塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

声を掛け合う事と思い込みの消去

2012-12-22 23:32:56 | 日記
人間誰しも「思い込み」をすることがあります。

 僕は一昨日と昨日2連休で、3日ぶりに出社したのですが昨日勤務の物が伝言を残していました。

 それは僕個人に宛てた物ではなく、今日勤務の人間全員に向けたものでしたが、僕は今日の出社が午後2時から
ということもあり、既にその伝言の内容は

 「終えている」
 
 と思い込んでいたのですが、僕を含めて誰も手付かずだったのか、最後の最後でひどい目に遭いました。

 ですから、ほんの些細な代物でも、お互い声を掛け合い、新入社員心得ではないですが、報告、連絡、そして相談
の必要性を改めて認識しました。

 サッカーでもこうした思い込みが理由で失点してしまえば意味がありません。

 2010年ワールドカップ対オランダ戦、あれだけ優位に試合を進めていたセレソンが1-2で敗れたことが、
その良いサンプルです。

 あの時識者は

 「ドゥンガの代表に、リズムを変えられる選手がいなかったこと」
 「フェリペ・メロの退場劇」

 をセレソン敗退の原因に挙げましたが、確かに2010年のセレソンは堅実性では2006年を超えていましたが、
彼らが本来持つ

 「意外性、即興」

 という面が無い分、対戦相手の分析が容易であることも確かでした。

 しかし1-1の同点に追いついた際はジュリオ・セザルも語っていたように、彼と最終ラインの連携が取れていれば
恐らく防げた失点でしたし、ここでも

 「声掛け」

 言い換えれば「やってくれるに違いない」という思い込みが、動きを贈らせてしまう形になりました。

 サッカーでも実生活でも、声を出すときは出すという意識が必要ですね。
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もしベップがフリーでいたならば

2012-12-22 00:25:06 | 日記
もし2014年の夏、グアルディオラが未契約の状態ならば僕は彼に日本代表監督を打診しても良いと思います。

 僕は以前、2008、2012年の欧州選手権でクロアチア代表監督を務めたビリッチの名を挙げたことがあ
りましたが、それは今も心に残っています。

 グアルディオラ招聘を考えた背景は、冒頭で記したように彼が「フリー」であることが最低条件ですが

 1・日本がスペインと提携していること
 2・グアルディオラの描くサッカーに体格は考慮されないこと
 3・ティキタカと呼ばれるサッカーが、日本人選手とファンの嗜好に合う事

 の3点があります。

 そして何より僕が期待したいのは、グアルディオラの視線の先です。

 「ベップ」がバルセロナで重用された理由のひとつに、クライフの抜擢がありますね。

 クライフが彼に「4番」を背負わせ、戦術の中軸に置いたことでグラルディオラは類稀な資質を開花させました。

 確かにグアルディオラが生え抜きのボージャンをトレードに出し、イブラヒモビッチとウマがあいませんでしたが、
同時にシャビとイニエスタの素質を早くから見抜き、チアゴを始め多くのカンテラ出身の選手を抜擢しています。

 つまりグアルディオラの視線が、僕たち日本人ですら見抜けなかったある選手の才能を、白日の下に晒し

 「ああ、彼にはこんな能力があったのか」
 「見過ごしていて恥ずかしい」

 と思わせてくれる気がするのです。

 日本は1994年にテレ・サンターナを代表監督に指名しようとしましたが、断られています。

 仮に招聘したとしても、彼の描くサッカーと選手の実力が乖離しすぎて上手くはいかなかったと思います。

 僕は現在の日本代表は、ベップの思考とさほど乖離していないと思いますし、時には野心も必要だと思うのですが。
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マルセロ・ビエルサが掲げる方針

2012-12-22 00:14:44 | 日記
 日本サッカーの場合、独占インタビュー、独占掲載という物が好まれます。

 出版社とテレビからすれば、取材した選手と監督の表情と肉声は当社しか扱っていないという自負が、他社との
差別化につまがり、購買層と視聴者の関心を呼ぶことが出来ます。

 その一方でこの

 「独占形態」

 に応じない指揮官もいます。

 それは2010年の秋、日本も招聘に動いたとされるマルセロ・ビエルサがそうで、彼を敬愛するグアルディオラ
もビエルサ同様の形態を取り入れていると聞きました。

 ビエルサは特定の記者と出版社に寄り添うのではなく、

 「自身の会見に希望するメディアは全て参加できる。
  同時に質問には最後まで答え、メディアの間の不均衡を作らない」

 という姿勢で会見に臨んでいます。

 つまり、日本にしばしばみられる

 1・署名原稿ではなくイニシャル・トークの帽子
 2・特定のメディアに情報がリークされてしまう

 という不具合を、ビエルサは全員参加の方式をとることで、囲み取材やぶら下がり記事が紙上をにぎわすことを避け、
自分の真意が正確のメディアから読者に伝わるよう、工夫を凝らしているのです。

 もしこのアルゼンチン人が日本代表指揮官だったなら、日本のメディアはどう判断したでしょうか?

 彼の決断に憤慨し、成績とは程遠い出来事をあげつらい、解任騒動に持ち込んだのか、それとも大歓迎したのか?

 上杉隆氏の著作

 「新聞 テレビはなぜ平気でウソをつくのか」

 と読み終えたばかりなのですが、僕は上杉氏の語る全てが現実に起きているとも思えませんし、更なる推察が必要だ
と思います。

 その一方でファンと選手が常に世界を意識している今、各側も署名原稿を含めより読者と海外の視線を意識する必要
はあると感じます。

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