人間は仏の子だって教えてもらってるけど、でも、格差はあるし、身分の違いみたいなのが、ほんとになくなったわけじゃないじゃない。どこが平等なわけ? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への方法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
心というものは、きれいなガラスの容器に入ったダイヤモンドである――そうしたイメージを持っていなくてはいけません。真ん丸い水晶の玉のなかに入っていると言ってもよいでしょう。
水晶の玉のなかにダイヤモンドがあるならば、水晶の表面をきれいに磨いておかないと、なかにあるダイヤモンドの美しさが見えません。ダイヤモンドそのものは、外から見えようが見えまいが、いつもキラキラと光を放っているわけですが、外側の水晶なりガラスの器なりが曇ってしまうと、外からはダイヤモンドの光が見えなくなってしまうのです。
そのダイヤモンドをキラキラ輝かせるのは、天上界からさしてくる光、仏の光です。それは高級霊からの啓示であったり、インスピレーションであったりします。
そうした光がサーッとさし込み、ガラスや水晶の容器を通り越してはじめて、そのなかにあるダイヤモンドはキラキラと輝き、その値打ちを周りに見せてくれるのです。
昔から、「人間は平等である」という言い方をよくしますが、ほんとうにそのとおりだと思います。ただ、平等であるということにあぐらをかいて、「人間は平等なのだから、どんな生き方をしても、どんな考え方をしても、みんな同じ値打ちがあるのだ」と思ったならば、それはたいへん傲慢なことだと思うのです。
人間が平等だというのは、「だれの心のなかにも、仏からいただいた美しいダイヤモンドがあるのだ」ということを意味しているのです。
ところが、ダイヤモンドを持っていても、ダイヤモンドに光がささなくなったならば、その輝きは見えなくなります。各人はすばらしいものを持っているのですが、それを曇らせているのも各人の心なのです。
美しいダイヤモンドの輝きにも似た、宝石のような心を、仏からいただいているにもかかわらず、二十年、三十年、四十年、五十年、六十年……と生きていくあいだに、それをまるで石炭か何かのようにしてしまったのは、いったいだれでしょう。それを問わなければなりません。
心というものは、美しい宝石として輝く可能性を持っているにもかかわらず、いつのまにか、それが黒ずんだものに見えるようになっていたとしたならば、それはだれのせいでしょう。
そして、自分自身のダイヤモンドが黒ずんでしまい、まるで石炭か何かに見えるようになっている人は、他の人の心のなかにあるダイヤモンドさえも、同じように煤けて黒ずんだものに見えてくるようになります。そのため、世の中が真っ黒に見えてくるのです。
(101~104ページ)
人間は、等しく心のなかに、仏からいただいた美しいダイヤモンド(「仏性」)を持っているからこそ、平等なのである──。
心については、これまで何度も取り上げています(「心って?」「霊と魂と心?」「心ってどこにあるの?」など)。
今日はそれを、別の角度から教えてくださったわけですが、この心のダイヤモンド、仏にいただいたままの姿で美しく輝かせていたいものだと、改めて私は思っているのです。
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『幸福への方法』
大川隆法著 |
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