。

 集まってくる大勢の群衆を見て、イエスはフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。こう言ったのはフィリポの信仰をためすためであり、ご自分では何をしようとしているか知っておられたのです。

 イエス御自身は、ご自分の体を人々に提供し、永遠の命に至るパンを提供することをすでに決心しておられたのです。しかしフィリポはイエスの問いの真意を察することができず、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンがあっても、足りないでしょう」と平凡な答えをしました。

 一デナリオンとは、ローマの銀貨のことで、当時の労働者の一日分の収入だったので、二百日分、つまり七か月分の収入に相当します。これで買うパンは大変な数量になります。これでも十分ではないと答えているのです。

 弟子の一人、ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも足りないでしょう」と言いました。

 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われました。そこには草がたくさん生えていました。男たちがそこに座ったが、その数は五千人でした。イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられました。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられました。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われました。集めると残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになりました。

 イエスが与えた食事は、過越祭が近いことから、新しいイスラエルにとっての第二の出エジプトを記念するしるしとしての食事でした。またこの供食は、主の晩餐(聖餐)を先取りする食事でした。<十二の籠>の十二という数字はイスラエルの十二部族を示していますが、ここではイエスによって与えられた恵みによって新しいイエスラエルが満たされることを象徴していると思われます。

 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られた預言者である」と言いました。この預言者とは申命記18:15で言われているモーセに代わるイスラエルの指導者を指しています。人々はイエスのなされた奇跡を目の当たりにしても、イエスを神の子と認めず、イスラエルを救うモーセのような指導者と見做すのです。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれました。イエスの奇跡的能力を見てローマ帝国に抵抗する政治的なメシア(救世主)として彼を担ぎ上げようとした群衆の意図は拒否されたのです。

 なぜでしょうか?ご自分を王にしようとするその動機が誤っていたからです。その翌日、群衆がイエスを捜し求めてカファルナウムでイエスを見つけたとき、主イエスは次のように語っています。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」(26節)。言い換えれば、民衆は自分を支配する王を迎えていたのではなく、自分の必要を満たす、自分に仕えてくれる存在を求めていたのです。王として担ぎ上げることによって、自分の得になるようなことをしてくれると期待して、王にしようとしていたのです。神が自分の思い、自分の必要をどれだけ満足させてくれたかを基準にして、信じる態度は、本当に神を信じる心ではないからです。それはしばしば、自分の思いを神とする傲慢さを上手に隠した姿であるからです。

 イエスは次のように続けて教えます。「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。…わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(32節~35節)と。このイエスのなされた奇跡は、父なる神の御心を示すためでした。父なる神は必要な日毎の糧を与えるだけでなく、命のパンであるキリストを食べる者に死ぬことのない永遠の命を得させるためでした。

 わたしたちは「主の祈り」で、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈ります。<日用の>とは、「日ごと」の、「毎日の」のことです。<糧>とは、原文ではパンです。それは、ただ単に食物としてのパンだけではなく、私たちの生命を維持するために必要なその他の一切のものが意味されています。

また、この祈りは、「わたしが命のパンである」(ヨハネ6:50)と主が言われたように、わたしたちの内なる生命を養い育てる霊的な食物をさしています。それは永遠の命を与えるパンです。それは主イエスが与えてくださる聖霊です。この祈りは救主キリストの生命を表わすパンとぶどう酒をいただく聖餐と深くかかわる祈りでもあります。

 イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と教えています。人の生死は神の計らいの中にあるので、神に信頼することのみが人のとるべき道です。イエス・キリストによって示された神こそは命の主であり、すべての恵みの与え主であることを信じて、今日という一日を、思い煩うことなく、すべて神にゆだね、主イエスと共に、わたしたちは生きるのです。

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