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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

陽明丸とシベリア出兵⑤米騒動

2019年06月11日 | 大正
岡山県史・近代Ⅱ 昭和62年 岡山県発行より転記

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背景
1918年(大正7)7月から9月まで全国規模で起こった、歴史的な民衆運動であった。
43道府県で発生し、参加者は延べ数百万といわれ、軍隊の出勤70ヶ所にも及んだ。
1917年のロシア革命、
中国に対する21ヶ条要求に反対する中国ナショナリズムの日本への影響。
米騒動に続き、
ドイツ革命
朝鮮の独立蜂起、中国の5.4運動などに表れていた。
米騒動は一連の民衆運動の「世界史的環境」の中で発生をみたのである。

発端
富山県の局地的な民衆行動、
名古屋・大阪・神戸など騒動の全国化、
宇部炭鉱暴動に始まり、筑豊なで炭鉱労働者を中心とした騒動の三期に区分される。

岡山県では1918年8月8日、山陽新報が「米高から女房一揆」の見出しで真庭郡落合町で騒動が始まり、津山など美作に広がり、南に下って岡山市・倉敷町など県南一帯に及んだ。
岡山市の13日の騒動は「凄惨を極め」(山陽新報)、無警察状態ともいえる状況がつづいた。ついに師団に軍隊の出勤を要請、「市民の夜間外出を絶対に禁止」し、夕刻全市は戒厳状態となり、警官、歩兵54連隊、騎兵連隊、憲兵分隊が出勤し警戒に当たった。
県警部長は、各新聞社に対し「当分の間、米騒動に関する記事一切を掲載せざる要望」をした。以後米騒動に関する報道の自由を失った。

8月14日まで後月郡井原町、小田郡笠岡町、
笠岡町では「群衆150名が某家に押寄せ、門戸を乱打して開かしめ、店内乱入。更に某肥料商の店内に乱入」した
8月21日まで小田郡吉田村・神島内村・神島外村まで及んだ。
神島では「両村煙害地被害民」が、大挙して工場長・副工場長宅を襲撃せんと、夜9時日光寺の梵鐘を乱打し、群衆二千人がこれに加わり喧噪となった。

被差別の民衆
米騒動に被差別の民衆が大きな役割を果たしたことは、全国的に指摘されている。

岡山県下の米騒動は、その後の労働・農民・水平その他の住民運動、無産運動、普選運動など県下の社会運動に大きな影響を与えた。

いずれにしても、米騒動という未曽有の住民運動に直面し、国民の蜂起を軍隊によって鎮圧するという失政のかぎりを演じ、新聞の総攻撃を受けて大正7年(1918)9月21日、寺内内閣は総辞職する。政友会の原敬が後継首相に指名され、最初の政党内閣が誕生した。


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陽明丸とシベリア出兵④尼港事件(地元の茨城県)

2019年06月11日 | 大正
尼港事件で多くの戦死者を出した茨城県では、どのように記されているのだろうと思った
スラスラといった感じの記載であった。

「茨城県の歴史」山川出版社 1997年発行より転記

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英・米など16ヶ国がチェコスロバキア軍の救済を掲げて、ソビエト政権打倒の軍隊をシベリアに派遣した。

日本も積極的に参加したが、大正9年2月に黒竜江口のニコライエフスク(尼)で、ソビエトのパルチザン兵士によって日本兵が殺害されるという尼港事件がおこった。
尼港を守備していたのは水戸第二連隊であった。
281人の戦死者を出し、県民に大きなショックを与え、深い傷あとを残すことになった。

シベリア出兵は、また、軍隊の食糧需要を狙った米穀商による米の買い占め・売り惜しみをうみ、米価が急騰する事態を招いた。
このため、大正7年8月には富山県の漁村から火を噴いた米騒動が全国各地をおそった。

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「シベリア抑留」

2019年06月08日 | 占守島の戦い
「日本人はどんな目に遭ったのか」という副題の本の一部を転記する。


「シベリア抑留」長勢了治著・新潮選書 2015年発行より転記
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北東方面では、もともとソ連軍ではなくアメリカ軍のアリューシャン方面からの進攻に対処することを重点としてきた。

樺太
8月11日早朝、樺太北部国境付近で日本軍と戦闘が始まった。
樺太では地上戦と空襲によって一般住民2000人が犠牲になった。
8月22日停戦協定を結んだ。
8月22日、難民を乗せた輸送船3船がソ連潜水艦により撃沈され1700人以上が犠牲になった。

占守島
8月18日の早朝、占守島を砲撃し竹田浜に上陸をはかった。
幌莚島の第91師団は国籍も定かでない敵に対して直ちに反撃し、激しい戦闘になった。
兵力は日本が優勢であったが、札幌の第五方面司令部は18日正午、正当防衛以外の戦闘を禁じた。
21日には休戦協定が成立した。
日本軍600、ソ連軍3000の死傷者としている。
ソ連軍は南下し、31日までに得撫(うるっぷ)島を武装解除した。

北方領土(南千島)
樺太から別部隊が上陸した。
8月28日択捉島、9月1日国後島、9月5日歯舞諸島に上陸した。
アメリカ軍の動向を気にしながら南千島を強行した。

北海道侵攻作戦
トルーマン大統領はスターリン首相に、8月15日
「満州・北朝鮮・樺太」がソ連軍に降伏することを報せた。
これに対して、スターリンは16日
「全千島を含める事、北海道の北半分を含める事」を要求する回答をした。
トルーマンは18日、
北海道の北半分は拒否した。
以降、千島列島の中部・南部の占領を急いだ。

スターリンは「国民への呼びかけ」を公表した。
「1904年、日露戦争の敗北は国民に苦しい記憶を残した。我が国の不名誉になった。
我が国民は日本を撃破し、その恥を拭う日が来るのを待っていた。
40年間その日が来るのを待っていたが今その日は来たのである」
樺太・千島の占領は、日露戦争の復讐であることを公然と宣言した。

千島からの引揚げ
千島には敗戦時、17.000の民間人と53.000の軍人、合わせて70.000人余りがいた。
軍人は、千島に拘留6.000、ソ連へ47.000送られた。
千島はソ連占領地では唯一、ソ連兵による略奪が少なく、暴行もほとんどなかった。
米ソ協定による正式引揚は昭和22年4月から昭和23年12月まで行われ、6.000の軍人、9.600の一般人が全員強制的に退去されられ、函館に送還された。












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陽明丸とシベリア出兵③「シベリア全権大使」

2019年06月06日 | 大正

アメリカの赤十字社が「ロシアの子ども」たちを救出計画をたてた頃、シベリアには米英日仏伊など12ヶ国の援助を受けた「シベリア国」(コルチャック政権)があった。

「加藤拓川」成沢栄寿著・高文研 2012年発行より転記

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シベリア出兵は、ロシア革命の一環である「シベリア革命」に対する干渉戦争、ないしはソビエト政府に対する侵略戦争である、「シベリア戦争」と呼ぶべきだろう。

チェコスロバキア軍の救出を名目に12ヶ国の連合軍による武力干渉が18年8月から始まった。
米軍9000、英軍6000、中国2000、伊軍1400、仏軍1200に対して、日本軍は最高時72.000を数えた。
以前から、日本は独自の計画があった。
東シベリア東部3州(沿海・アムール・ザバイカル)に反革命のコサック兵・セミョーロフらを支援して傀儡的な親日政権を成立を画策していた。

反革命軍と侵略軍に対するパルチザン闘争は19年になって本格化してくる。
18年10月兵力が7万人を超え、米国から抗議を受ける。

11月西シベリアの中心都市オムスクに旧ロシア帝国海軍中将・コルチャックの「オムスク政府(シベリア政府)が成立した。
原内閣は米英仏との協調の立場でコルチャック政権に同調した。
その間、米国の度重なる勧告を受けて派遣軍を34.000に減兵を決めた。
1919年6月、加藤拓川がシベリア大使に内定した。
拓川は9月21日敦賀を出航、ウラジオから列車で10月13日オムスクに着いた。
10月17日コルチックと会見、しかしアムスクは革命軍の攻撃で陥落寸前であった。

加藤拓川がアムスクに到着する半年前、連合軍の支援を受けたコルチャック軍はソビエトの首都・モスクワへ進撃する勢いを示していた。
コルチャック軍は軍規の乱れや脱走、農民の反感で後退をつづけた。
拓川が到着して一か月後、コルチャック軍は橋を壊して退却した。
大使一行は18日間かけてイルクーツクに到着した。

原内閣は連合軍の増兵を各国に提案したが、逆に各国は撤兵の潮時をみていた。

イルクーツク滞在の拓川は、イルクーツク派兵を外相に要望した。
1920年1月1日、支援の日本軍がイルクーツクに着いた。バイカル湖以西に初めて派兵した。
しかし戦闘に入るか否かで拓川と陸軍が対立し、許可を与えなかった。
1月10日、コルチャック政権崩壊で「お役御免」となりチタに着いた。
満州・半島を経由して31日帰京した。直ちに首相・外相と会談している。

米国は1920年4月に、英仏伊も夏頃撤兵を完了した。
撤兵を終えた米英仏伊は「赤軍」と停戦協定を結んだ。

原内閣は「シベリア出兵」の目的を、過激派からの朝鮮・満州の防衛に変更してシベリアに駐屯した。
外国軍であるウラジオ派遣軍の一方的なシベリア駐兵は武力衝突を引き起こす。その最たるものが尼港事件である。



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