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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

小三の春⑥映画史上空前の新東宝映画「明治天皇と日露大戦争」を見に行く

2019年01月24日 | 城見小・他校
映画を見るのは、福山、小学校、茂平集会所の三通りあった。

福山では、「とんど祭り」に行った際に、映画館で見て帰る。
小学校は、文部省推薦の映画、例えば「次郎物語」や「にあんちゃん」のような教育映画。さっぱり面白くない映画。講堂に暗幕を貼って暗くしていた。
茂平集会所には、月に一度くらい金浦座が出張してくる。夜上映、一度限り。

上映日の二日ほど前に、青木と農協と吉本にポスターを貼っていた。
二本立てで、たいてい前にチャンバラ、後に現代劇を上映するパターンだった。

映画は東京や大阪で上映して約1年後に茂平に廻っていた。

新東宝映画は弱小な会社だったが、アラカン(嵐寛寿郎)主演で、総天然色シネマスコープの「明治天皇と日露大戦争」を公開し、映画史上空前のヒット作品となった。
その映画は公開後2年ほどして茂平集会所にやってきた。

その夜、茂平集会場はびっしり満員で、脚も伸ばせず、あぐらもできず、べべちゃんこで映画を見る状況だった。

映画は軍艦マーチが勇ましく轟き、アラカンの天皇姿も様になっていた。
大人たちは戦勝するスクリーンを興奮気味に見ていた。

映画フィルムは日本全国で、擦り切れる程回してきているので、何度も切れた。
あの映画は、日本映画史に残るヒット作品だが、茂平でも最大の観客数だった。そしてフィルムが切れる回数も最多だった。

尚、観客動員数は2001年「千と千尋の神隠」に抜かれたそうだが、これはアニメなので、実写映画では記録を破られていない。


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金浦漁港から販売される魚

2019年01月23日 | 昭和11年~15年
昭和10年頃の金浦町の様子。
漁港には問屋があり、小田郡内の魚は金浦に出荷し、
金浦+近海+九州+山陰+朝鮮の魚が小田郡、後月郡の他に、成羽や高山市方面に販売されたようだ。
金浦でのセリ(市)や、近海以外からの移入魚の鮮度をどうしていたのか不明である。
金浦地区の漁獲高の「黒鯛」と「ちぬ」は、どう違うのかも不明。


「金浦要覧」編・増成松平 昭和11年6月発行より転記

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金浦委託魚問屋の移入魚類販売調査(昭和9年度末調べ)

タイ 近海6.000円 九州3.500円 山陰2.200円 朝鮮3.600円
サハラ  85.000  3.700   1.450     4.500
チヌ   3.700   1.250   1.350     1.530
ハモ   2.300   1.220    -      2.300
以下
サバ、イワシ、ヒラ、イカ、タチ、其の外     


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金浦町の水産

水産業者
本業 男309 女149
副業 男96 女65

漁船
動力を有せざるもの 107
発動機を有するもの 53

漁獲高
黒鯛 9.486円
ちぬ 8.865円
いな 2.080円
以下、せい・あみ・めばる


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主なる工業
人造真珠 85.000円
醤油 62.268円
造船 22艘 13.450円
帽子  17.395円
麦稈真田 25.286円


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金浦町の名勝地

2019年01月23日 | 暮らし
「金浦要覧」編・増成松平 昭和11年6月発行より転記

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金の浦
吉浜郷は寛文年間吉浜堤を築き東西2個の水門を設け、
海海化して沃野になれり。
其れ以前は海水深く潟入し、風光明媚いわゆる金の浦の勝地たりし所なり。
後冷泉院の永承元年藤原朝臣家経の歌に
 おきつ波風たつへくも 吹かぬ夜に 金の浦より出つる釣舟

小生浜

海岸に一老松あり俗に一本松という。
日露戦役勇士の石碑三基あり、往時は製塩の地たりしなり。

陶山岡
羊腸たる経路を登れば山頂今は全く畑と化せるも、陶山氏の居城たりし西浜城の跡。
特に西丸行者山には石垣の残塁今尚存せり。
ここの風光殊に美しく、山紫水明風光無比と称するも過言にあらざる。
城址の一部に村社八幡宮の神域あり

他に3件あり、下記。
魚渚郷
天神山
カブトガニ

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金浦病院・金浦青年団・国防義会金浦支部・金浦青年学校等

2019年01月23日 | 昭和元年~10年
「金浦要覧」編・増成松平 昭和11年6月発行より転記
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金浦病院
本県社会課の構想により町長は気運の促進を図る。
町財政を考慮し小規模の施設となし、意見もあった。
幾多の障壁を辿り、昭和8年1月開院式を挙行せり。
町民の利用は勿論、隣接各町村の診察を求むるもの増し、健全なる発達を遂げつつ今日に至れり。


金浦消防組
明治32年、団員154名。明治44年341名。昭和2年394名。

金浦町青年団
本町在住の15歳以上25歳以下の学籍にあらざる青年を以って組織す。
現在団員総数三百余名に達せり。
本団の創立は昭和4年、各にあったものを大日本連合青年団の一町一青年団の方針に則り、統一せられり。
弁論会、体育会は近県青年の大会を挙行し、且つ「若人」を発刊して地方文化に貢献し傍ら社会奉仕の作業に懸命に努力をしつつあり。

金浦町婦人会
昭和6年に至り、従来の主婦部、処女部を分割し主婦部のみを以って金浦町婦人会を組織し現在会員243名。
婦人の資質向上、賢母良妻家庭婦人の修養となるべき講習会講演会の開催、農繁期の託児所、敬老会を開く。

金浦町女子青年団
本町在住の満12歳より満25歳までの未婚女子を正団員とし現在団員総数67名。

岡山県国防義会金浦支部
昭和8年1月29日現在会員、1487名に達し、本町の補助金を受け設立以来在郷軍人分会、青年団、婦人会等と連絡を保持し左記事業を実施しつつあり。
1・皇室の尊崇忠君愛国心の振起を図るため、祝祭日には率先祝意を表し努めて拝賀式参列す。
2・国防に関する普及を期する。有識者より聴取す。
3・戦時事変の際に於ける町民の訓練。

金浦小学校
明治32年高等科を設置し金浦尋常高等学校と改編、
同年5月裁縫専修科を附設す、34年廃して裁縫専修学校を附設す。
大正4年,実家学校を附設す。
大正9年実科補習学校を附設す。
児童数は尋常科927名、高等科198名。

金浦青年学校
大正9年小学校に附設農商補修学校として開校、その後水産課を加えた。
昭和6年金浦実業学校へと改称す。
昭和10年勅令により、
金浦実業学校、金浦青年訓練所を廃して、金浦町立金浦青年学校を設立す。
生徒数は110名、
本科の教授及び訓練期間は、普通科2年、本科は第一第二とも5年、研究科1年である。
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魔の踏切

2019年01月22日 | 暮らし
子供の頃、大門駅の東側の踏切に「踏切小屋」があった。
そこには踏切番よりも、いつも子供が遊ぶのがみえた。
「大門の子はええなあ、踏切小屋で遊べて」とうらやましく思っていた。

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「野々浜むかし語り」野々浜公民館1991年発行 より転記

円寂寺前の「寺の前踏切」に踏切番が置かれていたのは、昭和の初めに山陽線が複線になってから、しばらくしてのことだろう。
線路の南側にあった踏切小屋に踏切番が終日詰めて、汽車が来るたびに遮断機を上げ下げしていた。
本人が駅の宿直室に仮眠に行っている間は、駅の者が来て代わりに上げ下げしていた。
踏切小屋にはよく遊びに行っていたものだ。
あの中へ入りこんじゃあわーわー言ってたし、大きくなっても農協の帰りにあそこへ入って遊んで戻りおった。
踏切番は鋼管が来る前の昭和35.6年頃に廃止になった。

汽車が近づくとチンチン鳴る踏切は、ここらでは大冝に最初にできた。
近所のもんは、来るたびにチンチン言うんじゃやかましいじゃろうなと言い合っていた。

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「よしはま物語」関藤不二男著 昭和48年12月発行 より転記。

魔の踏切
大冝踏切は今から凡そ40年位前魔の踏切と呼ばれていた。
1年に11回の踏切事故を記録したこともあった。
踏切の東側は、今は広いが、昔は茂平屋という大きな造り酒屋があり、
西側には下り線に沿って左に民家があり、右には少し離れて薄荷をしぼる小屋と、それに並んでさらし小屋(麦を硫黄でうむす小屋)があって、どちら側からも見通しの悪い踏切であった。
線路沿いに民家を建てたのでなく、民家の傍を鉄道が通った。
何時の頃か線路の東側にお地蔵さんが祀られてからは、眼に見えて事故も少なくなった。
自動信号機が取り付けられ、後
自動遮断機がついてからは、事故は皆無になった。
昭和48年2月はじめ、忘れたころに飛び込み自殺があった。

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魔の踏切
管理人の記憶では、用之江のアメリカ屋の前の踏切が魔の踏切と呼ばれていた。
低い場所を鉄道が通り、非常に危険な踏切だった。

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霊園碑と菅公寄附者銅板と筆の碑  --吉浜菅原神社

2019年01月22日 | 父の話
吉浜菅原神社には霊園碑と菅公寄附者銅板と筆の碑があったそうだ。
次に訪問の際は、ゆっくりと目で確認してみようと思う。

「よしはま物語」関藤不二男著 昭和48年12月発行より転記する。

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随神門の左側に自然石の霊園碑が建っている。
これは明治25年岡田藩の儒者であった浦池其の選並書であると聞いているが、岩に亀裂を生じ、磨きが悪いためか刻んである文字が判読できない。
この原稿を蔵しておられる人は御教示を賜りたい。
その台座一ぱいに寄附者の名が刻んである。
吉浜の有志50名ばかりと、他町村では、東京を始め岡山、井原、笠岡、有田、西浜等20余名が名を連ねている。

随神門の右側には何かがあったらしい凝った配石をした台座が残っている。
これは菅公1000年祭記念碑の寄附者名簿の銅板が建っていた跡である。


(この筆の青銅の碑は、菅原神社300年記念となっている)
菅公1000年祭の記念碑は、右手の丘の裾に跡が残っている。
筆を形どった誠に立派な碑であった。寄附者名簿と共に昭和18年に金属回収の為国に供出、取り払われ、台石のみが残っている。
景観を損じること甚だしく,淋しい限りである。

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小三の春⑤風邪をひいて卵を喰いたい

2019年01月22日 | 城見小・他校
近所のよりさんは6才年上だったが、よく遊んでくれていた。
よりさんの家で遊んでいる時、
「今鶏が卵を産んでいるから・・・・シー」と声を出すのを禁じられた。
見ると、縁側の下の鶏が身を丸くして生む姿勢を取っていた。
子供なので、日にちが変わるとすぐに忘れ、よりさんからは同じ注意を何度も受けた。

その卵は、一ダース以上たまると農協に出荷入して換金していた。

子供が卵を食べる事はなかった。
卵は売るもので食べるものでなかった。

その卵を食べる事が出来るのは、お祭りや、運動会や、遠足の弁当に入っていた。
しかし、それはフライパンで丸く焼いた卵焼きが何等分かに切られたうちの、一切れだった。

なんとか一人で一個の卵を喰いたいものだと思っていたが、それは風邪をひいて寝込んだ時だけ可能だった。
風邪をひくと、母がおかゆを作り、梅干しと、生卵を一個盆に置いていた。

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帝国在郷軍人会金浦町分会

2019年01月21日 | 暮らし
「金浦要覧」編・増成松平 昭和11年6月発行より転記

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明治41年3月設立・・金浦在郷軍人会は在郷軍人の向上発展に寄与せり。当時の会員172名なり。
明治43年11月3日・・「帝国在郷軍人会規約」の発布せらるるや、直ちに其規約による金浦町分会となるに至る。

爾来、勅語 詔書の御主旨を奉戴し軍人精神の鍛練 不撓不屈の身体訓練養護に努力し又は国防思想の普及、過去戦役を記念し戦役陣没者及び公務に起因せる死亡者の祭典を執行し並びに其遺族及戦傷軍人の慰問優遇に力を徹し、青年学校の訓練を幇助し事あるごとに町当局及び諸公共団体と一致協力して事業の遂行、風致の指導浄化に徹す。

満州事変の起こるや率先銃後の任務遂行にあたり尚全力を挙げて軍事思想普及に努力せしものなり。
現在240名の会員を擁し、金浦小学校校庭にある忠魂碑は本会の主唱により大正11年に建設せられたるものなり。

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金浦町の漁業発達概況

2019年01月21日 | 暮らし
「金浦要覧」編・増成松平 昭和11年6月発行より転記

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金浦町の漁業発達概況

明治中頃までは鞆港の東方海面において漁業使用は殆ど西浜漁業者の占有なりしが其の後各地沿岸に漁業者増加ししたがって漁網の使用を発明習得し西浜漁民の漁場範囲を漸次狭められ、明治36年漁業法の施行せられしにより漁業組合は各地に設立せられた。
魚量を減するが故に、明治39年頃西は豊前豊後及び朝鮮近海に東は阪神方面地先へ出漁を試みし者ありしが未知の漁場の事情により漸減す。


水産物販売概況

西浜に板屋なるものありて、魚問屋を経営し、相当手広く沖は真鍋島を始めとし、小田郡内の漁業者全部の、漁獲物を販売せし由、故に相当多数の魚類も集散す、以後板屋は廃業し、数名にて西浜漁業者の漁獲物の販売をなせり。
一方出買業者出来るに及び、広島、香川、愛媛、山口県等より、鯛、鰆(さわら)ハモ、コチ、其他の魚を積みかえり販売するため、漸次その額は増加を呈し、最高40万円以上のこともあり、即ち魚類集散地としては、尾道市をも凌駕するの盛況なりし時代もありき。
其の後各地に魚問屋開業勃興の余波と地元仲買人の減少相なって、逐年不振となり、近年漁獲も減少す。
然れども近年朝鮮、九州、下関方面より委託として積送らるる魚類は巨額の金額を算出するに至り、古よりの漁港金浦は依然として、岡山、福山、尾道に次ぐ魚の町として魚の西浜か、西浜の魚かと県下へ主として高梁、成羽方面は毎日自動車に依り、配給せられ後月、浅口、小田三郡下の魚は金浦の手によりて食膳に給せられつつあるの状態なり。
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"伏源”の歴史

2019年01月20日 | 昭和16年~19年
大女優・田中絹代の姉が、笠岡の伏源で仲居をしていた縁で、何度も訪れている・・・という話を聞いたことがる。

「笠岡沿革史」笠岡町沿革史編纂期成会 昭和26年発行より転記
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「伏源旅館」
明治24年先代瀬戸源次郎により三階建築落成し、三快楼と称して中利(←もう一つの大旅館)と共に笠岡に過ぎたるものとして賞賛せられた。
同41年、大広間を建築し益々隆盛に向かひつつありしが、時局の緊迫に伴い父業70年の本業は昭和19年3月廃業の止むなきに至った。
同年9月神戸市六甲国民学校疎開学童の宿舎に、後海軍水路部に提供、終戦後
三浦星夫の経営事業に移り三洋と改称す。

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