しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

マキノ省三

2021年05月12日 | 銅像の人
場所・京都府京都市北区等持院北町


「日本映画の父」として有名。
銅像は太秦に近く、昭和初期には等持院周辺に撮影所が集中してあったそうだ。



「時代劇は死なず!」  春日太一  集英社新書 2008年発行

1910年、京都の興行主・横田木之助率いる横田商会が京都で初めての撮影所=二条城撮影所を開設、
本格的な映画製作が開始される。
ここで≪日本映画の父≫と呼ばれる映画監督・牧野省三と≪日本最初の映画スター≫尾上松之助の『忠臣蔵』が製作され、
12年法華堂に移転してからは両者のコンビで”三日に一本”というハイペースで忍術映画が製作されていった。

同年横田商会をはじめ四大映画会社が統合され日本活動写真=日活が誕生している。
1923年関東大震災で関東から移転もあり、京都は日本の映画製作の中心地となり、撮影所が林立していった。

1930年代にはいり、映画はそれまでのサイレントからトーキーへと技術革新が求められるようになる。
そうした中、牧野省三の子・マキノ正博はマキノ・トーキーを太秦に開設したが,うまくいかず40年松竹に買収された。






マキノ省三先生像【碑文】

生涯を映画の発展と前進に尽力し日本映画の父と仰がれたマキノ省三先生が
大正10年に最初の撮影所を創設せられたのは実にこの等持院の地でありました
このたび先生の銅像を太秦より迎えましたのは
ひとえに日本映画史の一頁を飾るゆかりの此の地に永く先生の遺徳を顕彰したいとねんずるからであります
昭和45年7月25日
マキノ省三先生顕彰会







映画とマキノ

明治36年、アメリカの富豪モルガンが祇園の芸妓お雪を落籍した。
お雪は、はじめ応じなかったがモルガンの熱心に、まわりが身請け金10万円ときりだし、
相手があきらめると思ったらしい。
新聞はただちに”10万円の貞操”と書きたてた。
牧野はこの身請け話を一夜漬で劇に仕上げ、翌日千本座で上演、大当たりをとった。
そして明治40年に「本能寺合戦」を監督、映画製作の第一歩をふみだした。
2年後、尾上松之助が横田の専属となり、”目玉の松ちゃん”は、たちまち大衆の人気をさらった。

牧野は大正14年トーキーが発明されると、昭和3年に国産化の研究所をつくった。

大正・昭和にはいると、映画は娯楽の王座となった。
大正11年には坂東妻三郎がマキノ=プロに入社し、
月形龍之介・嵐寛寿郎・市川右太衛門・片岡千恵蔵らがこれにつづき、
長谷川一夫が林長二郎の名でデビューした。


「京都府の歴史」 赤松・山本共著 山川出版社 昭和41年発行  






撮影日・2009年11月27日
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