富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「恐れるな、主はお前の中におられる」(ゼファニヤ書)

2014-10-19 08:22:57 | 聖書

             ↑ ヨシヤ王時代の周辺諸国の地図

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

           日本キリスト教 富谷教会 週報 

聖霊降臨節第二十主日  2014年10月19日(日)  5時~5時50分 

                    礼   拝    

讃美歌(21)  17(聖なる主の美しさと)

交読詩編     9(わたしは心を尽くして)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ゼファニヤ書3章9~13節

説 教 「恐れるな、主はお前の中におられる  辺見宗邦牧師

賛美歌(21) 579(主を仰ぎ見れば)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

           次週礼拝 10月26日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分

                説教題  「主の神殿を建てよ」 

                 聖 書   ハガイ書1章1~11節

       本日の聖書 ゼファニヤ書3章9~13節

「その後、わたしは諸国の民に、清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え、一つとなって主に仕える。クシュの川の向こうから、わたしを礼拝する者、かつてわたしが散らした民が、わたしのもとに献げ物を携えて来る。その日には、お前はもはや、わたしに背いて行った、いかなる悪事のゆえにも、辱められることはない。そのとき、わたしはお前のうちから、勝ち誇る兵士を追い払う。お前は、再びわが聖なる山で驕り高ぶることはない。わたしはお前の中に苦しめられ、卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避け所とする。イスラエルの残りの者は、不正を行わず、偽りを語らない。その口に、欺く舌は見いだされない。彼らは養われて憩い、彼らを脅かす者はない。」

          本日の説教

 ゼファニヤ書1章1節の表題によると、ゼファニヤは南ユダ王国のヨシヤ王(治世:B.C.640~609年)の時代の預言者です。

   1章1節は次のように記しています。

ユダの王アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼファニヤに臨んだ主の言葉。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒズキヤの子である。」(1:1)

 ゼファニヤ書の時代は、アッシリアの滅亡(B.C.609年首都ニネベ陥落)を預言をしているので、その主都ニネベがまだ存在している時代の預言と思われます。ユダ王国の社会の悪弊を訴えているので、ヨシヤ王の宗教改革(621~622年)の前と考えられ、ヨシヤ王(32年間在位)の時代の初期、すなわち紀元前640~621年の間の預言と思われます。預言者エレミヤ(627~586)やナホム(686~612)と同時期に預言活動を行った人と考えられます。<ゼファニヤ>の名は「ヤーウェ(主)は隠した」または「守った」という意味があります。

 ヨシヤ王の父アモン王(B.C.642~641)と、祖父マナセ(B.C.699~643)は偶像礼拝を積極的に導入したユダ王国史上最悪い王でした。マナセ王は「12歳で王となり、55年間エルサレムで王位にあった」(歴代誌下33:1)とありますが、父のヒゼキヤ王との共同統治を含めると更に長くなります。ゼファニヤは恐らくマナセ王の暗黒時代に生まれと思われます。それは全オリエントを統一したアッシリア帝国の王アシュ―ル・バニパル大王(B.C.668~627)が死んで、周辺諸国に対する圧力が弱まった時代でした。このことはユダ王国にとってアッシリアによる偶像礼拝の強要から脱する好機となりました。

  ゼファニヤ書は、冒頭の表題に続き、1章2節~2章3節まで、中心主題である「主の怒りの日」の告知がなされます。

 わたしは地の面からすべてのものを一掃する、と主は言われる。わたしは、人も獣も取り去り、空の鳥も海の魚も取り去る。神に逆らう者をつまずかせ、人を地の面から絶つ、と主は言われる。わたしは、ユダの上とエルサレムの全住民の上に手を伸ばし、バアルのあらゆる名残とその神官の名声を、祭司たちと共に、この場所から絶つ。屋上で天の万象を拝む者、主を拝み主に誓いを立てながらマルカムにも誓いを立てる者、主に背を向け、主を尋ねず、主を求めようとしない者を絶つ。主なる神の御前に沈黙せよ。主の日は近づいている。」(1:2~7a)

  人間だけではなく、全被造物に対する裁きと滅亡が告げられる預言です。<地の面から>、<一掃する、絶つ>という言葉が繰り返して用いられ、裁きが徹底的であることが強調されています。人間の罪により、被造物全体が罪に染まったので、神の審判は被造物全体にも及ぶことが語られます。裁きの中心は神の民ユダとのエルサレムに対する裁きです。神は、南のユダ王国の人々、また、特に、神殿があるエルサレムに住みながら、他の神々を拝むエルサレムの住民に、御自分の強い手を伸ばして審判を行います。なぜなら、彼らは、偶像であるバアルの「あらゆる名残(なごり)」を、すなわち、カナンの先住民族の神であるバアル礼拝をまだ続けていたからです。また、神は、バアルに仕える神官や祭司といわれる人々を審判を断ちます。また、「天の万象を拝む者」、すなわち、アッシリア人の神々である太陽・月・星の天体礼拝を家の屋上の平らな屋根で行う者たちを審判します。また、<マルカム>にも誓いを立てる者を絶ちます。<マルカム>はアンモン人の神「ミルコム」のことで、天体(特に金星)と関係します。また、イスラエルの真の神に背を向け、イスラエルの真の神を尋ねもせず、求めもせず、心を向けない者たちを審判します。

    ミルコム神の想像図

    【アンモン人の神「ミルコム(<モレク>とも言う)」という神は、牛の顔を持ち、両手を突き出している姿の神で、青銅で作られていました。古代のヨルダン東部に住んでいたアンモン人達からは、豊作や利益を守る神として崇拝されており、彼らはブロンズで「玉座に座ったモレクの像」を造り出し、それを生贄の祭壇として使っており、像の内部には7つの生贄を入れる為の棚も設けられていた。そしてその棚には、供物として捧げられる小麦粉、雉鳩牝羊牝山羊子牛、牡牛、そして人間の新生が入れられ、生きたままの状態で焼き殺したり、新生児はいずれも、王権を継ぐ者の第一子であったとされています。また、生贄の儀式には、シンバルトランペット太鼓による凄まじい音が鳴り響き、これは子供の泣き声をかき消す為のものとされています。そして、突き出した両手の上に、子供を犠牲として献げ、下から火をたいて、モレクにいけにえとする、恐るべき神として知られていました。イスラエルの人々も、この偶像モレクを拝みました。ヨシヤ王の祖父のマナセという王も、実際に、自分の子供をモレクにいけにえとして火で焼いて献げる罪を犯しました。(歴代誌下33:6)】

 ゼファニヤは<主の怒りの日が臨まないうちに、主を求めよ>(2:2~3)と叫びます。

   2章4節~15節は諸国民の滅亡の預言です。ユダ王国の東西南北の周囲の異教民族も、罪ゆえに審判されます。

 ユダの西のペリシテ人、東のモアブ人とアンモン人、南のクシュ人、すなわち、エチオピア人あるいはエジプト人、そして、北のアッシリア人の罪を審判するのです。

  2章4節では、「まことに、ガザは捨てられ アシュケロンは荒れ果てる。アシュドドは真昼にその住民を追われ エクロンは根こそぎにされる。」といわれていますが、これは、イスラエルの西の地中海に面したペリシテ人が裁かれることを意味しています。ガザ、アシュケロン、アシュドド、エクロンは、ペリシテ人の4つの大きな町です。

 2章9節では、「モアブは必ずソドムのように アンモン人はゴモラのようになり とこしえに荒れ果て、雑草の茂る所 塩のくぼ地となる。」とありますが、イスラエルの東、すなわち、ヨルダン川の東のモアブ人とアンモン人が、神に裁かれ、モアブ人の町は、昔のソドムのように滅ぼされ、アンモン人の町は、昔のゴモラのように滅ぼされて、荒れ果て、雑草が茂って、人が住まなくなり、塩を取る地になってしまうという意味です。

 また、2章12節では、「クシュ人よ、お前たちもまた わたしの剣によって刺し殺される。」とありますが、これは、イスラエルの民から見れば、南にいるクシュ、すなわち、アフリカのエチオピア人やエジプト人が、神の剣によって刺し殺されるという言い方です。

 また、2章13節には、「主はまたその手を北に向かって伸ばし アッシリアを滅ぼし、ニネベを荒れ地とし 荒れ野のように干上がらせられる。」とありますが、これは、イスラエルの北のユーフラテス川の下流のアッシリア人の罪を神が裁いて、アッシリア帝国の首都のニネベを荒地とし、干上がらせて、水気のない砂漠のような荒れ野にしてしまうということです。

 イスラエルの民、ユダ王国の周囲の異教民族もは、イスラエルの民を苦しめ続けましたが。また、イスラエルの真の神を信じず、高ぶり、傲慢に嘲り続けました。神は、イスラエルの罪を審判するとともに、イスラエルの周囲の東西南北の異教民族の罪も審判します。ゼファニヤが予告した20年後ほどに、バビロン帝国に攻撃され、これららの諸民族は、滅ぼされ、あるいは、大打撃を与えられました。主なる神は、バビロン帝国を用いて、諸国をも審判されるのです。

  ヨシや王が宗教改革をする前のユダ王国の人々、エルサレムに住む人々の悪を,3章1節~5節で、指摘されます。

  「災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都は。 この都は神の声を聞かず、戒めを受け入れなかった。主に信頼せず、神に近づこうとしなかった。この都の中で、役人たちはほえたける獅子、裁判官たちは夕暮れの狼である。朝になる前に、食らい尽くして何も残さない。 預言者たちは、気まぐれで欺く者/祭司たちは、聖なるものを汚し、律法を破る。主は、都の中にいまして正しく/決して不正を行われない。朝ごとに裁きを与え、それを光とし、誤りをなさることはない。不正を行う者は恥を知らない。」(3:1~5)

  神の声を聞かず、神の律法を守らなかった。、暴力に訴え、うそ偽りは平気でつき、他の人を騙し、裁判官は、わいろをもらって裁判を捻じ曲げ、にせ預言者たちは、神の御心でないことを平気で語り、エルサレム神殿の祭司たちは、神の聖なる律法を破った。不正を行う者は恥を知らず、平気で不正を行っている。明確な断罪のことばがエルサエムに向けられました。 

  3章6節~8節では、諸国の滅びが再び語られます。そして、3章9節から19節では、イスラエルの周囲の異教民族およびイスラエルの回復、救い、祝福が力強く、恵み深く約束されます。

  「その後、わたしは諸国の民に清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え、一つとなって主に仕える。クシュの川の向こうから、わたしを礼拝する者、かつてわたしが散らした民が、わたしのもとに献げ物を携えて来る。その日には、お前はもはやわたしに背いて行った、いかなる悪事のゆえにも、辱められることはない。そのとき、わたしはお前のうちから勝ち誇る兵士を追い払う。お前は、再びわが聖なる山で驕り高ぶることはない。わたしはお前の中に苦しめられ、卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避け所とする。イスラエルの残りの者は、不正を行わず、偽りを語らない。その口に、欺く舌は見いだされない。彼らは養われて憩い、彼らを脅かす者はない。娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。」(3:9~15)

 その後、神は、世界の諸国民の罪を赦し、救い、清い唇を与えてくださるので、周囲の異教民族も、イスラエルの真の神の名を呼んで、ひとつの心となって、真の神を賛美し、礼拝できるようになることが約束されます。その日には「わたしはお前の中に苦しめられ、卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避け所とする」と主は約束されます。残りの民の特徴はへりくだった人々のことであり、神以外に頼る者がいない人たちです。卑しめられた民、イスラエルの民から、神を真実に信じて喜んで生きる残りの者たちが起こされるのです。イスラエルの残りの者たちは「聖なる山」、小高い丘の上に、神殿を再建して、再び、神殿で神を礼拝できるようになります。残りの民は、神のこらしめとしての捕囚の苦しみと卑しめを経験して、へりくだり、謙遜になり、異教の偶像神でなく、イスラエルの真の神である主の御名を避け所として信頼します。

 厳しい神の裁きの言葉で始まったゼファニヤ書は、喜ばしい讃美の言葉を告げることで終わります。

 娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな、力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。」(3:14~17a)

  神に選ばれた残りの民に大きな喜びが与えられ、神の臨在されることが歌われています。「イスラエルの王なる主はお前の中におられる」と。

ナタナエルがイエスに答えて、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(ヨハネ1:49)と答えたように、イスラエルの王である、主イエスがわたしたちの中におられるのです。インマヌエルの神が私たちと共におられるのです。

主なる神の強力な力が世界を支配し、最強の勢力を誇ったアッシリアをさえしのいで存在していることを高らかに宣言しています。

 パウロは、「同じように現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。もしそれが恵みよるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。」(ローマの信徒への手紙11章5~6節)と語っています。恵みによって選ばれ、救われたわたしたちキリスト者は、残りの者です。わたしたちはキリストの十字架の贖いと復活を信じる信仰によって義とされていることを再確認し、「清い唇」を与えられていることに感謝して礼拝をささげ、「残りの者」としての使命感に立ち、与えられる務めを果たし、主に仕えましょう。

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