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小学館の図鑑「野菜と果物」 小学館 2013年発行
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トマト
明治時代に栽培されるようになり、
サラダで食べるようになったのは、戦後のことです。
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ナス
一年草。
初夏から秋まで実がつきますが、若い果実を収穫します。
日本では奈良時代に最初の記録があります。
「奈須比」と呼ばれ、煮物や漬物に人気のある野菜でした。
・・・
キュウリ
昔のキュウリは味が苦く人気はありませんでした。
生で食べるようになったのは、戦後に品種改良されてからです。
・・・
オクラ
日本には明治に入りましたが食べる人は少なかったようです。
ふつうに食べられるようになったのは、近年のことです。
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茂平の磯で食べれるもの
2022年01月02日 | 江戸~明治
海で捕るもの
あさりとつぶくれぃじゃ。
ところてんは拾いにいきょうた。
毎年できるゆうもんじゃあ、無かった。
藻の先にできる。
まちごうて他のを採ったりする。
たべるものがないのでそれでも食びょうた。
作者の小学時代、何回か採取してつくってたべて。もちろん、子供だけで、すべて(採る、作る、食べる)
2000・12・24
たいらげ
三角形のような。ねべぃ所におった。
砂のあるところにゃぁおらん。
つぶ
つぶはなんぼうでもどこでも。石があるとこ。
蟹
こおまい蟹がおった。そりょを獲ってたいてたびょうた。
ちいとの時はたかん。なんぼかようけい獲った時にじゃ。
親指くれいじゃ。おいしかった。
漁師が「こりょを獲ってたべりゃあうめんど」ゆうてようた。
こまいんで、獲るのが(ある程度の数まで)たいぎじゃった。
(母の話)いしもち蟹をたびょうた。
2001年10月7日
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芋飴
2022年01月02日 | 江戸~明治
母の話)
芋あめは売りにきょうた。
たくみさんのとこで。戦後神戸から帰ってきて。
おばさんは「テンプラはどうですか?」いうて売りにきょうた。
おじさんは自転車でトウフを売りにきょうた。
トウフは朝作って、それから芋飴をつくりょうた。
子供のいーさんは1番じゃった。中学を卒業する時に引揚げて神戸にいんだ。
金浦からは小麦を買いにきょうた。小麦を出せば、ちいとばあ「せんべい」をくれてんじゃ。
大事にしておやつにして食びょうた。
そのころはポン菓子が来ればようしょうた。
(父の話)
さつま芋で。芋を買うて作りょうたんじゃけい、高いもんにつく。
狭い家に住んどったが、なんでもやりょうた。
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2002年10月14日
ひしおを作る
2022年01月02日 | 江戸~明治
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岡山ふだんの食事
2022年01月02日 | 旅行メモ/下書き
「岡山ふだんの食事」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 平成12年発行
昭和40年代にはいると、米は過剰となる。
昭和45年頃から、麦飯や雑穀食、サツマ芋食はしなくなっていった。
昭和46年から、稲作転換が行われた。麦類の栽培はやめた。
海の魚
刺し身、塩干物
一般に刺し身を食べるようになったのは明治時代からである。
それまでは生ものを食べる習慣はなかった。
江戸時代以前は、魚は塩干物であった。
明治以降も塩干物が主体である。
生魚(鮮魚)は無塩(ぶえん)といって、尊ぶ風があった。
無塩は,日もちがよくないので、遠方まで運ぶことができなかった。
塩物や干物は、焼いたり、焦がしたりしたが、
味付けする時には、塩物は水につけて塩抜きし、干物は水でもどした。
県南の海の魚
瀬戸内海に近い村々でも、普段には、塩サバとか塩イワシなどを月に1~2回買う程度であった。
カツギ(担ぎ)
結婚式とか建前には、例えば笠岡市西浜(ようすな)の漁村で買い求めてのカツギ(担ぎ、担ぎ人)は魚籠を一荷にして、オーコ(天秤棒)で担ぎ、何人かのカツギがリレーで駆けて交代で吉備高原まで運んだ。
カツギは、運んだ距離によって賃金をもらった。
昭和10年頃までのことである。
サワラ
5月初め魚島でよく捕れる。
寄島町安倉などの漁港に荷揚げして、何人かのカツギがリレー式に魚籠を担いで、県中部(吉備高原)の村々に春のサワラを売った。
刺し身、煮つけ、塩焼き、なます、あら煮、吸い物、茶漬け、味噌漬けにする。
寒ザワラは、脂がのっておいしい。
ブリ
出世魚で祝い品、贈答品として使われる。
正月における本来の年玉である。
茶
江戸時代末期に国民的飲料になった。
畑の畔とか岸などに、チャの木を何本か植えておく。
春には新芽を摘み、冬の12月には軸から刈り取って,葉とともに刻み、蒸して干す。
岡山の食風俗
2022年01月02日 | 旅行メモ/下書き
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
米飯
米の飯を都市の庶民が食べるようになるのは江戸時代からである。
一般には、米飯は冠婚葬祭の時であった。
米麦飯
庶民は、昭和20年代までは半麦飯を食べる家は恵まれていたのである。
半麦飯を食べるのは願いであったし、贅沢ともいわれた。
麦飯にするのは南部地方では裸麦であったが、吉備高原では大麦であった。
平麦は昭和初期から第二次大戦後のことである。
平麦はヒシャギ麦などと呼ばれた。
糧飯
少量の米飯とか麦飯の中に、多くの野菜とか山菜とかをいれて塩とか醤油で味付けして食べる。
大根飯、菜飯、栗飯、蜂の子飯、稗飯、粟飯、黍飯、芋飯、豆飯、鮒飯、・・・・。
子供の間食
冷や芋、蚕豆や大豆の炒り豆、
春にはユスラ、ビービー、苺、スモモ、フームーサー、野苺、イタドリ、竹の実・・。
夏には、桑の実、野苺、オオカワイチゴ、ホンボロイチゴ、ビワ・・・。
秋には、トウガキ、ザクロ、アサダレ、ヤマブドウ、ナツメ、ニッケー・・。
冬には、アラレ。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
雑炊
ゾウスイ、ゾウシイという。オジヤは現代風で上品な呼び名である。
羽釜に2~3合の米と水を一杯いれ、野菜を沢山いれる。
団子や餅をいれれば団子雑炊という。大根が多ければ大根雑炊・・・・。
粥
白粥
水文の多少によって三分粥、七分粥などの区別があり。
梅干しとかコーコとかがあう。
小豆粥、ササゲ粥、ブンドウ粥、芋粥、栗粥、黍粥がある。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
薩摩芋
サツマイモ、イモ、琉球芋、カライモなどと呼んでいる。
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩から薩摩芋を取り寄せて普及に努めた。
笠岡市には芋博物館があった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
食用油
昭和20年代までは、庶民は1~2合、油を買ってきて、
ごく少しずつ大事に使ったものである。
ナスビとかタマネギに一滴か二滴落として食べたものである。
酢
庶民は橙酢、柚、梅酢などを用いた。
砂糖
江戸時代末期になってサトウキビが作られ、砂糖の製造が始まった。
大正時代までは黒砂糖、昭和になって白砂糖をも買うようになった。
紋日のほかはほとんど用いなかったものである。
大根
秋大根、夏大根、時無し大根などあって、年中生大根を食べることができるが、
大量に利用するのは秋大根である。
冬季期間食べる分は畑に残しておき、必要に応じて抜いてくる。
輪切りにして醤油か味噌で炊いた大根煮や味噌汁にいれる。
保存用としては干し大根、沢庵漬など大量に行う。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
捩干し
畑から抜いてきた小さい屑大根を窄るまで稲架または柿の木などに架けておく。
ネジボシとなる。
からからになるまで干す。
大根切干し
主として屑の大根を奇麗に洗って包丁で縦に二つか四つ割にして厚さ一分くらいに横に小さく切って蓆の上で干す。
糸に通して干すこともある。
乾燥した切干は保存しておいて煮つけにしたり雑魚と一緒に煮る。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
提灯切り
生大根を俎板の上で、ぐるぐる回しながら包丁で切れ目を入れていく。(笠岡市吉田)
熊山町では大根の両方に棒をあて、これを斜めに切り、再び裏返して斜めに切る。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
蕪
カブラ、カブともいう。
主として冷涼な地方で栽培されている。
茄子
ナスともいうが、ナスビと呼ぶことが多い。
平安時代すでに栽培されていた。
胡瓜
キュウリ、
日本には10世紀に伝わった。
唐辛
トウガラシ、
日本には桃山時代に伝わった。
辛くない唐辛はピーマンという、第二次大戦後広く食用とされるようになった。
カボチャ
南瓜とも唐茄子、サツマ、ボウブラともよばれている。
日本には16世紀に渡来した。
一般には味噌か醤油で煮て、おかずにして食べる。
トマト
明治に渡来し、昭和期になってから急速に普及した。
干瓢
夕顔の果実を細長く切って干したもの。
カビが生じやすいので保存する前に硫黄で蒸したりする。
蓮根
蓮根はハスの地下茎で、古く大陸から渡来した。
池、沼などに植えられ、水田の端で作ることもある。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
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果物
柿
日本に原生していただろうといわれている。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
梨
日本の中部以南に原生した日本梨、すなわちヤマナシが明治30年代に改良された長十郎や二十世紀が作られている。
岡山県では桃や葡萄とともに作られている。
ミカン
種種は多い。
庭木の菜園に一本とか二本、または畑の隅に一本とか植えておいて自給する。
イチジク
笠岡市茂平は産地で干イチジクにして出荷している。
枇杷
日本に自生していたようで、県南地方で家に近いところに一本程度植えておいて自給することがある。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
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漬物
庶民にとっては極めて重要なおかずであった。
「糠味噌くさい」というが、家伝ともいうべき漬物の味があり、匂いがあっても主婦の腕のみせどころであった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
沢庵漬
笠岡市吉田では秋、畑から抜き取った大根を木にかけて干し、しなびた大根を樽に漬けるのであるが、樽の底に大根をぎっしりつめて並べ,糠と塩をまぜたものをふりかけ、適当に唐辛をむしって入れる。
二段目にまた大根を並べ、糠と塩をまぜたものを、という具合にしながら足で踏みつける。
よく踏みつけておく方がよい。
一番上にはハブサといって大根葉を並べ、その上に板または蓋をして大きな石を置き重石とする。
四斗樽に二・三本漬ける場合が多い。
味噌と違ってコーコはその年漬けた分を食べるのであって、前年のものは古ゴーコといって焚いて食べたりする。
大根葉
純農家では大根葉は兎や鶏、牛に与える。
漬菜
白菜が多くなっているが、白菜が日本に入ってきたのは新しい。
栽培が普及したのは大正初めである。
笠岡市吉田では一斗樽程度のものに漬け、なくなればまた漬けるというふうに追加していく。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
梅漬
奈良時代には既に花をめでていたが、梅漬は江戸時代からである。
梅漬には、シソやショウガをいれる。
五升から一斗程度の甕に漬けておいて年中利用したものである。
弁当箱の飯に梅干一つを埋めて国旗弁当などと言ったものである。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
里芋
里芋は腐りやすいので、一日くらい干して裏山などに横穴を掘ってスクモをいれてかこっていることが多い。
繁殖した子芋を食べるほか、親芋も食べるし、ズイキ(芋茎)も食べる。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
ジャガ薯
ジャガタライモともいう。
県内ではキンカ薯、弘法薯、二度薯、三度薯、ジャガ薯、馬鈴薯などという。
笠岡市吉田では主として弘法薯と呼んでいる。
春、秋の二季の他に初夏の候に一番多く収穫するが、種取り分といって秋にも収穫する。
主屋や納屋の土間隅などに、そのまま置いて保存していることが多い。
・「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
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魚肉
無塩
生魚はブエン(無塩)といって尊ばれるふうがあった。
吉備高原や中国山地の村々では塩鰯や塩鯖またはイリボシなどの干物の魚を行商人がまれに売りに来る程度であった。
刺身を食べるようになったのは明治以後のことである。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
鰯と鯖
鰯と鯖は庶民にとって、最も代表的な魚である。
高瀬舟の復り荷物に積載した物資は塩鰯、塩鯖、イリコ。
月に一回も買わない家もあった、昔は米で支払ったものである。
塩鯖は年に5回くらい買ったという。塩鰯や塩鯖についている塩がまたよい麦飯のおかずになったという。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
鰆
5月初め魚島には、出買船が海上でサワラを買い集めて笠岡市西浜とか寄島町安倉などの漁港に荷揚げしてそれを何人かがリレー式に魚篭を担いで吉備高原まで運んだものである。
高原の村々では春の鰆として買ったものである。
その他
打瀬漁師が打瀬網でとったシャコなどをその日とれた分を売りに来たり、鯖、ボラ、メバル、アジ、カレイなどを行商に来た時、少しずつ買っていた。
秋には児島湾産の塩アミとか笠岡湾産のモガイまたはアサリなどをまれに売りに来ることがあった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
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肉
古代の日本は牛をイケニエ(生贄、犠牲)として神に捧げ、
酒を振舞い、肉を食べた。
中世以降、獣肉食の衰退は、仏教の殺生を嫌ったこと、土公神信仰の影響が大きい。
明治になって徴兵制が施され、軍隊内では獣肉食をさせた。
兵隊帰りが軍隊でおぼえた肉食を秋祭りなどでするようになり、庶民の間に広まっていった。
牛肉の鋤焼は大正中ごろ大阪でその名が起こったといわれる。
ごく新しい名称である。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
豚
明治以後各地で普及した。
トンカツにキャベツをそえて食べるようになるのは昭和7~8年以後のことであり、
キャベツは明治以降普及した野菜である。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
山羊
明治以後飼育の家畜である。
第二次大戦以降、欧米食の浸透が獣肉食を普遍化していった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
鶏肉
かつて民家では2~3羽の地鶏を放ち飼したものである。
夜になると鳥屋にはいってねたのである。
一羽は必ず雄鶏を飼い、自然交配で孵化させた。
一番ドリが鳴いた、二番ドリが鳴いたで、などで仕事に出かけた。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
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ハレの食事
鮨
県南地方ではバラ鮨を作り、全県的に巻鮨、狐鮨、押抜鮨が作られる。
赤飯
赤飯はオコワともウムシ(蒸し)ともアカメシともいう。
糯米とタダ米(粳米)を混ぜて甑で蒸す。
別の釜で煮た小豆またはササゲを上から入れてしばらく蒸す。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
餅
正月用や節句に搗くほかクゲイ(クガイ)の贈答に用いる。
自分の家で食べる米の餅はなるべく倹約をして黍餅や粟餅を多く用いるようにした。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
柏餅
カシワともいう。
米の粉の団子の中に餡をいれる。木の葉につつむ。
5月5日の節句に作る。
甑で蒸すことが多いが、羽釜の底に簀の子をいれて蒸気で蒸すこともある。
清酒
正月、節句、田植、秋祭、亥の子などの日や結婚式、建前などの他は、ほとんど買わなかった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
甘酒
笠岡地方では、旧1月11日の鍬ぞめにはカドに並べた農具や門松に甘酒を少しずつ供え、人も飲んだ。
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ヤッコメ
やっこめ・焼き米・・おやつにつくりょうた。生でも、湯にかけても食べれる。ササゲを混てもしょうた。
やっこめを漢字で書くと『焼き米』です。
保存食として作られるようになったのが始まりのようですが、お菓子の代わりとして食べられることもあったようで、岡山県では主に県北で食べられてきました。
作り方
青刈りしたもち米、うるち米を水に浸けておきます。
1昼夜ほど寝かしておいて、これを釜で煎ります。
煎った米を臼でつき、その行程で籾殻を除去しておきます。
この臼でつく行程で、独特の平べったい形が出来上がります。
早めに食べる場合は茹でた大豆やササゲを入れておきますが、保存食として長く置いておく場合はそのまま保管します。
保存食としてのやっこめの食べ方は、お湯と塩を加えて戻した上で食べます。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
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秋祭
一年中での、一番のご馳走を作るのが秋祭である。
何日も前から準備し、女は忙しい。
早朝に鮮魚の行商人が魚市をたてたりする。
カニ、イカ、タコを買う。
その他エビ、鯖、ナマコを買う。
揚げ芋を必ず作った。
狐鮨、巻鮨も作った。
お客には重箱へ一杯鮨を入れ、もう一つの重箱へ揚げ芋、魚、リンゴなどを入れて土産とした。
昭和36年頃から祭の客をしない家が多くなった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
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「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
キャベツ
大正時代以来品種改良が進み、急速に各地に広がって、
品種や種まき期、栽培地などの生み合わせで周年生産ができるようになった。
現在ではダイコンに次いで第二位の生産高になっている。
キャベツは、健康野菜として古代ギリシャ、ローマ時代から知られていた。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
エンドウ
江戸時代には栽培も広まり完熟果を利用するほか、青刈りの緑肥としても用いられていた。
本格的な栽培は明治時代から。
イチゴ
江戸末期、長崎に伝えられた。
「福羽」が明治32年生まれ以後、70年間作り続けられる。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
ジャガイモ
慶長年間に長崎に伝えられた。
わが国で本格的に栽培が始まるのは明治以降で、北海道の開拓と共に進められた。
岡山県南では3月初めてと9月初めが植え時で、「彼岸の20日目になったら種芋を植える」とおしえられた。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
スモモ
すでに「古事記」や「日本書紀」に登場している。
江戸時代の食べ方は生食が中心であるが、いろいろな加工もさえていたようでもある。
「三太郎」はサンタローザのなまりである。
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スイカ
中国では西域から来たことから「西瓜」と名づけられ、
わが国の呼称はこの漢名によるものである。
中国からわが国への渡来は南北朝時代と思われる。
スイカ栽培が普及するのは江戸時代の寛文年間(1670年頃)以降で、食用もこの頃から。
明治になると欧米から色々な品種が導入され、在来種との交配によって今日の栽培種のもとが生まれた。
(スイカを食べる人・松竹映画「馬鹿っちょ出船」)
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
ヒョウタン
「ひょうたんの里」として知られる岡山市灘崎町では、ヒョウタンの生産組合を作って生産と加工に力を入れている。
近年、青森県三内丸山遺跡の貝塚からもヒョウタンの種子が発見されたことから、
縄文時代すでに渡来しており農耕も始まっていた。
果実の外皮が硬いので、乾燥させて水や酒などの容器として、あるいは二つに割って水を汲む道具として利用されてきた。
サトイモ
わが国への渡来はイネよりも早く、稲作以前の主食であったとする説もある。
鍬を入れると、親イモのまわりに子イモがたくさんつき、さらに孫イモもついている。
その様子は子孫繁栄を象徴するようで、これも縁起のよい食べ物とされた。
アズキ
昔は祝い事がると必ず赤飯を焚き、親類や知人に配ったり、配られたりしたものである。
この赤飯やぜんざい、餡や和菓子などの原料として広く用いられているアズキは重要な食べ物である。
弥生時代遺跡からアズキが出土している。
江戸時代には菓子としての用途が広がった。
岡山県の中山間部でも良質のアズキが生産されている。
かつてアズキは作柄が不安定で投機の対象となって「赤いダイヤ」と呼ばれたことがあった。
今は外国産の輸入によってダイヤではなくなった。
ダイズ
煮豆や炒り豆をはじめ、
豆腐、納豆、湯葉などの加工品、醤油、味噌のどの調味料として、
大豆食品はどこの家庭でも必ず毎日の食卓にのぼっている。
わが国ではイネやムギと並ぶ五穀の一つに数えられている。
イネに次ぐ重要な作物として認識されていた。
栽培の容易なダイズはわずかな土地でも有効利用することができ、田のはぜにも良く植えられた。
かつては、どこの農家でも収穫したダイズで自家製の味噌、醤油、豆腐などを手づくりしていたものである。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
シイタケ
かつて、わが家の晩秋の仕事の一つにシイタケの菌の植え付けがあり、
子どもの私もかり出された。
ドングリの木(アベマキ)を切り出すことからはじまり、原木を担いで下す。
手回しドリルで穴をあけ「種駒」を詰め込んだ。
かつてはコナラ、シイ、クヌギの風倒木や切株に自然発生するものを採取していたが、
江戸時代に菌の発生を促進する方法が述べられている。
昭和18年に「種駒」を原木に植え付ける方法が開発されて、シイタケ栽培は飛躍的発展を磨げた。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
コンニャク
五穀の収穫の少ない山村を中心に栽培された。
庭先に堀り上げたコンニャクの球茎が、クワイほどの小さいものからカボチャ大のまで、大きさによって仕分けられている。
コンニャクの球茎は肥大が遅いので、出荷できる大きさに育つまで四年ほどかかる。
その間、毎年掘り上げと植え付けを繰り返すのである。
集荷できる四年玉の他は、すべて来春の植え込み用に貯蔵しておく。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
ダイコン
人々は古くから体験的にその栄養と薬効を知っていたのであろう。
ダイコンの料理法の多様さは他の野菜の追随を許さないものがある。
栽培面積も生産高も、わが国の野菜のなかでは群を抜いている。
ダイコンは日本を代表する野菜なのである。
わが国へは中国から渡来し「古事記」に登場している。
ダイコンは品種も多いので、播種期も収穫期もいろいろで、年中栽培することができる。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
クワイ
クワイが正月のおせち料理に用いられるのは、「芽が出るように」という開運の縁起をかつだものである。
クワイが数多くの子球を増やすことから、子孫繁栄の願いも込められたのだろう。
植え付けは6月下旬、田ごしらえした水田に種球を一個ずつ手植えする。
11,12月に収穫・出荷する。泥の中から拾い集めるという手間のかかる重労働である。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
ゴボウ
芳井地区では春から初夏にかけて播種し、晩秋から初冬に掘り上げる。
二本鍬で深く掘る作業は重労働で、現在は重機を組合で購入し堀り採るようになった。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
井原町史
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はっかと除虫菊は全町村で収穫されるという注目される特徴がみられた。
恐慌期に収穫は低迷したが、同八年から回復に転じた。
製糸業
昭和初期には
小田郡は養蚕業中心の地域、後月郡は製糸業中心の地域となる。
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矢掛町史
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養鶏
戦後養鶏規模が拡大され、
昭和45年では263羽になり、55年では2.016羽と驚異的に規模は拡大した。
逆に飼育農家数は低下の一途をたどった。
昭和48年のオイルショックによる飼料の高騰、卵価の安さは農家を苦しめた。
矢掛町史
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大正時代の城見村①生業
小田郡史(大正13年版)の城見村史より
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生業
本村は一般に農耕にて極めて僅少の商工者あるのみ。
農業は普通作にして傍ら果樹園芸除虫菊等の特用作物を栽培す。
副業としては麦稈及び真田紐製造養鶏等なり。
1・普通作物(大正4年調べ)
田 一毛作56町 二毛作27町
他
主要生産物
米 1567石 大麦4石 裸麦1936石 小麦496石
その他(栗、黍、蕎麦、大豆、小豆、そらまめ、ささげ、胡麻、甘藷。
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農業関係 肥料・野菜・果物その他
2022年01月02日 | 旅行メモ/下書き
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トマト なすび 唐辛子
大根 レンコン
ほうれん草 ごま とうがらし
しゅんきく にがうり にんにく 茶 綿 稲 麦 ふき
砂糖きび 繭(養蚕) 黍・粟(きび・あわ) へちま さとうきび
薩摩いも 薄荷・除虫菊その2
ひまわり 除虫菊 薄荷
葉タバコ ミツバチ ししゃ しいたけ ブンズ
ずいき かんぴょう
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城見の麦畑
2022年02月15日 | 農業(農作物・家畜)
「井原の歴史」によれば、昭和30年代まで米麦二毛作が主流であったそうだ。
大正13年の「小田郡史」の城見村は二毛作は1/3。
麦作は畑で作るのが半分くらいだったようだ。
・・・・・
「井原の歴史」井原市史編集委員会・重見之雄 いばら印刷 平成13年発行
米麦二毛作
この地域においては昭和30年代頃まで、水田耕作の主流は米麦二毛作であった。
そこで米作と表裏の麦作について、その作付面積と収穫量は、
昭和23年には稲をかなり上回る約1800ヘクタールにも及んでいた。
当時は水田の裏作だけでなく畑でもかなり栽培されていたことを物語る。
しかし30年代から急速に減少しはじめ、50年代以降とるに足らない状況になった。
・・・・・
小田郡史(大正13年版)の城見村史より
生業
本村は一般に農耕にて極めて僅少の商工者あるのみ。
農業は普通作にして傍ら果樹園芸除虫菊等の特用作物を栽培す。
副業としては麦稈及び真田紐製造養鶏等なり。
1・普通作物(大正4年調べ)
田 一毛作56町 二毛作27町
他
主要生産物
米 1567石 大麦4石 裸麦1936石 小麦496石
その他(栗、黍、蕎麦、大豆、小豆、そらまめ、ささげ、胡麻、甘藷。
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トマト なすび 唐辛子
大根 レンコン
ほうれん草 ごま とうがらし
しゅんきく にがうり にんにく 茶 綿 稲 麦 ふき
砂糖きび 繭(養蚕) 黍・粟(きび・あわ) へちま さとうきび
薩摩いも 薄荷・除虫菊その2
ひまわり 除虫菊 薄荷
葉タバコ ミツバチ ししゃ しいたけ ブンズ
ずいき かんぴょう
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食事③果物・漬物・魚・肉 (吉永町史)
2020年08月31日 | 市町村史
「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町 昭和59年発行
記述は、昭和35年ごろまでの食事である。
果物
カキ
フユウガキや渋ガキがある。
渋ガキは、
ゆでて渋抜きをして食べたり、
皮をとって、干し柿にする。
ナシ
古くからある。買って食べる。
イチジクその他
気温が低いので育ちにくいといわれる。
柑橘類も育ちにくい。
ユズはユズ味噌にしたりユズ風呂にはいる。
漬物
沢庵漬け
コーコ(香香)といい、米糠と塩をまぜたものを、ひなびた大根にふりかけ、
四斗樽につめる。
毎年秋に、
四斗樽にコーコ2~3樽漬けた。
早く食べる分として、大根の浅漬けを一樽、白菜漬けを2~3樽であった。
漬物は主要なおかずであったので、味噌樽なども数えると10樽は並んでいたという。
海魚
昔は魚行商人が来なかったので、塩イワシとか塩サバなどや煮干し(いりぼし)なども、出かけたときに買ってきたという。
結婚式のなどの祝い事のときには、
片上や日生、赤穂や相生まで買いに行った。
ところによっては、行商人が天秤棒で担いで、煮干しなどの干し物や塩サバなどを売りにきた。
盆にはコブとかワカメなども売りに来た。
いつのころからか、無塩(鮮魚)のイワシやサバ、タコ、イカ、シャコなどを日生や片上から行商にきた。
淡水魚
フナ、白アエ、ウナギ、ジャコなどは谷川で釣るし、石垣の穴に手をいれて握り捕る。
竹串に刺して焼き、干す。
客がみえると、焙っておかずに出すとか、祭りに利用した。
半ば専業に川魚を捕って行商をし、生計を立てた人たちがいた。
川べりに、草ぶき屋根で、小屋掛け程度の簡素な家を建て、ウナギとかハエを捕って、無塩または干し魚にして売りにきた。
牛、馬、豚肉
牛肉、馬肉、豚肉は、かつては食べなかった。
百姓は牛を大事にし「牛は百姓の福虫」といった。
牛肉をクドで煮て食べるようになったのは、大正末から昭和初めという。
馬肉や豚肉の食用は第二次大戦後のことである。
鶏肉
鶏は、大抵の家で2~3羽飼っていた。
卵は保存しておいて、客がみえた時におかずにしたり、子どもの学校弁当に、時々いれたやった。
鶏肉は牛肉などより、早くから食べていて、正月、祭り、来客などの時に、殺して調理した。
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(暮らし)
風呂
昭和の初期ごろまでは、木桶の五右衛門風呂を据えていたが、鉄(かな)風呂へとかわる。
かけ湯や、抜き捨て湯は、下に掘ってある壷に入る。
せわしい農家にとって、度々風呂を沸かすわけには、いかなかった。
クミイケなどから、水たごで2~3荷運んでいれる。
焚くには時間がかかった。
風呂を沸かすとお互いに、隣近所で知らせあった。
夏ならスイカを割って食べさせるとか、冬なら炬燵に入って、氷餅を食べながら世間話をする。
貰い風呂はコミュニケーションになった。
庭木
屋敷内に植えて、よい木とわるい木がある。
よい木としては、
松、竹、梅、カエデ、カシノキ、クスノキ、サルスベリ、モックなどである。
わるい木としては、
ザクロ、ビワ、イチョウ、フジ、ヤナギ、ゴヨウノマツなどだという。
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蚤(ノミ)を捕る
2016年07月10日 | 暮らし
母の話・2001.1.1
ノミを捕る
(母は蚤捕りの名人と思えるほどノミを捕るのが上手かった)
ノミは今はおらんようになったけぇようなった。
履物
女学校はズックじゃ、それより前は・・・もう、おぼえとらん。
米と麦
5部と5部なら「おお麦飯」じゃ。
7と3なら食べられる。
米の飯
隣の野々浜の親類のおばさんが、
「だまされた思うて米の飯を焚いてみなされい
麦飯は2杯も3杯もメシを食べんと腹がふくれんけど
米の飯は一杯で腹が膨れ、結局その方が安ぅつきます」
ほんとうじゃった。
(桃やビワの)袋掛けにきてくりょうちゃった。
そのたびに思いだしょうた。
乗り物で行く遠足
旅行の時は汽車に乗って笠岡の城山に行きょうた。
遠足は
嫁要らずの観音さま。ちょうどええ距離で定番じゃった。
美星の方まで歩いていきょうたこともある。
賀山の摩利支天さま
戦時中には、あれに大勢参りょうた。
それで、拝む人が要るゆうて
あがりこぐちのよねやんゆう人が専属で拝むようになった。
戦争の神様じゃゆうて、
「元気に帰れますように」拝みょうた。
郷の方からも拝みにきょうた。
今は正月3日に棟上げをするようになった。
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子供のおやつ
2015年11月29日 | 暮らし
おやつと言えば「ふかし芋」が一番多かった。
珍しいと言えば、カブトガニ。
美味かったのは、食用ガエル。
蜂の幼虫や雨蛙は遊びを兼ねて食っていた。
岡山県史・民族1より転記
大正の初め頃まで田舎の農家では、盆正月・祭り・婚礼・葬式・祝い事などや、町からの来客のみやげのもらい物の生菓子、饅頭が口に入るくらいだった。
食い意地盛りの子供たちは、家のまわりの柿・梨・栗・ナツメ・ビワ・グイビ・ユスラ・山ナスビ・野イチゴ・スカンポ・万太郎ミツ・松緑・ガブ(野ぶどう)・アケビなどに気を配っていた。
栗の木の虫を焼いて食べたことなど今の子供にはないだろう。
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昭和20年 農作物9月12月 報告表
2015年07月18日 | 昭和20年(戦後)
小田郡城見村の役場綴りに保管されている。
終戦当時の畑作物がわかる。
小田郡城見村 昭和20年9月末日
作物名 面積 実収高・貫
タマネギ 2反 450
キュウリ 7 1600
カボチャ 3町0 5800
スイカ 1 400
トマト 4 1230
秋播キャベツ 1 285
マクワウリ 0 0
ユウガホ 1 16
ラッキョウ 9 1800
エンドウ 2 400
ソラマメ 3町4 32石
ジョチュウギク 栽培面積6町9 収穫面積 14.町9 1242貫
タケノコ 1町 1町 850貫
コウゾ 0 0
ミツマタ 0 0
モモ 16町2 40750貫
ビワ 4町5 7200貫
ウメ 0 0 110貫(畦等で栽培)
イチジク 4町1 83000貫
小田郡城見村 昭和20年12月末日
秋植馬鈴薯 9町8反 18620
小豆 13町3反 10石
キビ 3町0 30
アワ 6反 7
ヒエ 0 0
ソバ 3町5反 34
サトイモ 7反 1190貫
ダイコン 1町9反 5700
カブラ 0 0
ニンジン 0 0
ゴボウ 7反 2400
ナス 5反 1500
春播キャベツ 1 400
結球白菜 4 1200
非結球漬菜 1 350
トウガラシ 0 0
ヤマイモ 0 0
ゴマ 1 1石
イチビ 0 0
ワタ 0 0
ミカン 3町1反 ○540貫(注・ミカンの数量は間違いもあり)
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「金光町史」
昭和恐慌
金光町、鴨方町辺でも麦稈真田の輸出減退により価格が大暴落した。
麦稈真田の不振と養蚕業の低迷から抜け出す方途として製帽工業や葉煙草に見出そうとする農家が増えている。
岡山県でも、農業の不況と農村の疲弊が深刻化する中で、
農家経済を維持するため各種の商品作物、家畜などを導入し経営の多角化を図り、
副業の奨励を図った。
農家にとっては別の自衛措置への道でもあった。
葉煙草などと共に、桃、ブドウ、日本ナシ、西洋ナシ、カキなどの生産にも力が入れられ、岡山の「果樹王国」への基礎がつくられた。
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「金光町史」
戦時中の食生活
日中戦争が始まり、食べものが不足し、配給制度ができた。
金光町のほとんどが農家であったので、十分とはいえないが食べるぐらいのものはり、保有米を残して、あとはすべて供出した。
配給の主体は主食で、醤油や酒も配給であった。
農家でも米は小米を使い、半麦飯であった。
サツマイモ、ジャガイモ、南瓜も主食代わりになった。
農家では自家栽培ができたので有利であった。
サツマイモはたくさんゆでておき、ご飯代わりに食べた。
またタマネギと南瓜をよく炊いて食べたが、甘い物がなかった時代なので、甘くておいしかった。
昭和23、24年ごろまで食糧難は続き沙美まで行って樽に海水を汲んで来て煮詰め、塩の代わりにしたこともあった。
また、砂糖の代わりにサッカリンも使用された。
戦中戦後の食糧難とはいえ、自給できる田畑をもっていた金光町では、
芋の茎や野草を食べるほどの極度の食糧難はなかったようである。
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「真備町史」 真備町史編纂委員会 昭和54年発行
隣組の班長
隣組の班長は重大な責任があった。
この隣組は戦時中大政翼賛会下部組織として制度化されたのが昭和15年3月。
その後内務省令により全国的に組織され、毎月何回か常会を開いて物資の配給の仕事や国債の割当や国防献金、金属の供出、出征兵士の見送り、防空演習など近所同志助けあう手段であって、これに回覧板がよく廻ったもので、それが現在まで尾をひいている面もあり、各地区ごとにこの町でも行政連絡員が居り、諸種の伝達事項を扱ったりしている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「日本歴史21 近代8」 岩波講座 1977年発行
開戦後の大政翼賛会第二次改組
翼賛会はすでに、もっぱら内務官僚が主導する上意下達の行政補助機関さらには戦意昂揚のたまめの国民運動機関となっていた。
東条内閣は開戦後、翼賛会強化のための機構改革方針を示した。
それが42年5月15日の機能刷新に関する閣議決定である。
要点は、
第一に
官製国民運動を一律に翼賛会の傘下に統合すること。
戦意昂揚の啓蒙運動や増大する戦時行政事務を、国民に負担させる中間組織としての性格を強めた。
第二に
町内会・部落会・隣保班(隣組)を直接に翼賛会の指導下におくことだった。
約154万人の世話役と世話人が誕生し、翼賛会は部落会・町内会・隣組の指導者を丸抱えすることになった。
こうして国民は、居住地において世話役と世話人をつうじて内務官僚と警察の支配下におかれ、
隣保によって相互に監視させられ戦争協力にかりたてられることになった。
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とくに戦時下の国民生活において部落会・町内会・隣組のはたす役割は決定的であった。
急増する戦時下の行政事務はいっそう部落会・町内会に転嫁され、末端の隣組をつうじて国民に伝達された。
その内容は、住民の登録、生活物資の配給、国債の割当消化、貯蓄の奨励、金属回収、一部税金収納事務、労働力提供、政府の宣伝の普及、警察情報の提供、出征兵士の歓送、戦災の証明、防空活動など国民生活のあらゆる側面にわたった。
しかもこれらの動員のため国民一人々々の私生活の監視・干渉がすすみ、
日常生活の画一化が極端におしすすめられた。
同調しなければ周囲から「非国民」「国賊」の避難をまぬがれないという社会的雰囲気がもたらされた。
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「岩波講座 日本歴史21」 1977年発行
1945年8月の第二次世界大戦における日本の敗北は、日本歴史上もっとも大きな転換点であった。
政治、経済、社会のあらゆる面に、敗戦がもたらせた衝撃は、かつてどのような事件にもまして大きいものがあった。
戦前と戦後の日本を比較すると、短時日の間におこったその変動の量と質は、
他に比べるものがないほど大きい。
しかし一面からいえばその変化は、8・15によって突然もたらされたものでないことはいうまでもない。
この変化を生み出す条件は、未曽有の大戦争をたたかい続ける中であらゆる面にわたって進行していたものであり、
それが敗戦によって行われたのである。
。。。。。。。。
本土決戦は全国民を死のみちづれにすることが明らかでありながら、
戦争指導者たちは具体的な戦争の終結への動きを示さなかった。
それが始まるのは、本土空襲が激化し、民心の離反が明らかになり、
体制存続の危機を感じとった時以後であった。
1944年11月7日のロシア革命記念日の演説で、スターリンは日本を侵略国と呼んだこと、
1945年2月ソ連の極東兵力の増強が見立ちはじめたこととあいまって、
ソ連の対日参戦の危機がせまっていることを陸軍は強く憂慮しはじめた。
4月27日チタにいた中ソ大使館対武官浅井中佐から
「1日12~15列車におよび開戦前夜を思わしむものがあり。
ソ連の対日参戦は今や不可避と判断される」との電報が参謀本部に到着していた。
5月にはいると極東ソ連軍の兵力増強はますます顕著になってきた。
こうしたソ連軍の増強にたいして、関東軍の兵備はとうていこれにたちうちできない状態になっていた。
大部分は南方、沖縄などに引き抜かれていたが、残っていた3個師団を本土に転用したことによって、常設師団は皆無となった。
この穴埋めに新たに装備の劣る新設師団を作り、在留日本人を根こそぎ動員して、
ようやく16個師団となったが、その実態は装備も劣り、とうていソ連軍の攻撃に耐える力を持たない状態であった。
大本営は45年4月末から本格的な対ソ戦の検討を始めた。
中国戦線を放棄するか、満州をも放棄して本土決戦に専念するか、結局は東南部の山岳にたてこもることになった。
いずれにせよソ連の参戦は、日本の戦争遂行にとって最悪の事態をまねくという認識では一致していたのである。
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「日本軍事史」 高橋・山田・保谷・一ノ瀬共著 吉川弘文館 2006年発行
戦死者の墓はなぜ大きいか
日中戦争期、戦死者用の墓の建て方「マニュアル」として編まれた『遺族よ墓は斯う建てよ』なる書物は、その理由を端的に示す。
ある戦死者の母が「尽忠報国の武勲は対等であっても、富めるが故に墓石が大きく、貧しきが故に小さければ,後代への心残りも伴ひます」、
国が墓石の規格を決めてくれないか、というのが要旨である。
戦死者には「賜金」、正式には死没者特別賜金が、戦死・戦病死者の遺族に国から与えられる金で、
陸軍一等兵で1.300円と当時としてはかなりの大金であった。
遺族たちが墓の大きさを競争に走り得た背景には、そうした事情があった。
遺族たちが墓の大きさにこだわったのは、「みすぼらしいものでは故人に申訳ない」という心情によるものだった。
だが、それは
「遺児の養育,其他、将来益々家門を顕揚する為」という賜金本来の趣旨にも、
戦死者の意にも添わなかっただろう。
心情は、近隣間の体面、名誉の競争という横の方向へと向かい、
けっして”反戦”というかたちで上に向かうことはなかったのである。
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「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会
自家製塩の奨励
塩田労働者を徴兵・徴用に奪われて、塩の生産も落ち込んだ。
前年晩秋から、漬物用の塩不足が問題となり、この年5月国は専売法での製塩制限を撤廃して、自家製塩の奨励を始めた。
燃料不足で、鹹水(かん水)をそのまま利用せよ、という指導に変わった。
さらに輸送不足も加わり、漬物用塩の特配が遅れ、山間部で深刻な問題となった。
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「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会
学校農園
前年から始まった空地利用の食糧増産は、県下の中等・青年・国民学校700余校の校庭に及び、学校農園と呼ばれた。
中等学校・青年学校は教練・体操用に必要な最低面積を残し、
国民学校は一人当たり0.8坪分を残し、すべて掘り返され畑になった。
甘藷、ジャガイモを栽培した。
玉島高女では馬糞拾いに精出した。
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「岡山県史 現代Ⅰ」
1944年(昭和19)より未利用食糧の供出運動が起された。
さらに1945年11月に岡山県は未利用食糧資源集荷促進要綱を定め、
カンショ茎葉・葉柄・ドングリ・大根葉などの米の代用品としての供出出荷が促進された。
なお1946年1月からは、
ミカン皮・クズ根・クズ澱粉、同年7月からは
ニンジン葉・ゴボウ葉・里芋葉・カボチャ種子・ヨモギ・茶がらなどが
米の代用品として追加指定され、政府買い上げ対象となり供出された。
これらの未利用食糧は主に乾燥され出荷され、
製粉して干パンやパンに混入されたが、
特に芋づるやドングリ・米ぬかなどの多く混入されたパンなどを「ドンツク」または「ドンツクパン」と呼び、味はともかく多くの人々に親しまれた。
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「食の人類学」 佐藤洋一郎 中公新書 2016年発行
小麦
小麦は冬作物で、春に播いて秋に収穫するイネとは、作期上の競合はない。
麩(ふ)は精進料理の素材として重宝されてきた。
醤油は、水と小麦と大豆に発酵が加わってできた食品である。
製法は小麦と大豆を加熱し、さましたうえで麹菌をさようさせて発酵させたところに食塩水を加えてさらに発酵させ、寝かした後に搾って作る。
醤油が今のかたちになったのは室町時代以降のことといわれ、
それ以前は搾る前の醤(ひしお)が調味料として使われていたらしい。
小麦粉を水に溶いて作る食品は、
うどん、そうめん、ほうとうなど。
焼く、煮る、ゆでる、という方法があり
豚まん、あんまん、ワンタン、餃子、ドーナツ、揚げパン、お好み焼き、たこ焼き、もんじゃ焼き、などがある。
「食の人類学」 佐藤洋一郎 中公新書 2016年発行
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