しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年②本土決戦と「一億総玉砕」

2023年08月05日 | 昭和20年(終戦まで)

「竹槍から鎌、ナタ、玄能、出刃包丁、鳶口に至るまで、
刀、槍は敵兵の腹部めがけてぐさりと突き刺す。
みぞおちを突くか、睾丸を蹴る。
一人一殺でよい」

まるで原始時代か古代を思わすが、昭和の戦時中、国民に配布した『国民抗戦必携』に書かれたもの。
最期に”神風が吹いて日本が勝つ”、それを国民に押し付けた。


兵器も、食べものも、着るものも、学校もなくなったが・・・日本には”大和魂”がある!、とされた。

・・・

 


「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

本土決戦の現実

昭和20年6月8日の御前会議で「挙国一致皇土決戦では国民義勇隊の組織を中軸とし・・・」と記され、
国民義勇隊の組織化には大きな期待が託されていた。

国民義勇隊は、
官公署、会社、事務所など多数を擁するところはその職域ごとに、
その他のところでは、一定地域ごとに組織され、
老幼者、病弱者、妊産婦などを除く範囲の国民が参加することとされた。

隊員は皇国護持の精神のもとにその各々の職責を全うしながら、次のような活動に積極的に出勤するものとされた。
防空および防衛、空襲による被害の復旧作業、重要物資の輸送、工場の疎開、
食糧の増産等に関する工事や作業、陣地構築、兵器・弾薬・糧秣の補給輸送などである。
国民義勇隊はさらに、情勢が急迫し本土が戦争になるときには、国民義勇戦闘隊に移転するものとされた。

6月23日、これに法的根拠を与えるため義勇隊兵役法が公布・施行された。
これにより、
年齢15歳に達する年の1月1日より60歳に達する年の12月31日までの男子、
年齢17歳に達する年の1月1日より40歳に達する年の12月31日までの女子が義勇兵役に服することになった。
「一億特攻」をスローガンに、全国民の軍隊化がはかられたのである。

しかし、正規の軍隊でさえ武器・弾薬の不足に悩まされていた状況下、一般の国民である義勇隊に与える余分の武器・弾薬が、充分にあろうはずはなかった。
したがって国民には徹底的な精神主義が叩き込まれ、
まともな武器もないままに自らの命を賭して敵に立ち向かうことが強要された。

当時大本営陸軍部が国民義勇隊に敵と戦う方式を示す目的で発行し、一般に配布した「国民抗戦必携」には、
「対戦車肉薄攻撃」
「挺身斬込み戦法」といった捨て身の覚悟での戦い方が解説してある。
「白兵戦闘と格闘」の一節には、こんなくだりがある。

 

 

「銃、剣はもちろん刀、竹槍から鎌、ナタ、玄能、出刃包丁、鳶口に至るまで、
これを白兵戦闘兵器として用いる。
刀、槍は敵兵の腹部めがけてぐさりと突き刺す。
ナタ、玄能などは後ろから奇襲する。
格闘になったら「みぞおち」を突くか、睾丸を蹴る。
一人一殺でよい。

アメリカ軍の近代兵器による猛攻撃を前に、日本の国民は竹槍、鎌、ナタなどを手に戦おうとしていた。
一億玉砕。
本土を舞台にして、沖縄と同じ悲劇が再び繰り返されようとしていた。

 

・・・


「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

九州防衛の実情

日本側はアメリカ軍の本土侵攻の時期、上陸地点をほぼ正確に予測していた。
上陸地点としては
宮崎海岸、
志布志湾、
吹上浜、
の三方面があげられていた。

日本側にとって何よりも急務とされたのは、
アメリカ軍を迎え撃つ陣地を構築することだった。
上陸予想地点を中心に各地で、兵隊のほかに学徒隊や女子挺身隊も動員して、
陣地構築のための穴掘り作業が連日続けられた。

第二五師団師団参謀をつとめたT氏は、陣地の構築については、次のように語っている。
「だいたいね、永久築城というコンクリートを使ったのはどこもやってないんですね。
土や泥で造ったのに穴掘ったという程度のところが大部分でしたね。
私は鉄筋コンクリートを使ったやつはこの地方では全然知りません。
もう造る余裕がなかったのです、資材がなかった。
旅順の二〇三高地なんかには、今でも堅固な要塞が残っていますがね、
あんなものは一つも造っていませんよ」

 

 

第二総軍作戦課長だった大佐はこう語っている。
「日米の師団数はほぼ同数。
日米の戦力比は1対10。
わが方は決死敢闘、玉砕戦法あるのみ」
日本の勝算はほとんどなかった、しかし
一般住民に対しては、郷土防衛のため、軍と同様に特攻精神をもって参加することを求められた。

 


・・・


「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

一億玉砕へ

6月6日の最高戦争指導会議
秋水月三総合計画局長官と迫水久常内閣書記官が、
「国力の現状」と「世界情勢判断」と題する文書の説明を行った。
「国力の現状」は、戦争遂行能力がなきにも等しい日本の現状を正確に描き出すことになった。

例えば「輸送力」については、
使用船腹量急減、しかも燃料の不足、敵の妨害激化、荷役力の低下・・・本年末に於いては殆ど皆無に近き状態に立至るべし。
「鉄道」輸送力は前年度の1/2に減退。極地輸送になるおそれ大なり。
「鉄鋼」生産は原料・輸送困難で前年度1/4程度に陥る。

「国民生活」についても絶望的な記述が続く。
食糧の逼迫は漸次深刻を加え本端境期は開戦以来最大の危機にして、
大陸糧穀及び食糧塩の計画輸入を確保し得るとも、
今後国民食生活は強度に規制せられたる基準の糧穀と生理的必要最小限の塩分を漸く摂取し得る程度となるを覚悟せざるべからず。
さらに海外輸移入の妨害、国内輸送の分断、天候及び敵襲等に伴う減少等の条件を考慮に入るるときは局地的飢餓状態を現出するの虞あり。

国力の現状は、誰がみてももはや戦争を継続することが不可能な日本の姿だった。
しかし、
説明にたった秋永長官は生産の増強は不可能にあらずとの意見を語った。
最大の障害は「生産意欲ならびに敢闘精神の不足」であると、問題をすり替え、
精神力を高め、施策を徹底しさえすれば本土決戦は可能だとされたのである。

 


・・・


「終戦史」  吉見直人  NHK出版 2013年発行

『一億総玉砕』

敗色濃厚となり、日本中の都市という都市が空襲で焼かれてもなお、
狂気にかられた陸軍は一億総玉砕を叫んで徹底抗戦へと暴走し、
国民には竹槍で戦うのだと瞑想じみた精神主義を押し付けて道連れにしようとしたのだと、戦後ずっと我々は思っていた。


本土決戦

第二総軍作戦課長だった井本熊男大佐は戦後の自著で本土決戦準備を詳細に書き残している。
「陸軍兵器の充足の目途は立たなかった。
6月末現地視察によれば、
敵の戦車を破壊し得る火器はほとんどない。
小銃を持たなかったり、射撃すらしたことのない歩兵が多数おり、
持っていても中学校の発火演習用だったり、銃身の中が腐敗して実射が危ぶまれるものが多い。
銃剣がなく竹のヘラを腰に差している兵が多い。
気の毒なような老兵が少なくない。
陣地らしい陣地ができてない。
部隊は陣地構築に専念していて訓練をする実施する閑がない。
結局のところ、6月7月の実相として、敵のわずか1/30程度の戦力しか本土にはなかった」
当時、日本本土には一撃を加える力さえ残っていなかった、とみるのが妥当なところであろう。


水際決戦

本土決戦構想をみていくと、
陸軍上層部は「水際に於ける敵の必然的弱点を追及する」。
中堅層は「内陸部での持久戦を容認し」
現地部隊は、なるべく内陸部に陣地を構築する傾向があった。
通達は要するに軍をあげて水際に向かって総突撃を行って決戦せよ。
その際の大損害の如きは考慮するな。
後退配置などはとらない。


・・・・

 

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昭和20年①戦局は好転の見込み絶対なし【近衛上奏文】

2023年08月05日 | 昭和20年(終戦まで)

日本軍はレイテ戦で敗れ、マッカーサーはフィリピンに上陸した。
昭和19年から、日本の戦争は転げ落ちるように負け戦をつづけていた。

しかし、そもそも、開戦以前からそれは日本の指導層が認識していたことだった。
昭和20年2月、指導層で初めて近衛公が”敗戦”という言葉を使った。

 

・・・

 


「日本の歴史14」 研秀出版  1973年発行 

日本本土空襲

米国はB29をつくりだしとともに、昭和19年春から夏にかけて
中国四川省成都などに基地を設け、
満州・北九州・台湾の製鋼工場を爆撃。
昭和19年11月にはマリアナ基地から日本本土空襲を始めた。
11月24日から昭和20年3月9日まで、高度1万メートルから、
航空機工場を狙った。
精度は悪く,効果は少なかった。

昭和20年3月10日以降、
夜間の都市爆撃に切りかえ、低空(6.000m~8.000m)から焼夷弾攻撃をした。
とくに最初の東京下町爆撃では、
130機が2時間半で東京を4割を焼き、死者8万、負傷者10万、罹災者100万をだした。
攻撃は四方から包囲し、まず外側に火をつけ住民が逃げられぬようにして、
じゅうたん爆撃をしたもので、みな殺し作戦であった。
日本を焦土にした司令官ルメイには、昭和39年に佐藤首相から勲一等旭日大綬章をおくった。

・・・

 

 

・・・

「日本海軍の終戦工作」  纐纈厚 中公新書 1996年発行

「サイパン戦以来、海軍当局は連合艦隊はすでに無力化せりといい、
陸軍当局もまた戦局全体が好転の見込み絶対なしと一致せるものの、
只これを公言する勇気なしという現状なり」(近衛日記)

 

近衛上奏文

天皇は戦局悪化への不安から陸海軍当局者に対し、戦況の詳細に関する下問を行った。
これに対して陸海軍の両統帥部長は悲観的な報告を述べる一方で、
まだ最終的な反撃の余地はある判断を明らかにしていた。
これに加えて木戸自身が、この段階においても陸海軍主戦派の力量を評価していた。
近衛は陸軍主戦派から戦争指導の主導権を完全に奪わないと「国体護持」は到底無理であり、下手をすると国体破壊まで行きつくと考えていた。
昭和20年2月14日、
近衛は天皇に拝謁し以下のような上奏を行った。
それが有名な近衛上奏だ。

敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。
敗戦は我国体の一大瑕瑾(かきん)たるべきも、
米英の世論は今日迄の所、
国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、また将来いかに変化するやは測知し難し)
随って敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存候。

 

この近衛の上奏を契機に、天皇が梅津ら陸軍主戦派の言い分に全面的な信頼を寄せなくなりつつあったことは確かだった。

 

・・・

尚、

上奏文の写しを所持していたというだけで、外務省の吉田茂は憲兵に逮捕された。
しかし、そのこと(逮捕された)が戦後勲章となり、総理大臣となり、死は国葬で送られた。孫の一人も総理大臣までなった。

 

 

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