しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

徐州大会戦  --毎日新聞・日本の戦史

2020年05月26日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「一億人の昭和史・日本の戦史4」 昭和54年 毎日新聞発行  より転記

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(♪行けど進めど麦また麦・・・の徐州。歌とまったく同じと父は話していた)

昭和13年(1938)は日中戦争が決定的に長期化・ドロ沼化への道に踏み込んだ年であった。

「国民政府を相手とせず」という近衛声明が発表され、
日中和平の最大のチャンスといわれたトラウトマン工作に、事実上終止符が打たれたのは1月16日。

軍中央によって「戦線不拡大」方針は、現地軍の強硬意見と早期和平への焦りで、
5月から徐州作戦、
秋の武漢・関東侵略作戦へと矢継ぎ早に戦火を拡大してゆく結果となる。
日本の思惑とは逆に、
「わが抗戦根拠は・・・広大深遠な奥地にある」(蒋介石10月31日)と戦意はますます高く、
点と線を確保しただけの日本軍の前途はまさに多難であった。
「漢口陥落して国民狂喜し 祝賀行列は宮城前より三宅坂に昼夜充満す。
---すでにこの年、9月30日
国際連盟によって制裁を決議され、軍事費は前年の2.4倍におよび
また”何処へ行くのか”危ぶまれたのである。

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華北平定作戦
北支那方面軍の占領地域は、昭和13年初めには河北・河南など6省におよんだ。
第1軍は京漢線方面、
第2軍は黄河以南の占領地内限定掃討作戦を命じられた。
第2軍は第10師団に対して占領戦を越え、中国軍を追撃するよう指示。
台児荘の激戦から徐州会戦への端緒を開いた。

徐州大会戦
第2軍(第5・10・16・114師団他)は5月7日、徐州作戦を発動しした。
大本営は5月29日、作戦地域を越えないよう統制したが北支那方面軍は統制線を越えて西進した。



徐州になだれ込む
5月25日、
寺内寿一北方面軍・畑俊六中支那派遣軍がそろって徐州入城式を挙行。
徐州は以後敗戦まで7年余り日本軍の占領下におかれた。


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