日本軍はレイテ戦で敗れ、マッカーサーはフィリピンに上陸した。
昭和19年から、日本の戦争は転げ落ちるように負け戦をつづけていた。
しかし、そもそも、開戦以前からそれは日本の指導層が認識していたことだった。
昭和20年2月、指導層で初めて近衛公が”敗戦”という言葉を使った。
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「日本の歴史14」 研秀出版 1973年発行
日本本土空襲
米国はB29をつくりだしとともに、昭和19年春から夏にかけて
中国四川省成都などに基地を設け、
満州・北九州・台湾の製鋼工場を爆撃。
昭和19年11月にはマリアナ基地から日本本土空襲を始めた。
11月24日から昭和20年3月9日まで、高度1万メートルから、
航空機工場を狙った。
精度は悪く,効果は少なかった。
昭和20年3月10日以降、
夜間の都市爆撃に切りかえ、低空(6.000m~8.000m)から焼夷弾攻撃をした。
とくに最初の東京下町爆撃では、
130機が2時間半で東京を4割を焼き、死者8万、負傷者10万、罹災者100万をだした。
攻撃は四方から包囲し、まず外側に火をつけ住民が逃げられぬようにして、
じゅうたん爆撃をしたもので、みな殺し作戦であった。
日本を焦土にした司令官ルメイには、昭和39年に佐藤首相から勲一等旭日大綬章をおくった。
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「日本海軍の終戦工作」 纐纈厚 中公新書 1996年発行
「サイパン戦以来、海軍当局は連合艦隊はすでに無力化せりといい、
陸軍当局もまた戦局全体が好転の見込み絶対なしと一致せるものの、
只これを公言する勇気なしという現状なり」(近衛日記)
近衛上奏文
天皇は戦局悪化への不安から陸海軍当局者に対し、戦況の詳細に関する下問を行った。
これに対して陸海軍の両統帥部長は悲観的な報告を述べる一方で、
まだ最終的な反撃の余地はある判断を明らかにしていた。
これに加えて木戸自身が、この段階においても陸海軍主戦派の力量を評価していた。
近衛は陸軍主戦派から戦争指導の主導権を完全に奪わないと「国体護持」は到底無理であり、下手をすると国体破壊まで行きつくと考えていた。
昭和20年2月14日、
近衛は天皇に拝謁し以下のような上奏を行った。
それが有名な近衛上奏だ。
敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。
敗戦は我国体の一大瑕瑾(かきん)たるべきも、
米英の世論は今日迄の所、
国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、また将来いかに変化するやは測知し難し)
随って敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存候。
この近衛の上奏を契機に、天皇が梅津ら陸軍主戦派の言い分に全面的な信頼を寄せなくなりつつあったことは確かだった。
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尚、
上奏文の写しを所持していたというだけで、外務省の吉田茂は憲兵に逮捕された。
しかし、そのこと(逮捕された)が戦後勲章となり、総理大臣となり、死は国葬で送られた。孫の一人も総理大臣までなった。
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