岡山県史・近代Ⅱ 昭和62年 岡山県発行より転記
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背景
1918年(大正7)7月から9月まで全国規模で起こった、歴史的な民衆運動であった。
43道府県で発生し、参加者は延べ数百万といわれ、軍隊の出勤70ヶ所にも及んだ。
1917年のロシア革命、
中国に対する21ヶ条要求に反対する中国ナショナリズムの日本への影響。
米騒動に続き、
ドイツ革命
朝鮮の独立蜂起、中国の5.4運動などに表れていた。
米騒動は一連の民衆運動の「世界史的環境」の中で発生をみたのである。
発端
富山県の局地的な民衆行動、
名古屋・大阪・神戸など騒動の全国化、
宇部炭鉱暴動に始まり、筑豊なで炭鉱労働者を中心とした騒動の三期に区分される。
岡山県では1918年8月8日、山陽新報が「米高から女房一揆」の見出しで真庭郡落合町で騒動が始まり、津山など美作に広がり、南に下って岡山市・倉敷町など県南一帯に及んだ。
岡山市の13日の騒動は「凄惨を極め」(山陽新報)、無警察状態ともいえる状況がつづいた。ついに師団に軍隊の出勤を要請、「市民の夜間外出を絶対に禁止」し、夕刻全市は戒厳状態となり、警官、歩兵54連隊、騎兵連隊、憲兵分隊が出勤し警戒に当たった。
県警部長は、各新聞社に対し「当分の間、米騒動に関する記事一切を掲載せざる要望」をした。以後米騒動に関する報道の自由を失った。
8月14日まで後月郡井原町、小田郡笠岡町、
笠岡町では「群衆150名が某家に押寄せ、門戸を乱打して開かしめ、店内乱入。更に某肥料商の店内に乱入」した
8月21日まで小田郡吉田村・神島内村・神島外村まで及んだ。
神島では「両村煙害地被害民」が、大挙して工場長・副工場長宅を襲撃せんと、夜9時日光寺の梵鐘を乱打し、群衆二千人がこれに加わり喧噪となった。
被差別の民衆
米騒動に被差別の民衆が大きな役割を果たしたことは、全国的に指摘されている。
岡山県下の米騒動は、その後の労働・農民・水平その他の住民運動、無産運動、普選運動など県下の社会運動に大きな影響を与えた。
いずれにしても、米騒動という未曽有の住民運動に直面し、国民の蜂起を軍隊によって鎮圧するという失政のかぎりを演じ、新聞の総攻撃を受けて大正7年(1918)9月21日、寺内内閣は総辞職する。政友会の原敬が後継首相に指名され、最初の政党内閣が誕生した。
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背景
1918年(大正7)7月から9月まで全国規模で起こった、歴史的な民衆運動であった。
43道府県で発生し、参加者は延べ数百万といわれ、軍隊の出勤70ヶ所にも及んだ。
1917年のロシア革命、
中国に対する21ヶ条要求に反対する中国ナショナリズムの日本への影響。
米騒動に続き、
ドイツ革命
朝鮮の独立蜂起、中国の5.4運動などに表れていた。
米騒動は一連の民衆運動の「世界史的環境」の中で発生をみたのである。
発端
富山県の局地的な民衆行動、
名古屋・大阪・神戸など騒動の全国化、
宇部炭鉱暴動に始まり、筑豊なで炭鉱労働者を中心とした騒動の三期に区分される。
岡山県では1918年8月8日、山陽新報が「米高から女房一揆」の見出しで真庭郡落合町で騒動が始まり、津山など美作に広がり、南に下って岡山市・倉敷町など県南一帯に及んだ。
岡山市の13日の騒動は「凄惨を極め」(山陽新報)、無警察状態ともいえる状況がつづいた。ついに師団に軍隊の出勤を要請、「市民の夜間外出を絶対に禁止」し、夕刻全市は戒厳状態となり、警官、歩兵54連隊、騎兵連隊、憲兵分隊が出勤し警戒に当たった。
県警部長は、各新聞社に対し「当分の間、米騒動に関する記事一切を掲載せざる要望」をした。以後米騒動に関する報道の自由を失った。
8月14日まで後月郡井原町、小田郡笠岡町、
笠岡町では「群衆150名が某家に押寄せ、門戸を乱打して開かしめ、店内乱入。更に某肥料商の店内に乱入」した
8月21日まで小田郡吉田村・神島内村・神島外村まで及んだ。
神島では「両村煙害地被害民」が、大挙して工場長・副工場長宅を襲撃せんと、夜9時日光寺の梵鐘を乱打し、群衆二千人がこれに加わり喧噪となった。
被差別の民衆
米騒動に被差別の民衆が大きな役割を果たしたことは、全国的に指摘されている。
岡山県下の米騒動は、その後の労働・農民・水平その他の住民運動、無産運動、普選運動など県下の社会運動に大きな影響を与えた。
いずれにしても、米騒動という未曽有の住民運動に直面し、国民の蜂起を軍隊によって鎮圧するという失政のかぎりを演じ、新聞の総攻撃を受けて大正7年(1918)9月21日、寺内内閣は総辞職する。政友会の原敬が後継首相に指名され、最初の政党内閣が誕生した。