ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



イエスさまの受難って、人類の罪をあがなってくださったんだよね。イエスさまのこと考えると、救世主を尊崇してる私としても、苦難・困難がやってきて当然じゃないの? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への道標』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間の魂が偉大となるために、人間の魂を光らせるために、仏は時として大きな試練を人間に与えます。そして、その試練のなかを通り過ぎることによって、熱い鉄が打たれ、焼きを入れられるように、魂の足腰が強くなるという事実があります。(中略)
 ただ、客観的には同じ試練がみずからに臨んだとしても、同じような苦しい事件が臨んできたとしても、その人の精神的態度によって、受け止め方が違います。(中略)
 その苦難を自分が求めているような気持ちの人、「艱難辛苦よ、わが身に降りたまえ」と常に願うような心がある人にとっては、それは大きければ大きいほどよいわけですから、客観的な不幸がもっともっと巨大なかたちとなって現れてくることになります。(中略)
 苦難、困難が来ても、「これらは消極的なものである。すなわち、みずからの魂の足腰を鍛え、みずからの素質を伸ばすためにあるのだ。あるいは、これを飛躍台として、よりいっそう素晴らしい世界が展開するのだ」と考えている人にとっては、これはちょうど、サーフィンで乗る波のように見えるでしょう。(中略)
 要するに、自分の偉大な魂が現実と調和できないときに、その現実との乖離を埋め合わせるために、自分が現実に近付いていくのか、それとも、現実を自分の偉大な理想のほうに引き寄せようとするのか、この両者において違いがあるのだと考えてよいと思います。
 自分の理想を屈して、現実に妥協しようとすると、そこに悲劇が生まれますが、理想に現実を近付けようとすると、現実がアメのようにねじ曲がってくることがあるのです。(中略)自分を自虐的にするのではなく、この世的にも大いなる成功を収めんとするときに、必ずそのようになってくるでしょう。
 この世的な成功を罪悪視するなかに、自虐的精神は潜んでいます。「自分がこの世的に成功するということは、仏の意に反することなのだ。幸福になってはいけないのだ。世の中に、苦しんでいる貧しい人が一人でもいるかぎり、自分は幸福になってはいけないのだ」というような思想を持ったときには、必ずその自虐的な思いが自己処罰を呼び込むことになっていきます。
 豊かで穏やかな心を持って、自分をも許すことです。優れた魂は人を許すことはできます。(中略)自分自身を許すことができない部分に、魂の偏狭さがあります。ストイシズムによる狭さがあります。他人を許すのみならず、自分自身をも許してしまうことです。
 それは、自分が偉大な仏の子の一人であるということ、自分も仏の力の一部であるということを信ずることにほかなりません。仏の子である自分が不幸であってよいわけはないのです。(中略)「幸福になるのは、権利ではなく義務でもあるのだ」という観点を、強く強く心に刻んでほしいと思います。
(88~94ページ)

自らに艱難辛苦が降りかかることを願う心がある人には、不幸がもっと巨大なかたちとなって現れてくる。

この世的な成功を罪悪視したり、自虐的精神を持つのでなく、豊かで穏やかな心を持って、他人を許すのみならず、自分自身をも許してしまうこと。

それは、自分が偉大な仏の子の一人であることを信ずることでもある。

仏の子が幸福になるのは、権利ではなく義務でもあるのだ──。

宗教的魂の方の中には、けっこう受難礼賛タイプがおられるように思います。

でも今日は、大川隆法先生の力強いお教えを素直に受けとめたいものです。

そして、「幸福になる義務」というこのお言葉をしっかりと胸に刻みこむこと。

そうすれば、必ずや幸福が訪れてくるのだと私は強く信じているのです。

『幸福への道標』

 大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )