「滝」の俳句~私の心に見えたもの

220728 佐々木博子(「滝」瀬音集・渓流集・瀑声集 推薦作品より)

塩壺のかすかな湿り三月来 成田一子

2019-03-09 06:28:51 | 日記
 東日本大震災のあった三月が来る。十一日が来る。犠牲になられた沢山の方への想いが空気を湿らせ、塩壺にも及ぶ。そんな風に読みながら、三月という季語の本意に戻らなければ、と思う。
「三月の声のかかりし明るさよ 富安風生」
本来はこんな風に、明るさを伴って三月は来る。卒業、就職、転勤などの別れの涙はあるが、拭って新しいことが始まる高揚感が春の入り口としての三月のはずだ。もうすぐ桜も咲くなあと楽し気な気分にも繋がってくるが、「塩壺のかすかな湿り」と言う日常からの気づきのフレーズに「変化」を託したとすれば、三月は鎮魂の月になった。と、私の思考は戻ってしまう。塩が海水から作られる物だからだろうか。巨大津波と化した海がどうしても思われてしまう。
一子主宰が三月号の「虚実淙淙」に震災詠のことを書いている。東日本大震災の大惨事を「なぜ詠めなかったのか。詠まなかったのか。」その自問は未だに続き、苦悩も続いているようだ。壮絶な体験が感受性の強さ故、心身のダメージが大きかったのだろう。私もあの日のことを思い出すと身がすくむが、家族が無事だったこともあり、大変の中にも安堵があったが、次の日、太陽光パネルから取った電源で主人が情報を得るために映したテレビの映像に言葉を失った。これほどまでの惨事は想像すらしていなかった。昼食用にと石油ストーブで卵の入らないホットケーキを焼く甘い匂いの中で涙が止まらなかった。今も、こう書きながら胸が詰まり泣いてしまう。合掌。(博子)