しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

豊臣秀吉公

2024年03月25日 | 銅像の人

場所・大阪府大阪市中央区大阪城「大坂城公園」大阪城豊國神社

 

太閤秀吉は、その前半部分は極めて魅力的な人物として知られ、
天下取りの後は、
下り坂を転げるように落ちて、そして死んだ。
大人物であることは論を待たないが、
信長と家康に比べると一段落ちるように感じられる。

 

 

 

    「歴史読本」 ’81-9号 新人物往来社

秀吉天下人の条件 山本七平


  近代における「日本の治」を完成させた秀吉

 

簡単にいえば秀吉の行き方は天下の人びとを、あらゆる意味において「安堵させる」ことであった。
そしてそれが天皇、公卿、大名、武士、農民等々、すべての人の階級を超えた潜在的欲望であったがゆえに、
順風満帆のような形で 「天下人」となることができた。

しかし、彼には信長のような独創性があったわけでなくその政策は基本的には信長のそれであった。
ただ、彼は信長の独創的な人間にありがちな独善的な面が、その独創性の現実への施政の面で大きなマイナスとなっていることを見抜いていた。
ここにその成功の原因があったであろう。
ただ、秀吉はそれらを経験則で学んだだけである。
いわば「世間という広大な書物」から実地に即して読みとったわけで、
その「世間」が存在しない別の世界では「秀吉方式」はまったく無効であった。
彼は明らかに朝鮮と日本との区別がつかず、
朝鮮出兵島津征伐と同じように考え、相手を圧倒した上で「本領安堵」をしてやれば、朝鮮が自分の味方となって、
その御恩返しに対明国戦の先鋒をつとめてくれるに違いないと信じていた。

ここにその限界があったであろう。
しかし、いずれにせよ、近代における統一された日本すなわち「日本の治」を完成したのは彼であり、
家康はそれ を継承したにすぎない。
その方式は現代にも通ずる面があり、その点で彼は、あらゆる面から研究されてよい人物であり、
常に一種の人気 があるのも不思議ではない。

 

 

 

 

 

撮影日・2024.3.23

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京セラドーム大阪で、人生初のドーム野球観戦した

2024年03月24日 | 令和元年~

場所・大阪市「京セラドーム大阪」
日時・2024.3.23 午後2:00試合開始
試合・プロ野球オープン戦阪神タイガーズvsオリックス・バファローズ


ドーム球場の前を歩いたことは、福岡・東京・札幌の3球場経験あるが、
残念ながらゲートの前でおしまい。

昨日は生まれて初めて、ドームに入り野球観戦をした。

 

 


さすがに、
たまに行く広島ズームズームスタジアムや倉敷マスカットスタジアムとは規模が違いすぎた。
球場規模が違うのと、
空が閉ざされ、閉じられた空間の中に選手や観客がいて興奮度が高まった。

 

 


応援は外野の応援席のみ、旗や太鼓が鳴らされたが、
その席以外は声援や拍手やカンフーバットを叩いての応援で、
両チームファンとも節度のとれた感じのいい応援だった。

 

 

 

 


食ものは「いてまえドッグ」を食べた。
名物にもかかわらず、おいしかった。

 

 

試合は、
前年度の優勝チームの対決であり、
関西どうしの対決であり、
開幕間近の対決であり、
緊迫したゲームとなった。

公式戦並みの緊張感の迫力あるプレーを見ることが出来た。

試合結果・阪神5:オリックス2 勝投手・大竹 負投手・カスティーヨ
観客数・35.224人

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新小田川が完成

2024年03月24日 | 令和元年~

場所・岡山県倉敷市船穂町柳井原
工事名・小田川と高梁川の合流点付け替え事業
完成日・2024.3.23

 

(柳井原貯水池と山陽新幹線)

 

(柳井原貯水池と山陽自動車道)

 


「2018西日本豪雨」で河川の堤防が決壊し、多大な被害が発生した高梁川支流の小田川は、
高梁川への合流地点を川辺から水江に変更した。
その完成式が昨日(2024.3.23)真備町であった。

 

今回完成した新しい小田川は、
大正時代までは「西高梁川」と呼ばれ大河だった。
昭和・平成は、川でなく「柳井原貯水池」だった。
令和6年、再び川に戻り、「小田川」となった。

 

撮影日・2018.5.25
地名・「柳井原貯水池」

 

 

【山陽新聞記事】

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イチゴ

2024年03月21日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

昭和44年を最後に、父母は「米作り」を止めた。
農家であるが、
米を買って食べるようになった。


その大きな背景に、
①米の過剰や政府の減反政策(昭和47年開始)。
②作業の機械化(田植え・稲刈り)で設備投資が必要。
茂平は果物が盛んだが、稲作は自給用で小規模だった。


稲作を止めた田んぼは、イチゴやイチジクに転換した。
昭和50年代、茂平のイチゴは全盛期を迎えた。

 

 

(父の話)

昔からいちごは植えていた。が路地ものであった。

ハウスで栽培してから金になりだした。
今でも茂平のイチゴ栽培は多いが一時ほどではない。

作るのに手間がかかりすぎる。
よそでも栽培が増えた。
茂平のが甘い、うまいといっても見た目が同じなら安い方を買う。
のが原因だろう。

2000年05月28日

・・

いちごは、農協がすすめた。
パイプ、ビニール農協が金をはろうてくれる。
こんだぁ、毎年金が農協にはいる。農協が取り替えてそれで払おてくれた。

今は、一時に比べ半分くらいになった。(茂平のいちごは)
手間がかかる。骨が折れる。
昔ほどじゃあねぃが(良い農薬が出来たので)、ダニがくる、うどん粉がくる。病気がくる。
いちじくのほうがらくじゃ、ダニだけじゃけい。
ハウスでも、イチジクのハウスのほうがよい。。ボニにだす。

2000・12・17

・・

12月からだして4月くれいまでだしょうた。
春がすんで、こんどは苗をつくるようになる。

根から芽がつるがでたのを、切って植える。
ええめから、ええめから苺をだしたほうがえかった。
古いのはうがしょうた。残ぇても実はなるけど。

秋に植えて、せいから正月に出すようにする。
ハウスにストーブや電気をつけえて。

温度調節
花をええようにして、花をまびぃてやる。

ハウスによって季節を分けょうた。みないっしょに手入れができんけぃのう。
早ぅ花をさかせるんと、遅うさかせるんとに分けて。思うように(実がなる時期を)しょうた。

2001・2・11

「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
イチゴ
江戸末期、長崎に伝えられた。
「福羽」が明治32年生まれ以後、70年間作り続けられる。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大豆を作る

2024年03月21日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

祖父の言うことは同じ言葉(せりふ)が多かった。
その代表的なことばは、

「豆で貧乏しますように」

いつも、そのあとに、
「人間は金(かね)を持つよりも、マメなのがいちばん好い」

祖父は、そのことを実践した。
お金はほどほど、身体は豆(マメ)で、笠岡市二番目の長寿で亡くなった。


大豆は食べるにも、人生訓にも大切なようだ。

 

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

どこの家でも大豆は田植え後の田の畦に播いた。
こうしておくと陰になり草が生えなかった。 
稲刈り時分に収穫して、乾燥保存し、味噌や醤の原料に、そして煎っておやつにもした。

 

「岡山たべもの歳時記」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 平成10年発行


大豆の用途

大豆は、骨のない肉といわれ、重要な蛋白源である。
炒り豆、枝豆、黄な粉、ウチゴ(ウチゴドウフ、キドウフ)、ゴジル(呉汁)、大豆飯、豆腐、おから、油揚げ、味噌、醤油、なっとう(納豆)、豆もやし、大豆油、人工肉、ゆば、がんもどき、煮豆など用途は広い。

 

「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行


エダマメ(枝豆)

夏の味、エダマメは7~9月頃までが旬。
早生種はエダマメとして夏場に収穫し、
秋までかかる晩生種は主に大豆として出荷されます。

「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行

大豆は、主として味噌、醤油に使用される。
大豆加工品の豆腐や油揚げは各行事には必ず用いられ、日常でもかなり利用されている。
豆腐を自分の家でつくっているところもあるが、高根には豆腐屋が二軒あり、ほとんどの家で豆腐や油揚げは買って食べている。
焼き豆腐は、豆腐を買ってきて自分の家で焼く。
きな粉は、どこの家でも自家製で、大豆を炒って、石臼でひいてつくり、だんごなどにまぶして食べる。
また、大豆を粗くひき割りにしておいて、野菜類と一緒に煮たり、江田島には大豆を煮てうどん汁にして食べる習 慣もある。 
おからは安く手に入るのでおかずによく利用しており、蒲刈島のようにごはんに混ぜてすしをつくるところもある。

 


「日本の風土食探訪」  市川健夫  白水社  2003年発行

大豆

大豆は豆腐・湯葉・納豆・味噌・醤油など様々な加工食品の原料になっている。
納豆は「水戸納豆」に代表されるように東日本や、また九州でよく食べられている。 
かつて納豆づくりは、煮た大豆を藁苞で包んで、稲藁の中にある菌を使い、室の中で発酵させる方法 をとっていた。
納豆は関東などでは朝食によく出されるが、その独特の粘りと匂いは大変好評である。
しかし、関 西人には敬遠されている。
また日本を訪れる外国人の多くが苦手とする食品の一つが納豆である。

 



「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行


大豆

製油用、豆腐、納豆、醤油
大豆は1970年代までは畑作が主流だったが、以降は水田での栽培が増えた。
現在は水田作が8割を占める。
国内自給率は6%。
輸入大豆は製油用、国産大豆は豆腐や納豆に使われる。

「食糧争奪」 柴田明夫 日本経済新聞社 2007年発行


大豆市場

1990年代後半以降、世界の大豆市場では、供給国としての米国、ブラジルと
需要国としての中国、日本、EU(欧 州連合)という単純な構図を強めてきた。

これは言い換えれば、世界の大豆需給が特定の国の需給動向に大きく左右される、脆弱な構造になっているともいえる。
こうしたなか、懸念されるのは中国を中心に急拡大する世界の大豆需要をまかなっていたブラジルの増産に、限界がみられるようになったことだ。
また、国内需要が旺盛な米国も、将来的には信頼できる大豆供給国とはいえない。
日本の大豆市場は、巨大な供給国と需要国の狭間にあって予想外の変動の波をかぶる可能性も高まっている。

米国の生産が37%、ブラジルが26%、アルゼンチンが18%となっている。
この三カ国の生産シェアは80%を超える。
南米二国を合わせると生産シェアは米国を大きく上回る。



 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「福山古墳ロードA」を歩く

2024年03月20日 | 【史跡】を訪ねる

場所・広島県福山市駅家町
日時・2024年3月19日

 

人柱・お糸さんの伝説でも有名な、駅家の「服部大池」。

 


その大池の駐車場からスタートして「福山古墳ロードA」を歩いた。

 

最初に、「熊野神社」。
この神社社殿は横穴式古墳の巨石の上に鎮座している。
古墳名は、「権現古墳」。

 

 

次に本日の主目的である、国史跡「二子塚(ふたごづか)古墳」。
長さ73m、幅68m、高さ41m、周溝ありの前方後円墳。

 

 

吉備王国の古墳だが、古代吉備国は現在広島県と岡山県に分かれ、
そのためか、王国の研究までも両県共同を感じないのが残念。

 

 

 

最明寺にある、「最明寺板碑 (さいみょうじいたび)」。

高さは約1.8m、幅は75cm、厚さは約10cm。
室町時代の板碑。

 

 

春の天気はおだやかで、古墳めぐりが楽しめた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お茶を作る・お茶を飲む

2024年03月20日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

水落に茶畑があった。
そこから茶を摘んで帰り、蒸したり、干したりしてお茶にしていた。
金のヤカンから(茶飲みでなく、ご飯の)お椀に注いで飲んでいた。

村の寄合など、よその人が来る時は購入した茶葉を使っていた。
その時は急須を使い、炭も購入したカタズミを使っていた。

 

 

(父の話)

茶畑

何処のウチもそうじゃがお茶は植えとった。
ありょう、ちょっと熟むして干すとエエ番茶になりょうた。
昔はみんな、そうしょうた。
 
2000・5・14

「岡山ふだんの食事」  鶴藤鹿忠  岡山文庫  平成12年発行

江戸時代末期に国民的飲料になった。
畑の畔とか岸などに、チャの木を何本か植えておく。
春には新芽を摘み、冬の12月には軸から刈り取って,葉とともに刻み、蒸して干す。

 

「鴨方町史」

たいていの家では、畑のギシなどに茶樹を植えており、自給する。


「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」 岡山県  昭和58年発行


畑の(キシ)などに、茶の木を何本か植えておいて、春には新芽を摘む。
冬十二月には軸から刈り取り、 茶葉とともに刻み、平釜で蒸して(炒って)干す。


「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行



五月二十日ごろから摘みはじめ、摘んだ日の夕方には茶に仕あげる。
葉は湯通しをして固くしぼり、むしろの上で手もみをする。
丸めこむように ていねいにもむ。
これをむしろに広げ、荒熱がとれるていどに天日で乾かし、平釜で煮る。
これを二、三回 くり返し、最後にほいろに入れてほうじる。 
ほいろは木枠に渋紙を張ってつくり、火鉢の上につるして使う。
ふだん飲む番茶は、生葉をそのまま平釜で煎り、しんなりしたらもみ、さらに平釜で煎る。
途中もろぶた (浅い木箱)にとりながら、からからになるまで煎りあげる。

茶の木
茶の木はどこの家でも四、五本、畑のけし (境)に植えてある。 
初夏から夏にかけて、大きな厚い葉をむしって、 大釜に湯をたぎらしたところへ入れ、一回ひっくり返したら打ち上げ、陰干しにする。
よく乾いたら袋に入れてとっておき、少しずつほうろくで煎ってほうじ茶にして使う。



新茶は、五月下旬から摘みはじめる。 手先は、茶渋などでまっ黒くなる。
お茶の製法は家によって少しずつ異なる。
一般的には新芽をじかに厚なべで空煎りし、葉がしんなりしたら、茶むしろでもむ。
冷めたらまた空煎りしてもむ。これを三回くらいくり返し、日陰に広げて乾燥させる。
別の方法として、最初だけは新芽を蒸したりゆでたりし て、固くしぼってもみはじめる家もある。
ほどよく乾燥したら、焦がさないように、弱火で白い粉が吹くまでに気長に火を当ててから、缶に入れて保存しておく。
お仏飯と一緒に仏さまに毎日供えるお茶湯は、この新茶でつくる。

「江戸の食生活」 原田信男 岩波書店 2003年発行

江戸の茶
日本における茶の歴史は、酒に較べればかなり新しいものであるが、すでに奈良時代から茶と呼ばれるものが飲まれ、平安時代には畿内でも茶の栽培が行われていた。
しかし民間には普及せず、 鎌倉期になって禅僧が中国から移入したことで喫茶の風が広まった。

その後、民間にも普及していき、近世以前においても茶はかなり楽しまれていた。
嗜好品といっても、茶は酒やタバコに較べれば刺激性が弱いことから、比較的自由にのまれてはいたが、それでも近世社会に規制がまったくないわけではなかった。
法令として茶を禁じたものはないが、いわゆる“慶安の御触書”に「酒・茶を買のみ申間敷候、妻子同前之事」とあり、
支配者側からする農民の理想的な姿を示した百姓身持書で、
支配者側は農民が茶を楽しむことを好ましく思わず、贅沢で怠惰なイメージをもっていたことがわかる。

特に農民の女性の飲茶に関しては、一般通念としては否定的で、茶が農村に広まりつつはあったが、まだ 日常茶飯事にまでは至っていなかったことがうかがわれる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なすび

2024年03月19日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

夏休み時期を代表する野菜だった。

夏休みの朝は、
両親は果物の収穫で畑に行って留守だった。
たいてい冷えた味噌汁をご飯にかけた「汁かけ」を毎朝食べていた。
汁かけで足らない時は、さえんからナスビを取ってきて、塩もみににしておかずにしていた。
ナスビの塩もみは、子どもでも簡単にでき、出来あがるまで1分。
便利な野菜だった。

 

(父の話)

なすび

たいがい自家用としてつくりょうた。
だいしょう早く出せば金になりょうた。温室で早ぅ出して売ったこともある。じゃけどあれも肥をぼっこうせんとええのができんのじゃ。
朝、農協へもっていくにも手間がかかるし、重たぁばぁ。えっと銭にもららなんだ、それで止めた。

2002.8.5

父がナスビを商品として温室栽培をしていたのは、たぶん昭和50年頃と思われる。
稲作を止め、田んぼはトウガキ畑やイチゴ畑に変わっていった。その当時と思える。

 

「日本の伝統野菜」宮崎書店 板木弘明 2015年発行


なす

いろいろな形のなすが全国にあります
8世紀に日本に やってきました。
江戸時代にはすでに多くの品種があったようです。
漬けもの、煮もの、 焼きなすなどで食べるほか、
お盆の時期にはなすで作った馬を使い、霊の迎え送りをする風習も残っており、
いろいろな行事にも利用されてきた重要な野菜です。
さいばい
古くから栽培されているため、長卵形なす、長なす、大長なす、ボールのような丸なすなど、
いろいろな形のなすがあります。


「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行

味が濃い丸茄子
丸茄子はかつて全国的に栽培されていた。
東京都下でも大正初期までつくられていた。
しかし丸茄子は晩成種で収穫期が短く生産量が少ないため、大量生産が不可欠な現代社会では敬遠されて、秋田・山形・福島・新潟・長野・京都などの府県に限られている。

 


「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行

ナス(茄子)
江戸時代の『農業全書』に「紫・白・青の三色あり、また長きあり丸きあり」と記述されているように、日本でも昔から多くの品種が栽培されていたようです。
漬物、蒸しもの、煮物、炒め物と幅広く使える野菜。
油との相性がよい。


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
茄子
ナスともいうが、ナスビと呼ぶことが多い。
平安時代すでに栽培されていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トコロテンを作る

2024年03月19日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

夏休み、大潮の干潮のとき、
茂平の苫無(とまんし)の磯でテングサを採って遊ぶことがあった。

家に持って帰り釜で焚いた。
海草がドロドロに溶けるまで炊く。
溶けても、さらに炊く。
時は真夏。
汗びっしょり。

しかし、このあとに楽しみが待っている。
アルミの弁当箱に移し注いで、待つこと1時間くらいか?
トコロテンが固まってくる。
これが楽しい!

固まりがおわると、食べる。
トコロテンは温い。
暑い夏に、熱いトコロテンは美味くない。

子供が食べ残したトコロテンは、
夕食(バンメシ)に父や祖父が「うまい、うまい」といって食べる。
夕食の頃には、トコロテンは冷えてはいないが、
時間が経っていて温くはなかった。

子どもにとって、(管理人にとっては)
トコロテンは固まるのが面白い子どもの遊びだった。

 



●ところてん
てんぐさは、夏の暑い日でもよく固まるから、羊かんのように切って井戸水で冷やしておき、ところてん突きで油をかけて食べると、暑さも忘れて元気が出てくるからしを添えたり、炒りごまをふりかけるとい っそう食欲をそそる。
約一〇のてんぐさを水で洗ってしぼり、なべに入れ る。
 一升酢さかずき一杯をなべに入れて火にかけ、煮たってきたら弱火にして、はしで上げてみてどろっとしてくるまで、一五分くらい煮る。
少し目の粗い布袋に入流して固める。


「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イチジク

2024年03月18日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

茂平のイチジクには他所にない特徴があった。
二種類のイチジクを栽培していた。

江戸時代に中国からはいった赤トーガキ。(東洋)
明治時代に欧州からはいった白トーガキ。(西洋)

赤トーガキは、生食で出荷。
白トーガキは、干しイチジクに加工して出荷。

白トウガキは糖分が多くつまみ食いをするには、こっちのほうが美味しかった。
が、白い汁がきつく秋になるとよく口が切れていた。

(父の話)


白トウガキは何処の家もうえていたのではない。
赤トウガキに比べると土壌に向き、不向きがあった。
つくるのは赤トウガキよりいたしいくらいじゃ。
水もいるし、新涯みたいなとこでないと採れなんだ。

夏から採って始めていたが、珍しいといって大阪から大学の先生が見にきていた。
秋になると山陽新聞が記事の取材にきていた。

2000年08月01日

(父の話)

イチジク

これの寿命は長い。えださえ切ってやっとればいつまでも大丈夫だ。
茂平のイチジクは色も違う、味も違う。

新涯が主でちょっとだけ塩分を含んだ土地なんで、糖度がよそのより良い。

2000・5・14


栽培方法?何も今と変わっていない。

予防の薬が良うなった。
薬がかわっただけじゃ。
2000・9・10


いちじくはなんもせんでええ。ほっぽりなげじゃ。
冬の選定、(ありすぎる)葉っぱを落とす。予防する(桃などにくらべ回数がすくない)。あとはほっとく。

楽でゼニになる。
2001・2・11


冬に剪定をして。

肥をして。
肥は昔神戸から人糞をもってきょうた。あれはえかったのう。
冬はよう「くそ船」がきょうた。
新涯の畑の肥壺へはねうつしょうた。その中へ潮水をちょぼっと入りょうた。潮水を入れるとカリがあってええ。
エエ肥になるんじゃ。

春は畑の草取り。

夏に予防して。

芽を間引いて。「めこぎ」。

(実が)成るようになったら水をやる。

秋に出荷。

金になる、相場がええ。

2002年6月23日

 

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

イチジク


笠岡市茂平は産地で干イチジクにして出荷している。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする