終戦時、「天皇に戦争責任がない」と思った日本人は、少数意見だっただろう。
しかし、天皇を罰せよと思った日本人もまた、少数意見だったと思われる。
裁判官は戦勝国人であり、東京裁判の判決によって日本国内が騒乱になることは避けたい。
むずかしい背景があったが、
裁判の前に「天皇は日本の象徴である」との新憲法ができ、天皇の東京裁判はなくなった。
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「ライシャワーの日本史」 ライシャワー 文芸春秋 1986年発行
天皇の取り扱い問題は、占領軍の日本改革のなかで、最も論議を呼んだテーマであった。
とりわけ海外では、天皇を裁判にかけて処罰すべきだという意見が多く、論議はきびしかった。
しかし、もしそのような措置がとられたら、天皇が現実には実質的な権力をもっていなかったこと、
また個人的には戦争に反対する思想の持ち主であったことに照らして、きわめて不当な扱いとなったことであろう。
そうなればまた、遅かれ早かれ、日本国内に憂慮すべき反発を招いたことと思われる。
マッカーサーとアメリカ軍がこのような措置に与しなかった理由も、主としてそこにあった。
そのかわり、大変革が相つぐなかで、皇室制度は憲法の規定にしたがいやがては日本人の心情のなかでも
イギリスの立憲君主制に比すべき地位に、小ぢんまりと姿を変えていった。
天皇制をこのように処理したことは、
あとからみて、はるかに安全で長続きする解決策であった。
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「文藝春秋にみる昭和史・第二巻」 文藝春秋 1988年発行
東京裁判における当初の最大の焦点は、天皇に戦争責任ありや否やであった。
ソ連、フランス、オーストラリヤ、オランダなどの諸国は天皇有罪を主張していた。
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「日本の歴史22現代Ⅰ」 岩波書店 1977年発行
1946年 5月3日に開された極東軍事裁判は、天皇の戦争責任をどう扱うかという意味において、何よりも注目をひいた。
ちょうど憲法改正問題と時期を同じくしており、天皇が戦争犯罪人となるならば、
天皇制はどうなるかと、いわゆる 「国体」にかかわる問題であった。
実はアメリカ側としては、
(45年11月3日)で、マッカーサーに対し
「貴官は、合同参謀本部との事前協議及び合同参謀本部を通じて貴官に発せられる通達なしには、
天皇を排除したり、または排除するようないかなる措置を執ってはならない」ことが命ぜられていたのだが、
そのことは1948年まで公表されなかった。
したがって天皇を戦争犯罪人として裁判に付すべしという方向の国際世論が声高く叫ばれるたびに、
保守的支配層は大きな危惧の前にさらされ、
それはキーナンが天皇を被告とする意思のないことを公表する46年6月18日まで続いた。
さて、天皇が明瞭に極東裁判から除外されると決って以後は、この裁判の国民にとっての意味は、
主として戦時中国民に知らされなかった事実が広く新聞報道による裁判記録として明らかにされることであった。
新聞は占領下という事情もあって、極東裁判を「文明の裁き」として大々的に報じた。
こうして「国民の99%まではツンボ桟敷に追ひこまれてゐた」ことが明らかにされた
(『朝日』46・7・7「天声人語」)。
また、日本のかいらいであった旧満洲国皇帝が証人として日本に来たとき、中野重治は次のような問題をなげかけた。
「満洲国皇帝溥儀が皇帝として日本へ来たとき、日本の天皇は一族をつれて東 東京駅へ出むかへた。
さて再び、しかし極東軍事裁判廷への証人として皇帝でなくなった溥儀氏が日本へ来た。 日本の天皇はどう事を処置したのだ」と。
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「もういちど読む日本戦後史」 老川慶喜 山川出版社 2016年発行
軍国主義者の追放
日本の国内外に配備された陸海軍の将兵は約789万人にのぼったが、
降伏後は武装解除・復員が進み, 日本の軍隊は解体・消滅した。
連合国は, 戦争犯罪者をきびしく処罰する方針をたて、通常の戦争犯罪のほかに,
「平和に対する罪」「人道に対する罪」も国際法上の犯罪とみたてた。
そして,
日本を侵略戦争に引きずり込んだものをA級戦犯,
従来の戦時国際法に規定された通例の戦争犯罪人をB級戦犯,
殺害・虐待などの非人道的な行為をおかしたものをC級戦犯とした。
マッカーサーは, 1946(昭和21)年1月に極東国際軍事裁判所の設置を命令し,
GHQの一部局である国際検察局を中心に被告の選定が進められ、同年5月に東条英機らA級戦犯28人を被告とする,
いわゆる東京裁判が開廷した。
東京裁判で問われたのは、日本が内戦に乗じて中国への侵略を本格化させた1928 (昭和3)年1月1日から,
日本が降伏文書に調印した1945(昭和20)年9月2日までの「平和に対する罪」,
すなわち日本を侵略戦争に駆り立てた共同謀議についてであった。
審理の結果, 1948(昭和23)年11月, 東条英機以下7名の死刑をはじめ、
全員(病死者など3名をのぞく)に有罪の判決が下され 12月に死刑が執行された。
しかし, 11名の裁判官のなかに は意見の対立があり, インドのパル, オランダのレーリンクらは反対意見を述べている。
国家の指導者個人が戦争犯罪人とし て裁かれたのは,かつて例のないことであった。
なお,BC級戦犯については, オランダ, イギリスなど関係諸国がアジアに設置した裁判所で5700人余りが起訴され,
984人が死刑 475人が終身刑の判決を受けた。
東京裁判は, 天皇を免罪としたこと, 731部隊の細菌戦などが問題にされなかったこと,
アジア諸国に対する日本の加害の事実が十分に明らかにされなかったこと,などの問題点はあったが,
侵略戦争を悪とし, 「平和に対する罪」を問題にしたという点で画期的であった。
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「昭和戦後史・上」 古川隆久 講談社 2006年発行 5620~5625
A級戦犯、軍事法廷へ
GHQは戦犯の処罰をすすめた。東条らの逮捕に引きつづき、昭和20年12までに、
近衛文麿元首相や木戸幸一内大臣など七九人の逮捕を指令し、近衛は出頭期限前日の16日に服毒自殺した。
彼らがいわゆるA級戦犯である。
ナチスドイツの戦争犯罪を裁くニュルンベルク国際軍事裁判が1945年11月にはじまっていたことを受け、
GHQはA級戦犯を裁くため、東京で極東国際軍事裁判を実施することを、21年1月22日に発表した。
東京裁判はじまる
裁判は、昭和21年4月28日に、東条ほか28人の起訴が決まり、
5月3日に、旧陸軍省の大講堂で開廷した。
ここはのちに防衛庁になり、その敷地内の市谷記念館に、大講堂の一部が保存されている。
裁判官は連合国から集められ、裁判長はオーストラリアのウィリアム・ウェッブ、
首席検事はアメリカのジョセフ・キーナン、各被告の弁護人は日米双方から集められた。
おもな起訴理由は、
満州事変以来の侵略戦争遂行の共同謀議、南京虐殺事件など戦時国際法違反の残虐行為の責任などである。
裁判は二年半にわたり、多くの証人が出廷し、多くの証拠書類が提出され、裁判の合法性から昭和天皇の戦争責任まで激しい論戦が交わされた。
東条ほか7人が絞首刑に昭和23年11月12日、判決が下された。
公判中の病気による免許や死亡をのぞき、絞首刑は東条ほか七人、無期禁固一六人、有期刑二人となり、
死刑は12月23日におこなわれた。
文官は比較的刑が軽かったが、唯一、首相や外相をつとめ 広田弘毅だけが絞首刑だった。
残りのA級戦犯は不起訴となり、24日に釈放された。
この裁判の合法性や、政府や軍の首脳が共同謀議で侵略をおこなったという裁判所の判断の妥当性については、
その後もさまざまな議論がなされている。
BC級戦犯裁判
A級戦犯のほか、捕虜や非戦闘員への虐待や殺害の責任者、実行者について、BC級戦犯の軍事裁判も連合国によっておこなわれた。
裁判はおおむね事件が起きた国の軍事法廷でおこなわれ、
日本国内での事件については、GHQが横浜地裁に法廷を設け、そこで裁判がおこなわれた。
裁判件数は2.244件、起訴された人数5.700人。
内訳は陸軍が75%、海軍が20%、民間人5%。
死刑984人、無期刑475人、有期刑2.944人、無罪1.018人、起訴取下げなど279人であった。
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