しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

徴兵検査

2015年07月22日 | 昭和11年~15年
各市町村の村史・町史から。




(美星町史)
徴兵検査は人生一代のうちで、ひとつの区切りを付けたもので、関所を通行した気持ちであったといわれる。
当地では川上郡成羽小学校を、また小田郡の村々は笠岡の貫閲講堂(かんえつこうどう)を検査場としていたので当地の受験者は全員、検査地に宿泊し、翌日の検査に出場した。
検査場には村長は勿論、在郷軍人分会長、小学校長・青年学校長も列席して行われ、それは厳格そのものであった。
だいたい一日に3~4ヶ村の数え年二十歳の青年を対象に行われた。
検査官は岡山連隊区の職員で下士官・軍医将校・徴兵官で構成されていた。
検査内容は身長・体重・胸囲・視聴力・肺活量・四肢・性病などで、受験者は初めから終わりまで、ふんどし一つの裸で臨み、軍隊式の厳格な号令と返答、態度で実施されたのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

物々交換

2015年07月21日 | 暮らし
各地域の物々交換や行商人を記す。






金光町史より

竹の皮と飴
大正の頃、福山から竹の皮を買いに来る人がいた。藪に行って皮を集めていた。仲買は現金でなく丸棒のお多福の絵が断面に出る飴で、夏になると仲買人が来るのを楽しみにしていた。
イリコと米
寄島の造り酒屋が大八車を引いて米を買いに来ていた。家を回ってはイリコ一袋と米何升と交換していた。
山繭と飴
山に行って山繭を集めておくと買う人が来て、繭一個に対して飴三個と交換してくれ、子供たちの楽しみの一つだった。
煎餅と米
金光駅の駅前に煎餅屋があり、米と煎餅を交換してくれていた。
うどんと小麦
鴨方のうどん製造ではうどんと小麦を交換していた。交換比率は店が決めていた。
小麦粉と小麦
小麦・蕎麦を粉屋に加工してもらっていた。交換比率は7対3くらいだった。
白下とサトウキビ
終戦後の砂糖不足の時、サトウキビを金光駅前にあった加工場へ持っていくと量を計って白下と交換してくれた。甘味がすばらしかったと古老は話している。
卵と日用品
軒下で飼う鶏の卵を貯めておくと行商人が日用品と物々交換してくれた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おばの話・戦前の城見小  修正・追加予定

2015年07月21日 | 昭和元年~10年
おばは大正12年8月茂平生まれ。城見尋常小学校に6年、城見高等小学校2年。(7才~14才)。昭和4年~昭和12年在校。


おばの話(テープの起こしが未完成で修正や追加予定)


兵隊の面接




戦死者の村葬は?
記憶はない


皇太子の祝い

皇太子が生まれた時は歌を歌って祝った。
にぎやかに祝った、みんな喜んで騒いだ。

武漢三鎮陥落の祝い
記憶にない。


兵隊さんの汽車
授業はそっちのけで送りょうた。
日の丸の旗はいつも準備していて、鉄道のゲシで全校生徒で送りょうた。
逆に兵隊さんがお菓子を投げて呉りょうた。慰問袋から取りだして。
貸し切りで、列車すべて軍人さんじゃ。今考えれば、死にいくのでああして送りょうたんかなあ思う。




弘化3年(1846)9月20日生まれの由久ばあさんの事

由久ばあさんは管理人のひいひい婆さん。昭和18年に98才で亡くなった。
夫・富次郎は天保11年(1840)生まれ。

「嫁に来たらのう、もうお歯黒をせにゃあいけんだ」ゆうてようた。
けど、物心がついた頃にはしてなかった。実際にしたのを見たことはない。

仕事はせずに留守番をしょうた。畑に出たり、草を取るゆうのはもうしていなかった。
呆けることはなかった。夜はいっしょに寝ようた。


郵便屋

夜灯のとこで縄跳びして遊びょうた「♪郵便屋さん、早よ走れ、かれこれ12時じゃ・・・・」
当時の郵便配達の人は

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

糸つむぎ・ハタ織り (神島村史から)

2015年07月21日 | 暮らし


衣類は自給自足で、ほとんど女性が手がけた。
明治時代までは女は綿を畑で作り、それをつむいで家中の者の着る物、フトン、カヤ、前掛、手拭、穀類を入れる袋まで自分で織ったのである。
家の者に四季着せたものを傷んだら解いて洗い直し、繕いをしてよれ替えて縫い直し、着れなくなるまで着た。
少しでも無駄な布は無く、古くなって使えなくなったらぞうきんや、草履あみに組み入れた。
野良仕事、寒気の機織り、夏期の真田編み、縫い物、育児洗濯、台所仕事、養蚕と、女は働き通しであった。




糸つむぎ・ハタ織り

綿は八十八夜にまく。収穫は八月九月。
綿がふいてくると摘んで帰って干し、綿繰り機で実を落し、綿打屋に棉打ちをしてもらった。
綿を箸を芯にして巻取り、シノを作った。
糸引き車を右手で回し、左手でシノから糸を引出てよりをかけて糸にした。
糸が太いと織り上がったら厚手の木綿となった。

ハタ織り
綿糸の輸入と共に国内の綿作がすたれ、ハタオリも戦後なくなった。


糸染め
ハタオリが盛んなころ、神島にも紺屋があって藍染をしていた。
神島公会堂の裏にも紺屋があって、各家は自分で織った糸を藍染してもらっていた。

紺屋にはいつくもの藍かめがあって、濃い順に紺、オリイロ、浅黄、よもぎなどに染め分けた。

養蚕

幕末から明治になって養蚕が普及、綿畑は桑畑へとバトンタッチ、
生糸の輸出が増え、養蚕は盛んになり、春蚕、夏蚕、秋蚕と忙しく、
寝るところもないほど蚕棚をつくった。
これは大変な収入源にもなった。
まゆを10日置くと蛾になるので、早めに木灰(あく)叉は炭酸を入れて大きな釜で炊いて、3~8個の繭の糸を合せて一本にする。
繭の中のさなぎは飼料にした。

スガ糸

蚕の糸をスガ糸といって、織ると木綿と違って良い着物ができた。
織る前に糸を練るため木灰のあくで煮て織り、この白反を染物屋で好きな色に染めてヨソイキとした。

真綿

まゆからとった糸を真綿といい、背当てのように作ったものを上着の下に着ると軽いうえに暖かだった。

手縞
自分の家で織ったものを手縞といった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

慰問袋の通知

2015年07月20日 | 昭和元年~10年
慰問袋を送ることを町民に呼びかけた書。
矢掛町史から全文を写した。
岡山県下各市町村ともほぼ同じ事があったものと推測される。

文例は15年戦争の始まった直後、(満州事変熱河作戦へ出動した)岡山歩兵10連隊へ宛てる物であろう。
以下矢掛町史より


我岡山出動部隊は炎熱焼くが如き北満の荒野に於いて困苦○乏に耐え神出鬼没の匪賊と戦ひつつある辛労に対しては真に感謝の情に堪えません、然るに近時国民の関心が○○遠ざからんとしつつある傾向があり渡満以来一回の慰問袋も届かないとの事であります、就きましては此の将士を慰むる為此際慰問袋を贈り度いと思ひます 何卒御賛成下さいまして慰問袋(住所氏名御記入)御調製の上来る8月20日迄に小学校へ御届下さいませ、尚内容は皆様の御随意ですが左記の品々が最も適当だと存じます


一、 蚤取粉の如き殺虫剤
一、 シャツサルマタの類は冬物
一、 晒木綿の越中褌
一、 タオル仁丹類
一、 地方の絵葉書書
一、 小学生等の慰問文
一、 腐敗の虞なきものを選ぶこと
昭和7年8月日
矢掛町長 xx
矢掛婦人会長 xx
矢掛女子青年団長 xx

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

占有海面指定に関する件 

2015年07月19日 | 昭和16年~19年
戦争の末期、大津野飛行場に関し呉鎮守府から県に対して一方的な通知がある。
海域は現在のJFE(福山・笠岡)及びその周辺海域。
漁業には及ばずとあるので実質的な影響はないものと思えるが、何故この時期に追加指定したのだろう? 防諜目的だろうか。


昭和20年4月20日 岡山県土木部長・警察部長

小田郡城見村長殿
占有海面指定に関する件 

呉鎮守府司令長官より軍事上の必要に基き別図海域を海軍占有海域に指定し、一般船舶の航行禁止・・・。

※画像の桃色が指定区域である。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

工業調査 昭和16年

2015年07月19日 | 昭和16年~19年
村から県へ工業調査が提出されている。

岡山県知事殿
昭和16年3月14日
小田郡城見村長

工場名 工業調査 様式(甲)第1号票
藤川薄荷油製造所 2
小川薄荷油製造所 2
三好瓦工場 2
山陽呑口製作所 2
松浦製箱所 2
坂本製麺所 2
坂本鍛冶店 2
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和20年 農作物9月12月 報告表

2015年07月18日 | 昭和20年(戦後)
小田郡城見村の役場綴りに保管されている。
終戦当時の畑作物がわかる。



小田郡城見村 昭和20年9月末日

作物名 面積 実収高・貫
タマネギ 2反 450
キュウリ 7 1600
カボチャ 3町0 5800
スイカ 1 400
トマト 4 1230
秋播キャベツ 1 285
マクワウリ 0 0
ユウガホ 1 16
ラッキョウ 9 1800
エンドウ 2 400
ソラマメ 3町4 32石
ジョチュウギク 栽培面積6町9 収穫面積 14.町9 1242貫
タケノコ 1町 1町 850貫
コウゾ 0 0
ミツマタ 0 0
モモ 16町2  40750貫
ビワ 4町5  7200貫
ウメ 0 0 110貫(畦等で栽培)
イチジク 4町1 83000貫


小田郡城見村 昭和20年12月末日

秋植馬鈴薯 9町8反 18620
小豆 13町3反 10石
キビ 3町0 30
アワ 6反 7
ヒエ 0 0
ソバ 3町5反 34
サトイモ 7反 1190貫
ダイコン 1町9反 5700
カブラ 0 0
ニンジン 0 0
ゴボウ 7反 2400
ナス 5反 1500
春播キャベツ 1 400
結球白菜 4 1200
非結球漬菜 1 350
トウガラシ 0 0
ヤマイモ 0 0
ゴマ 1 1石
イチビ 0 0
ワタ 0 0
ミカン 3町1反 ○540貫(注・ミカンの数量は間違いもあり)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漁船数 農林水産業調査・小田郡城見村

2015年07月18日 | 昭和16年~19年
昭和20年8月1日現在の漁船数調査がある。国の調査表。
船舶の数が予想より5~7隻少ない。
エンジンの有無は過渡期であろう。


大型漁船
動力を有する漁船 5
動力を有せざる5トン(50石)以上の漁船 0
小型漁船
動力を有せざる5トン(50石)未満の漁船 3
合計 8

漁業会により調査。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和20年の城見の水産業 ・城見村役場綴の資料から

2015年07月18日 | 昭和20年(戦後)
国の調査表と思える資料から転記する。
「其の他の魚類」が多いが雑魚なのだろうか?





昭和20年11月12日に報告している。
昭和20年第一期分 (自2月1日至7月31日)


漁獲数量 貫
魚類
タヒ(クロダイヲモ含ム) 5

ボラ 1
其の他の魚類 353

貝類
0
其ノ他ノ水産動物
イカ 77
タコ 10
エビ 134
カニ 94
計315

藻類
0

調査方法 漁業会二ヨリ調査

昭和21年2月末日報告
昭和20年第二期分 (自8月1日至1月31日)

魚類
其の他の魚類 106

貝類
其の他の貝類 57
其ノ他ノ水産動物
イカ 20
タコ 0
エビ 10
カニ 10
其他の水産動物50

藻類
0

合計253

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする