富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「霊の導きに従って歩もう」 ガラテヤの信徒への手紙5章13節~25節

2016-05-01 13:33:59 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

 日本キリスト教 富 谷 教 会

     週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

   復活節第5主日      2016年4月24日(日)   午後5時~5時50分

礼 拝 順 

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 475(あめなるよろこび)

交読詩篇   96(わたしは主を愛する)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ガラテヤの信徒への手紙5章13節~25節(新p.349)

説  教   「霊の導きに従って歩もう」     辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 343(聖霊よ、降りて)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                    次週礼拝 5月1日(日)  午後5時~5時50分

                    聖書 ヨハネによる福音書16章25~33節

                    説教   「世の苦難に打ち勝つ勝利」

                    賛美歌(21) 531 528 24  交読詩編 8篇

   本日の聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章13節~25節

 13兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。14律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。15だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。16わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。17肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。18しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。19肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。22これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。24キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。25わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。26うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

         本日の説教

 「ガラテヤの信徒」へ宛てた使徒パウロの手紙ですが、「ガラテヤ」は、ガラテヤ人が住み着いた地域、現在のトルコ共和国の内陸中央部にある首都アンカラを中心とする周辺一帯を指す地名でもあり、またローマの属州とされた地域、従来のガラテヤ人定住地にフリギヤ、ピシディア、リカオニアといった南部地方を合わせた地域を指す場合と、二つの説があります。

 パウロがこの「ガラテヤの信徒」へ手紙を送ったのは、パウロがこの地の伝道し、立ち去った後にやって来たユダヤ人キリスト者の扇動に惑わされて、彼らは「真の福音」から離れようとする危機にあったからです。彼らユダヤ人キリスト者は、異邦人でありながらキリスト者となったガラテヤの人たちに、律法、ことに割礼の遵守を説くばかりでなく迫ってもいました。パウロにとって、彼らのそのような言動は「律法からの自由」の喪失を招き、また十字架の死によって成し遂げられたキリストの救いの業を無意味にしてしまうことにほかなりまえん、そこでパウロは、この手紙で「真の福音は律法の実行によらず信仰による救い」と、「キリスト者の律法からの自由」を説いたのです。

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。

 人をキリスト者とし、律法の束縛から自由な状態に置くのは、神の働きであり、またキリストの働きでもあります。しかし、この自由は決して無軌道や勝手気ままを意味するものではありません。「肉に罪を犯させる機会とせずに」とありますが、「肉」とは「霊」との対比で用いられています。「霊」が人間に宿っている神の霊(聖霊)、あるいは神の霊に導かれて神中心に生きる人間を指すのに対し、「肉」は神の霊に導かれず自己中心に生きる人間を表しています。「罪を犯させる機会」は、罪を犯す手掛かり、そして原因やきっかけにしないようにと勧告しています。

 「愛によって互いに仕えなさい」は、隣人愛こそが「キリスト者の自由」の実践原則に他ならないことを端的の示す発言です。この発言はパウロのこれまでの律法観と矛盾する主張のように思われます。「律法は人間を救い得ず、キリスト者にとってはもはや拘束力を失い、廃止された」と主張してきたからです。しかし、パウロにとっても律法自体は神に由来するものであり、したがって、神の意志を表す限りにおいては遵守すべきであることに変わりなく、また遵守すれば、人間に命(救い)をもたらすものなのです。それにかかわらず、人間は「肉」の弱さのゆえに律法を完全に遵守できず、神の意志に従わないことになるところに問題があるのです。その上、律法は人間に「善」とは何かを教えはするが、それを実行する力を与えてくれず、「罪」とは何かを指摘はするが、それを避ける力を与えてくれません。ただ人間を法的規定で束縛し、その「奴隷」とさせるのみです。そこでパウロが主張するのは、キリストによって「自由」を与えられて、もはや「奴隷」でなくなった人間が、今度は互いに「隣人愛の奉仕の奴隷」となって仕え合うことにより、かえって「律法」の全要求を完全に果たし、神の意志に従いうるということです。

だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

 ガラテヤの信者たちの実情が指摘されています。「キリスト者の自由」が危険にさらされていたのです。

わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

  キリスト者にとって、与えられた「自由」を正しく行使し、「隣人愛の奉仕」に努めることは、取りも直さず、「霊」を指導原理とする生活にほかならないち、とパウロは主張しています。「霊の導きに従って歩く」、「霊によって歩く」とは、人間が「肉」すなわち、自己中心主義に生きる自分の支配を脱して、神中心主義の自分として生きることであり、それはまた、究極的には神の霊(聖霊)の指導の下に生活することです。ガラテヤのキリスト者がいわば「共食い」、または自己破滅の危険にさらされているのは、「隣人愛の奉仕」に欠けており、「霊」の指導下に生きていないためであることが暗示されています。

  自己の内部における「肉」と「霊」との対立抗争から人間を脱出させるのは、「霊」を指導原理とする生活であり、それはまた、「隣人愛の奉仕」の実践による「自由」の正しい行使に他ならず」「奴隷の軛(くびき)」を免れる道でもあります。

  ところで、キリストによって既に救われ、「神の子」とされたキリスト者について、なぜ今なお「肉」と「霊」との対立抗争が言われなければならないのでしょうか。これに答えるには、この地上に「肉」をまとって生きている限り、「既に救われた者でありながら、その救いはまだ完全なものではない」という、「もう既に、しかしまだ」で表される二重の実存状況としてキリスト者の生を捕らえるパウロの思想があるからです。

 「しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。

  パウロは、「肉」と「霊」とをめぐる「あれか、これか」の二者択一の問題に決着を付けます。「導かれる」ということには「霊」の主導性がいっそう強調されており、「霊」の指導に積極的に自己を委ねる決断の意も含まれています。

肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 「肉の業」とありますが、「業」は複数形であるのは、自己中心主義に生きる人間の行為にかかわるものだからです。「肉の業」の実例として15種の悪徳が列挙されています。(1)性的不道徳に関するもの三つ:姦淫わいせつ好色、(2)真の信仰に反するもの二つ:姦淫わいせつ、(3)対人関係と共同体の秩序を乱すもの八つ:敵意争いそねみ怒り利己心不和仲間争いねたみ(4)過度の飲酒に関すもの二つ:泥酔酒宴、とグループ化されています。このようなことを行う者は、キリストの再臨によって完全に実現し、確立する終末的な「神の支配・統治」を意味する「神の国」を受け継ぐことはできません。

これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

「霊の結ぶ実」の「実」は、単数形です。人間のものではない力によって作り出される何かであるからです。すべての美徳は聖霊の賜物として一つの源より生じていることを暗示しています。「実」は「霊」に属するもの、すなわち「神の恵み」(聖霊の賜物)を意味しています。

 冒頭に「」が挙げられているのは、他のあらゆる美徳のかなめであるからです(ローマ5・2~5、コリント一、13・3参照)。「どうか、御父がその豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかり立つ者としてくださるように。」(エフェソ3:16、17)このようなパウロの言葉から、クリスチャンは、「キリストと結ばれて」歩み、「心の内にキリストに住んでいただき」、キリストを心に宿す者であることが分かります。そして「喜び平和寛容親切善意誠実柔和節制」と、八つの美徳が挙げられています。

 「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。

  ここでは「洗礼」との関連から、キリスト者が自分の「肉を十字架につけた」ことは、取りも直さず、「キリストと共に十字架につけられた」ことでもあります。パウロがローマ六章で語っているように、「洗礼」こそは人間が神の敵であった「古い人」たる自分にキリストと共に死に、神の子である「新しい人」としての自分によみがえるという出来事なのです。

  霊の導きに従って歩むということは、絶えず自分の自己中心的な思いを、その都度その都度ふっきり、決断して生きることです。それに反して、肉の業というのは、決断しないで生きることです。ここにでてくる姦淫からはじまる泥酔、酒宴のすべては、はっきりと決心して行うというようなことでありません。愛をもって仕えることも、祈りをもって決断しなければできないことです。絶えず祈りつつ、霊の導きに従って前進しましょう。

 

 

 

 

 

 

 

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