しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

海外引揚者数調査(城見村)

2015年07月17日 | 昭和21年~25年
当時、半年に一度程度集計していたようである。
「一般」と「復員」に分けている。

復員は更に「陸軍・軍人」「陸軍・軍属」「海軍・軍人」「海軍・軍属」に分かれてあるが、ここでは累計を書き写した。

昭和21年8月の累計数340人で、
昭和22年3月の累計数280人、誤差の原因は本籍地や、即転出等が要因だろうか。
とにかく300人くらいの人が外地から生きて戻った。ほぼ無一文で。


昭和21年8月1日 小田郡城見村

前回よりの累計数

一般引揚者 世帯数23 人員68
復員者 世帯数266 人員272
計 世帯数289 人員340

昭和22年3月末日現在
※復員+一般
台湾 3+14
朝鮮 5+24
満洲 5+43
樺太 0+0
シベリア0+0
中華民国 39+16
蒙古 0+0
比島 3+0
其の他南洋諸島 20+1
其の他 108+0
計 182+98

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笠岡港ぶし

2015年07月17日 | 昭和元年~10年
「写真集岡山県の昭和」という本に笠岡港ぶしが載っている。
昭和8年のページで、他に井原小唄や玉島小唄や宇野小唄など掲載。

記事には昭和一桁時代の不況時に「波浮の港」などが大衆の心をとらえ、岡山地方でも新作の民謡・小唄・音頭がブームになったとある。

野口雨情は笠岡訪問して作詞したのだろうか? 違うんだろうな。



野口雨情作詞
藤井清水作曲

逢ひに来るときゃ ソコ サッサノ
笠岡は港 「聞かれりゃ魚釣り舟遊び」と
言ふておいでよ ハリヤイヤ
わたしゃ 待つ身でま々ならぬ

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城見村の職業大分類別構成 大正9年(1920)

2015年07月17日 | 大正
大正時代の城見の職業。小田郡の他の村と比べると、ほぼ内訳は同じ。特色なし。


以下
--井原市史紀要--井原の歴史 第3号より

城見村構成(%)男+女

農業 81.7+87.6
水産業 1.1+0.2
鉱業 0.6+0
工業 6.2+8.6
商業 3.7+1.9
交通業 1.4+0.2
公務自由業 4.1+1.1
その他有業者 0.6+0
家事 0+0
無職 0.6+0.4

総数699+475人


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昭和21年夏作物基本調査表

2015年07月17日 | 昭和21年~25年

昭和21年8月1日で作付面積の調査で、これも国からの調査表のようだ。

城見村の綴りより
以下は実家の数字を代表例として書き残す。


水稲・うるち 1600
水稲・もち 300
甘藷 1700
馬鈴薯 100
大豆 100
とうもろこし 0


冬期調査

昭和22年2月1日調査

大麦 0
裸麦 400
小麦 100
計  500


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昭和20年11月の城見村人口その二 (笠岡市役所資料室より)

2015年07月17日 | 昭和20年(戦後)
小字別の調査票について

昭和20年11月7日の人口統計表に戸別の内訳表(調査表)が付いている。

世帯主と男女別の家族数で、大家族が多い。
10人超えも珍しくない。茂平の最大数は13人家族。他に二桁家族が数件ある。

私の実家の場合男5女4の9人家族になっている。
姉・父・母・祖父・祖母・曽祖父の6人までは分る。

不足する3人は祖母の妹とその子2人であろうか。神戸の家が空襲で焼けて実家に戻った。
しかし、半年くらいで転居している。その頃曽祖父は伝染病で死んだ。その後兄が生まれた。
一家の数は、何所の家も終戦前から戦後1~2年は変化し、暮らしにまったく余裕がなかった。

復員・誕生・病死の世帯がほとんどで、調査員も大変だったと推測される。



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城見小学校の生徒数 (昭和19年)

2015年07月17日 | 昭和16年~19年
「昭和19年度統計表綴 城見村役場」から、
城見小学校の児童数のページを写した。
昭和20年10月の人口調査と並べて見ると、人口に対して児童数が少ないのが異常だ。何故だろう?
青年学校は全員が就学猶予となっている。
以下統計表より。



国民学校専科訓導担任 科目別調表

勤務 助教 男 1
高等科勤務 訓導 女1 准訓導 男1

初等科
第一学年 男30 女22
第二学年 男27 女35
第三学年 男26 女19
第四学年 男34 女22
第五学年 男21 女24
第六学年 男29 女24
計 男167 女146

高等科
第一学年 男17 女22
第二学年 男12 女21
計 男29 女43

特終科 0  0

入学者
初等科 男30 女22
高等科 男17 女22
特終科   0  0

区域外の生徒は別表により・・・・
※疎開児童の調査数と思えるが記入なし。


青年学校義務就学者数
昭和19年4月30日現在
普通科・本科に在学の者 本科39 就学猶予39
※学校に籍はあるが全員が通学していない。この年から制度としての就学が開始だった(?)かな。戦争で猶予か、校舎がないから猶予か?

学校衛生職員
小田郡金浦町生江浜 桑田○ 生徒数385人 手当年額50円
小田郡笠岡町笠岡 塚脇○ 生徒数385人 手当年額20円


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昭和20年11月の城見村人口 (笠岡市役所資料室より)

2015年07月17日 | 昭和20年(戦後)
粗末な用紙とは言え、終戦前後の紙としては上質であり印刷物に数字を記入する表となっている。県でなく国の調査と思える。
年齢は0才がないので、数え年であろう。村長は公職追放で不在の為助役の名で報告している。

特徴として、「産めよ殖やせよ」の成果か幼児の人口が多い。
15才から39才までの男女別を記した、男性数が少ない。調査後に復員した人もいるだろうが、当然戦死者も要因だろう。
なお、調査は困難の様子であったようで、訂正あり、?マークもある。
以下表から転記した。


昭和20年人口調査
岡山県小田郡城見村
昭和20年11月7日  城見村長代理・助役

1才・63
2・・80
3・・78
4・・71
5・・72
6・・76
7・・66
8・・65
9・・76

10・・71
11・・65
12・・72
13・・60
14・・67
15・・64 男22 女42
16・・57  23   34
17・・58  30   28
18・・47  24   23
19・・61  37   24

20・・53  22   36
21・・35  17   18
22・・46  19   27
23・・36  11   25
24・・35   7   28
25・・28  7  21
26・・32  8  24
27・・25  10 15
28・・27  12 15
29・・38  14  24
30・・23  10  13

31・・37  12  25
32・・47  14  33
33・・34  13  21
34・・34  14  20
35・・37  15  22
36・・31  14  17
37・・34  15  19
38・・43   7  36
39・・37  15  22

40・・24
41・・38
42・・39
43・・30
44・・22
45・・32
46・・32
47・・25
48・・26
49・・25

50・・28
51・・23
52・・20
53・・27
54・・17
55・・17
56・・19
57・・20
58・・18
59・・19
60・・24

61・・21
62・・13
63・・19
64・・21
65・・31
66・・17
67・・27
68・・22
69・・15

70・・21
71・・19
72・・・8
73・・16
74・・10
75・・10
76・・10
77・・・9
78・・・4
79・・・8

80・・・3
81・・・9
82・・・8
83・・・7
84・・・3
85・・・2
86・・・3
87・・・1
88・・・1
89・・・4
90・・・2

91・・・0
92・・・2
93・・・0
94・・・1


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「しろみのあゆみ」の年表に追加

2015年07月01日 | 江戸~明治
(年表に追加分)

明治17年 茂平堤防が台風と高潮で撤壊(宮の崎まで浸水)
昭和3年 帝国軍人会城見村分会が出来た
昭和15年 城見青年学校が布設された
昭和15年 大政翼賛会城見分会が出来る
昭和17年 米の供出制度が始まる
昭和18年 組合立金浦青年学校が開校→戦後・金浦中学校へ移行
昭和18年 米の供出と配給(ヤミ取引の調査はじまる)
昭和21年 女性が初めて投票した(衆院・岡山全県区2名連記)
昭和22年 城見郵便局が開局
昭和22年 城見農協が出来た
昭和22年 初の城見村長選挙があった(松浦昇氏当選)
昭和23年 学校にPTAが出来た
昭和28年 茂平潮止堤防の補強工事
昭和29年 茂平港の改修工事(水門・波止場)
昭和33年 茂平へバス路線が開通した
昭和33年 忠魂碑が城見小学校校庭に完成
昭和33年 城見小学校に給食調理室完成
昭和37年 城見小学校の校歌ができた
昭和37年 笠岡西農協発足(金浦・城見・陶山)
昭和40年 備後工業特別整備地域に笠岡市追加指定
昭和43年 茂平・野々浜間に大型道路が完成
昭和44年 茂平沖埋立が始まる
昭和44年 両国橋が完成
昭和45年 日本鋼管笠岡工場大径管工場が操業開始
昭和48年 市役所の車が「オキシダント情報車」を発令してまわった
昭和49年 笠岡湾干拓の東西潮止堤防工事盛ん
昭和55年 茂平工業団地へ企業進出が盛ん
昭和56年 茂平工業団地完成
昭和60年 金浦中学校新校舎完成
平成2年 笠岡湾干拓完成「食と緑の博覧会」
平成3年 平成町へ茂平地区から営農が始まる


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2・明治~大正・昭和(戦前)   

2015年07月01日 | 江戸~明治
○明治維新
「士農工商」から「華士卒平」の四民となった、昭和の新憲法による廃止まで続いた。城見地区の住民は全期間、ほぼ100%が平民であったと思える。
寺社は分離された。神社は神道の国家政策に組み込まれて優遇され、「村社」等の指定と各付けがされた。
加地子(税金)は変わらず、苗字を付けた事だけが平民の感じる“ご一新”であった。

○衣

綿を栽培し糸にした。糸で機織りして布にした。布を編んで着物にした。
紡績工場が各地に出来、綿花は明治30年代からインド産になった。その頃より糸を紡ぐのは止めて機織りが残った。
女性は「機が織れねば嫁にいけない」と言われた。

機織りは大正頃消え、布地(ぬのじ)を買うようになり裁縫が残った。
着物は何度もつくろぎ再利用し、最後は生理用品や雑巾にした。
綿は昭和の初め頃まで栽培され、綿打ちして布団やちゃんちゃんこに入れた。

着る物は「イッチョウライ」「よそゆき」「普段着」「仕事着」に分けていた。
洋服は昭和の初めに男性に普及し、次いで女性に及んだ。

モンペ
モンペは昭和12年頃より、国策で戦時の婦人服として生まれ、着用が半ば強制された。
「よそゆき」と「普段着」と「仕事着」を兼ね活動的であったので普及した。農村では和服から洋服へ移行への橋渡しも兼ねた。戦後も野良着として愛用されている。



○食

主食は米麦で比は5:5が多かった。麦は裸麦で、大正頃にまる麦からひしゃぎ麦に変わった。米と麦は二毛作で栽培していた。

米の飯を食べるのは正月、盆、祭りのみ。
祭の日には、無塩の魚、米、ちらし寿司(ばら寿司)、巻きずし、赤飯、それにお酒で祝った。

食べ物は、自給を料理するのが基本だった。

おかずの野菜、
ダイコン、ごんぼー、人参、じゃがいも、かぼちゃ、ナスビ、きゅうり、玉ねぎ。
昭和になると、ホウレンソウ、白菜、キャベツ、ピーマン(鬼とうがらし)、後にレタス、セロリ、アスパラガス、おくら・・・。(追記)
自宅に植えて無い野菜は近所とトリカエしていた。
野菜の他にまったけ、ぜんまい、シイタケ、茶(畑のゲシ)
味噌汁、つけもの(こーこ、梅干し、らっきょう)
味噌も醤油も家庭で作った。
肉は廃鶏、(クジラ肉・豚肉・牛肉は戦後に普及)

お酒は集まった時に呑み、晩酌の人はすくない。ビールは昭和30年頃から若者が呑み始めた。

買うもの
とうふ・酒・塩・酢

おやつも自給が基本で、
ふかしイモ(主食にも)、吊し柿、キズモノの果物、しーしー、ぽんぽん、びーびー、蜂の子、ゆすら、砂糖きび、なんば、野苺、竹の皮で梅干し、
柿、あけび、ニッキ紙の木、大豆やソラマメやアラレを炒ったもの、はったい粉

弁当は柳ごおりからアルミへ箱が変わった。弁当のおかずは、こ-こ・梅干し・らっきょうの他にめざしや削り鰹の醤油、野菜を煮たもの。お茶は弁当蓋で飲んだ。

病気をした時だけ、卵を食べることが出来た。


○住

屋敷には母屋があり、他に納屋、うむし小屋(麦・干しいちじく)、蔵(味噌・醤油・米・漬物)、タバコの乾燥小屋、牛小屋、長屋・ヒヤ、灰小屋・割木・くべ木、風呂・便所、等があった。

家には芋ツボ、土間、えんだ、かどがあった。
母屋は部屋と土間に分けられ、部屋は養蚕の家では人より蚕室が優先された。


○城見の暮らし

農業と漁業で9割を超えたが、他に生業として日用雑貨店、野鍛冶屋、うどん屋、薄荷仲買、会社員・教員・公務員、博労、吉備焼、窯業(瓦)、桶屋、豆腐屋、医者がいた。

 
家の跡継
男は惣領、女は婿取り・養子取りと呼ばれた。

結婚は家と家。家のつり合いが優先された。嫌われたのはハンセン氏病や結核の家、丙午生まれの女性。
入籍は妊娠後が多かった。逆に言えば「家風に合わない」「1年以内に妊娠しない」嫁の多くは本人の意思に関係なく実家に戻された。

お産は自宅で
嫁は産気付くまで仕事をし、産婆さんを呼んだ。座産で、後ろによかって生んだ。

婦人に選挙権はなく、嫁は家では機織り・裁縫・炊事・洗濯は仕事のうちに入らなかった。
風呂は最後に入り、朝は誰よりも早く起きてクドで火を付けた。


3・昭和(戦中)~高度経済成長期

○戦中・復興期

明治以降より今日の平成までの間、唯一都会よりも田舎生活が恵まれていた数年間だった。
田舎である城見には、住む家があり、食べる物があった。
町から来る買出しの人は着る物を持って訪れ、食料(さつま芋など)と物々交換した。

○高度経済成長期

日本にテレビが普及し始めたが城見は遅く、皇太子ご成婚(昭和34年)時は城見小学校に一台あるのみだった。
城見の二台目は目崎散髪店、子供たちは学校帰りにガラス戸越しにテレビの大相撲を見て、帰ればテレビのある家庭に見せてもらいに行っていた。東京五輪(1964年)開催時は、ほぼ全戸普及していた。その当時はNHK・NHK教育・山陽・西日本の4つのチャンネルが見れた。

昭和35年頃、牛を飼うのを止めテーラー(耕運機)が普及し始めた。
プロパンガスや扇風機や石油ストーブ、扇風機・洗濯機・冷蔵庫など白物家電が普及していった。
電話は昭和45年頃に農村集団電話が各戸に付いたが、その2~3年後より戸別の電話へ換わった。

家は台所が床になり、土間や牛小屋など消えていった。
畳をあげての大掃除や井戸掃除・エントツ掃除もなくなり
カド(庭)は築山になった。

自家用車は昭和42.・43年頃から一家に一台普及するようになった。
その時代を象徴するのが、井笠鉄道の鉄道事業廃止。(昭和46年3月31日)

高校卒業後、男子は阪神地方へ就職する人が多かったが日本鋼管が高炉稼働して後は地元就職が急増した。地元へ残ることを条件に、わが子に新車を購入して与える親も多くいた。






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