クジラ肉は、肉屋でなく魚屋の商品。
茂平には西浜(ようすな)の”しょうやん”がごつい自転車の荷台に積んで、売って歩いた。
しょうやんは魚の行商なので、木箱に氷をいれ、その中に魚を置いていた。
だが、しょうやんの持ってくる半分は、魚でなくクジラ肉だった。
その理由は、魚よりもクジラ肉が安いこと。
自給自足の農村の家計では、お金を出して食べ物を買うことは、どの家も最小限にしていた。
クジラ肉はしわかった。食べものというより噛むものと思う程だった。
小学校の4年生頃になって、「完全給食」というのが始まった。
この給食にもまた、クジラ肉がよく出た。
二度に一度くらい出た。
後年になって、それは”くじらの竜田揚げ”という料理であると知った。
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昭和30年代はクジラの全盛期であったように思う。
野球は大洋ホエールズの「大洋漁業」。
赤胴鈴之助のラジオ東京の提供は「日本水産」。
子どものあこがれ職業はキャッチャーボートで鯨を射つ人。
捕鯨が、そんな時代だった。
(和歌山県大地町 2013.6.5)
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「日本の風土食探訪」 市川健夫 白水社 2003年発行
北極海の捕鯨は、乱獲によって一八世紀後半には衰退していく。
ヨーロッパの捕鯨技術が、18世紀に大西洋、19世紀には太平洋に伝えられて、大規模な捕鯨が行なわれた。
太平洋にはアメリカから700隻、
英・仏・独などから900隻が出漁し、大量の鯨をとった。
その結果、太平洋の鯨が減少し、19世紀日本の沿岸捕鯨は不漁が続き、後述するように鯨組の多くが姿を消していった。
東京都の小笠原諸島は、文禄12年(1603)に、信州松本の城主小笠原貞頼によって発見されたというが、長い間無人島であった。
その後、捕鯨にやってきた欧米人が島に漂着して住むようにな った。
嘉永6年(1853)、東インド艦隊司令官M・C・ペリーが小笠原諸島父島に上陸してアメリカの領土であると主張したことから、
日・米・英三国の間で領土紛争が起きた。
日本へ小笠原諸島 の帰属が決定されるのは明治13年(1880)、欧米系の島民が日本に帰化したのが明治15年であった。
現在、欧米系島民は300人いるというが、その先祖の多くは捕鯨関係者であった。
ペリーは国交の樹立や開国ばかりでなく、捕鯨漁船の避難港、食糧の補給などの懸案解決のために、黒船で日本にやってきたのである。
そのころアメリカ捕鯨は鯨資源の枯渇に悩んでいたが、1861年、ペンシルベニア州の石油が発見されたために、
灯油のための捕鯨は不要になった。
「日本の風土食探訪」 市川健夫 白水社 2003年発行
多彩な日本の鯨文化
これまで帆船では捕獲できなかったナガスクジラに対して高速の汽船とロープを付けた捕鯨砲を打ちこむノルウェー式捕鯨が始められ、主要漁場は南極海に移った。
1920年代から母船式捕鯨が行なわれた。
日本も昭和9年(1934)から母船式で南極海に進出した。
第二次大戦で中断した南極捕鯨は、GHQの指導で昭和21年に再開された。
翌年には20万トンをこえる鯨肉が水揚げされ、動物性蛋白質源の47パーセントを占めるに至った。
鯨肉は学校給食にも登場し、
国民全体から親しまれていた。
昭和35年には日本は世界一の捕鯨国になった。
しかし昭和57年、国際捕鯨委員会は、商業的捕鯨の全面的禁止を決め、
昭和60年から南極海の遠洋捕鯨、昭和61年から沿岸捕鯨が中止された。
欧米諸国の捕鯨の主目的は、マーガリンやグリセリンなどの素材になる鯨油を得ることである。
またマッコウクジラの脳油からは、人工衛星用の潤滑油がつくられている。
ところが、日本では肉・ 骨・皮・内臓・髭なども利用されるので、欧米諸国に比べて捕鯨の収益が多い。
ノルウェーを除く 米諸国ではあまり鯨肉を食べないので、動物愛護という観点からのみならず、経済的にも禁漁に踏みきることができた。
(長崎県生月島 2012.5.11)
平戸島の生月町(長崎県北松浦郡)にある町立博物館には捕鯨資料の展示がなされている。
和歌山県東牟婁郡太地町は、慶長5年(1600)、「刺し手組」と呼ばれる捕鯨を目的とする組織が日本で最も早くつくられ、
網を使った囲い込み漁がなされていた。
宮城県牡鹿郡牡鹿町鮎川浜も近海捕鯨の基地として知られている。
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