しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

伊勢大神楽

2023年08月30日 | 失われた仕事

笠岡市にも「伊勢大神楽」は回ってくるが、
くる地区と、こない地区がある。

毎年のほぼ決まった時期に、事前に葉書が届き、家々の玄関口や庭先で演じる。
初穂料によって短時間に終わったり、長時間舞ったりする。

 

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「旅の民俗シリーズ・生きる」 旅の文化研究所 2017年発行

旅芸人
かつては、芸人の旅も多かった。
越後の角兵衛獅子、伊勢の太神楽、西宮のえびすかき、周防の猿まわし、
筑前の琵琶法師など広く知られている。
そのうち、太神楽と猿まわしは、
移動(旅)のかたちを変えながらも現代に伝わっている。

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「神楽と出会う本」  三上敏視  アルテス 2009年発行

伊勢大神楽

獅子頭を奉じて移動する
神楽のプロフェッショナル

伊勢大神楽は「移動する神楽」で、今でも西日本を中心にほぼ一年中檀那場(だんなば)と呼ばれる村落を巡り、
一軒一軒訪ね歩いて神楽を奉じる「回檀(かいだん)」をメインとしている。

その内容は獅子舞と放下芸(曲芸)で構成されていて、
生きた芸能史としてもたいへん貴重で、
国の重要無形文化財に指定されている。

江戸時代から伊勢にお参りに行けない人たちのために
神楽奉納の代役を務めるということで伊勢神宮のお札を持って
地域をまわり、獅子を舞わせて祈祷をし、
神社の境内などで放下芸を含む「総舞」という芸能を披露して娯楽のない村人を楽しませ、
初穂料などの収入を得ることを生業としてきた。

 

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大神楽


大神楽(だいかぐら)は伊勢の大神楽、太神楽の字をあてたりする。
今も、佐々木金太夫一座が町内各地に回ってきて、
獅子舞をしてかまどを清めたり、お札を配布したりする。
かつては、大きな家のかどや荒神さまの庭などで、大神楽をしていたものである。
三番叟のあと、次々といろいろな曲芸が行われた。
茶碗や皿を棒の上で回したり、鼻にのせたり、水のはいったコップを長い棒の先にのせて回したりして村人の拍手喝采を浴びた。


「鴨方町史・民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

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撮影日・2021.11.26 岡山県浅口郡

 

 

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女衒(ぜげん)

2023年08月30日 | 失われた仕事

”女衒”という言葉を知ったのは、父との会話が初めてだった。

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父の話・2002.9.15

日中戦争・ペーの話(従軍慰安婦)

(朝鮮人慰安婦は「連れていかれた」と言っているが?)

そりゃあ無ぇ。
「連れていかれた」んじゃぁ無ぇ、希望して来とるんじゃ。

金になろう。(村とか家とかに)おったんじゃあなんにもならん。
それじゃけいええかげん(お金が)貯まったら帰りょうた。嫁に行きょうた。
あの時分不景気で金儲けはできなんだ。せいが1時間が300円。
中国人などは50円ど。

村で世話をするモンであんちゃん。
女衒。
女衒が「自分が行けい。」言うても、いう事を聞かんので「日本軍がこう言うて来とる。」「ご苦労せぃ。」と勝手に”日本軍”の名前を使ぅとる。

 

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(島原駅前・2012.5.8)

”女衒”という言葉は、
明治・大正・昭和と日常の暮らしの中に出ていたようだ。

子守唄にさえ登場している。
早く寝ないと、女衒の久助どんが連れに来ますよ。


島原の子守唄
  〽
  おどみゃ島原の おどみゃ島原の
  梨の木育ちよ
  何の梨やら 何の梨やら
  色気ナシばよ しょうかいな
  はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
  鬼の池 久助どんの 連れんこらるばい

 

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「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

 

女衒(ぜげん)


遊廓、女郎屋に売る人買いを女衒と言った。
関西では人博労(ひとばくろう)と言った。
江戸時代は「亡八」とも呼ばれた。儒教の徳目を忘れた意味で、本質を突いている。

女衒は日中戦争、第二次世界大戦の時期は、
兵隊の慰安のために、日本軍の占領地に運んだ。
東南アジアに売られた女性を「からゆきさん」と呼ぶ。
九州の離島の娘には、お店の包装だけで月給千円は貰えると女衒に騙されて、
行った先はサイゴンの女郎屋だったという話もある。

戦後も東北の山中で15、16歳くらいの娘を売買していた。
現在は地下に潜っており、消滅したとは言い難い。

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(Wikipedia)

女衒(ぜげん)

女性を遊廓など、売春労働に斡旋することを業とした仲介業者である。
歴史は古く、古代からこのような職業が存在していたと考えられている。

人買いが禁止された近世以降は、凶作で生活に窮した貧農の家庭の親権者などから、女性を買い遊廓などに売る、娘身売りの仲介業として生計を立てていた。
人身売買に等しいものであった。
彼らのコミッションは身売り額の10%~20%である。

明治時代から現在
明治時代に人身売買禁止法が制定された後も、貧困家庭では女衒により女子の人身売買が続行され、娼婦として売り飛ばされていった。
大正、昭和戦前期では、日本領だった朝鮮や台湾出身の女性を、女衒の仲介を経て慰安婦にしたり、遊廓に売ったりした。

1950年、18歳未満の未成年者を前借金で拘束、事実上の人身売買を行い検挙された仲介者は377人(男性256人、女性121人)。
昭和34年(1959年)に政府が売春防止法を施行して公娼制度を廃止すると、それと同時に女衒も自然消滅した。

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