戦前・戦中の日本は、報道の自由が権力や法や軍事に圧迫され、
それが戦争の開戦~敗戦の大きな要因になった。
戦後の昭和は、その反省からもマスコミも言論人も矜持をもって出版や報道していたが、
平成ころからの日本は、
政治家の圧力もあり、報道機関が、何かすすんで権力にすりより、
自己と所属先の保身第一の報道が目につくようになった。
その結果、今や日本の「報道の自由度ランキング2022」では
世界71位のありさま、とても先進国とは言えない。
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【ごまかしを監視し、戒め、責任をとる機能がなかった。】
【作家の高見順は当時の日記に書いている。
「沈黙を守っている新聞に対して、言いようのない憤りを覚えた」】
戦争と苦渋の体験した言論の先人に、今の報道人は顔向けできるのだろうか?
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辰濃和男
一ツ橋大学HP「静かな炎・辰濃和男」
「文章のいちばんの条件は、これをこそ書きたい、これをこそ伝えたい
という書き手の心の、静かな炎のようなもの」
辰濃和男の言葉である。
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「天声人語」 辰濃和男 朝日文庫
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1986(昭和61)年 5・1
大本営発表の詐術 8・15
中学生の頃、動員されて軍需工場で働いていた。
太平洋戦争のさなかだ。
級友たちと手書きの同人雑誌をつくったら、
「死」について書くものが多くて、お互い顔を見合わせたことを覚えている。
予科練へ行った仲間もいた。
生き抜きたいとは思うが、数年内には死ぬことになるだろうというさめた気持ちがあって、
いかに立派に死ぬか、といったことを当時の私たちは幼い筆で書いた。
当時、大本営報道部にいた将校が戦後、発表のウソを認めて
「自分の前半生は罪万死に値する」と書いているのを読んだことがある。
発表のごまかしは、すさまじいものだった。
ごまかしの裏側を調べた保阪正康さんは
「こと大本営に関しては、日本の軍事集団が官僚機構としてあきれるほど腐敗していたことをものがたっている」と書いている。
「大本営」とは天皇に直属する最高の統帥部のことで、
戦争遂行の面では政府よりも強力で絶対的な存在だった。
陸軍と海軍が争っても手柄話に尾ひれをつけても、手痛い敗退を隠しても、ごまかしを監視し、戒め、責任をとる機能がなかった。
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1987(昭和62)年 3・11
東京空襲・42年
四十二年前の三月の『朝日新聞』縮小版を読んだ。
書かざる部分のあまりの大きさに、いまさらながら暗い気持ちになった。
一九四五年(昭和二十年)の三月十日、米軍B29による爆撃で東京の下町一帯は火の海になり、約十万の人が死んだ。
無数の遺体が、黒く焼けた木片のように無造作にころがる中を歩いたことが、いまも記憶にある。
あのころ東京にはすでに何回も空襲があり、そのたびに多数の死者があった。
だが、その詳細は新聞にはのっていない。
作家の高見順は当時の日記に書いている。
「東京の悲劇に関して沈黙を守っている新聞に対して、言いようのない憤りを覚えた」と。
当時の新聞は、空襲による被害者の数や焼失戸数を書くな、敵の攻撃効果の判定資料となるものは書くな、被害現場写真は「深刻ニ描写サレテイル」ものはのせるな、
と差し止められていた。
被害地域さえ「都内各所」とぼかされていた。
国家総動員法が言論を規制していた。
加えて、国防保安法、軍機保護法、不穏文書臨時取締法、陸軍省令、海軍省令、外務省令などが十重二十重に新聞、ラジオをしばっていた。
新聞がもし、空襲の悲惨をありのままに伝えていたら、伝えることができる体制があったら、を考えることは国家秘密法に反対する側にとって、貴重な教訓だ。
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