言葉なんてさ、要は音の羅列なんだから、記号みたいなもんでしょ。何が違うのよ? なーんてこと考えてる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
『聖書』には、「初めに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なりき」(ヨハネによる福音書)という有名な一節があります。このように、言葉は非常に大切なものです。
光の指導霊たちが地上に出たときにも、人びとを説得し、揺り動かすのは、結局、言葉です。もちろん、さまざまな現象を見せることもありますが、現象だけで人びとを指導するのではありません。現象はあくまでも人びとを悟りに導くための方便であり、それのみでもって人びとが悟れるわけではないのです。
ところで、なぜ感動というものがあるのでしょうか。光の指導霊たちが説得をしたり、説法、現代流にいえば講演をしたりすると、どうして人びとの心を揺さぶるのでしょうか。どうして人びとの目から涙が流れてくるのでしょうか。このことの本質を知らねばなりません。(中略)
涙というものは悲しいときにだけ出るのではありません。うれしいとき、感動したときにも、涙は出てきます。法を知り、悟りに直面して流れる涙を、「法雨」といいます。
この涙は、人びとの心を清浄にし、六根を清浄にするための役割を果たしています。空から降ってくる雨が、空気中の塵を除き、大気を清浄にし、また、大地を洗い、霧を払うように、感動の法雨というものは、人間のほおを伝うとき、その心の罪を洗い流していきます。すると心から光が出てきます。ダイヤモンドから光が出るがごとく、心から光がほとばしってくるのです。
世の宗教指導者たちは、この法雨を流すためのきっかけを数多くつくっていかねばなりません。文章をもって迫力ある言葉を宣べ伝えることも、もちろん大切ですが、やはり、一人ひとりに対する説法、多くの人に対する説法を通して、その人たちに感動の涙を流していただく必要があるのです。
そうしたときに、世の人びとはこの世ならざるものへ回帰し、また、悟りへの菩提心を想起することができます。(中略)
結局、言葉というものは、どれだけ真理の知識を悟ったかという、その悟りを表わしたものだと言うことができます。これが言葉の本質です。
それゆえに、悟りが深まれば深まるほど、言葉は影響力を持ち、人の心を揺り動かすものとなってくるのです。
悟っていない人の言葉には力がありません。悟っていない人が書いた文章を読んでも胸を打ちません。ところが、同じようなことが書いてあっても、悟った人が書いた文章を読むと、それがひしひしと胸に迫ってきて、熱い思いが込み上げてくることがあります。それは、そこに悟りが表われているからです。
したがって、みずからの悟りを確かめたいと思うならば、「真理にもとづいた迫力ある言葉を語ることができるかどうか」を見てみることです。これでもって試すことができるのです。
悟れば悟るほど、言葉に力が出てきます。言葉に光が出てきます。その証拠としての感動があります。これを修行の一つの目安としてほしいと思います。
(146~150ページ)
悟りを表わしたものが、言葉の本質である。
それゆえ、悟りが深まれば深まるほど、言葉は影響力を持ち、人の心を揺り動かすものとなる。
悟れば悟るほど、言葉に力が出てくる。言葉に光が出てくる。その証拠としての感動がある──。
言葉とは、単なる音の羅列ではないし、ましてや単なる記号ではない。
その発する人の悟りが現われてくる、とてもとても大切なものなんだって。
仏が発された言葉は、そこに仏の悟りが表わされている。
神が発された言葉は、そこに神の悟りが表わされている。
だからこそ、「言葉は神なりき」であるのだと私は理解しているのです。
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『永遠の法』
大川隆法著 |
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