しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

初代「フラガール」

2023年08月07日 | 令和元年~

昭和50年代後半、福島県いわき市に住んでいた。
いわき市には炭鉱のボタ山が残り、鉱山からは温泉が湧いていた。

常磐炭礦は炭鉱から観光へ業態をシフトし、
”常磐ハワイアンセンター”という巨大な温泉観光センターを展開していた。そこの年間会員になっていた。
残業がない日は、帰宅後に長女を連れてハワイアンセンターに行っていた。

いわき市を去って後のこと、ハワイアンセンターは「スパリゾートハワイアンズ」と名称を変えた。
そして『フラガール』という映画にもなった。
映画はハワイアンセンターの踊り子さんの物語で、豊川悦司(トヨエツ)や蒼井優が主演。
その蒼井優が演じたダンサーが亡くなったと、今日の新聞に載っている。

 

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【産経ニュース】


映画「フラガール」のダンサー役のモデルで、初代フラガールの小野恵美子(おの・えみこ)さんが4日午前6時30分、
アルツハイマー型認知症終末期のため福島県いわき市の老人福祉施設で死去した。79歳。
いわき市(旧内郷町)出身。
高校卒業後、常磐音楽舞踊学院に1期生として入学。1966年にオープンした常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)の舞台に立ち、初代リーダーを務めた。
76年、結婚を機に引退した。
その後は同学院や自ら設立したダンス教室で後進の育成に取り組んだ。
2006年公開の映画フラガールで俳優、蒼井優さんが演じたダンサーのモデルとなった。
高校生がフラ日本一を競う「フラガールズ甲子園」を発案した。

 

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「ハワイアンセンター物語」 猪狩勝巳  加納出版 昭和55年発行

舞踊の募集は、
「常磐炭坑の精神が生き、炭鉱人の血を受け継いで、炭鉱の空気の中で育った人。
毎日ズリ山を見ることが出来る場所で踊りの訓練をしてもらう、
炭鉱人の素朴な心を生かしたショーを上演してもらう」

元常磐炭鉱人の娘で、
「どうぞ私の娘を常磐炭坑の新しい仕事に役立たせてください」と父娘同伴で応募してきた。
内郷市で生まれた豊田恵美子さんである。
彼女は磐城女子高校からバレエを続けていた。

恵美子さんは豊かな才能と絶えざる努力で踊りを見事に成長させ、プリマドンナとして名をあげた。
昭和52年、勿来の人と結婚し舞台を去った。
いま美恵子さんは一児の母として幸福な家庭を営むかたわら、いわき市平にバレエ教室を開いて後進の育成に励んでいる。

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いわき市にいる時、好間・内郷の常磐炭坑跡に行ってみた。
内郷の山の、またその奥に、ボタ山が残っていた。
半分崩れた野球場とプールが、その山中にあった。
黒いダイヤの盛隆当時をまざまざと感じた。

 

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農業も統制下へ(軍需農産物の増産)

2023年08月07日 | 昭和16年~19年

家は果物農家だった。
残念ながら父母に、戦時中の果物の作付制限のことを聞いていない。
父母は、その事を自らも話をしなかった。

たぶん、
父は断続的に兵役に就き、
母は農婦・主婦・母・家政婦および雑役婦で身体も気力も余力が無く、
毎日のことで精いっぱいだったので、
果物の作付・・・この場合、老木の植え替え・・・まで、事実上手が回らなかったと思える。
おそらく、桃や梨を植えるのは茂平でも、どこでも日本全国制限があった。






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「新修倉敷市史6」

農業も厳しい統制下へ

昭和16年4月、農産物作付制限規則を公布
果物・桑・茶・庭木など新植を抑え、翌年からは
スイカ・レンコン・ハッカ・除虫菊・ホオズキなどの作付けも制限した。
昭和18年秋、いっそう強められ、農家は米麦中心の農業しかできなくなったのである。
農作業の仕方も統制された。
共同で田畑の管理・田植え・除草・収穫など決め、人を雇ったり雇われたりして農業することを制限した。
一方で農家は米麦や芋類の食糧はもちろん、軍用の梅漬けや馬の飼料まで供出の増加を求められた。
農科は深刻な肥料不足にも対処しなければならなかった。
玉島町では学童を動員して家庭の灰を集め、市街地のゴミや人糞尿、蚕の糞から川底の泥まで肥料にしている。


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「真備町史」  真備町史編纂委員会  昭和54年発行

農地作付統制規則

昭和12年7月より支那事変、このため県下の農業も戦時体制への転換となる。
この時の農業で最も重視されたのは食糧の増産と管理であった。
供出と配給は米に始まり、次第に麦、いも、雑穀類まで適用され、
次第にすべての副食物、調味料も配給、本県では昭和14年の旱害により節米を奨励し、15年から統制。

食糧統制は昭和17年食糧管理法で供出の事前割当制、部落責任供出制などにより一層強化、
決戦態勢となり昭和16年には農地作付統制規則が制定され、不要の作物の作付は制限または禁止となった。

続いて17年からは桑園、ぶどうを除く果樹園などの整理をし、主要食糧作物に転換せしめ、これがため換金作物を制限された面では農家に不利となる。

肥料の配給は昭和12年より始められ、
肥料を施すのも制限が加えられ、主要食糧の増産の方に肥料をまわすよう指示。
農機具も昭和13年より統制され、18年には農機具生産者の整理統合。
また、昭和13年には農地委員会が設けられ、小作料の軽減を企てた。
更に小作人から高く米を買い上げ、地主米の価は安くし小作料の金納も認めた。
これにより地主は農地改革を待たずして大きな打撃を受けるに至る。

主要食糧作物のうち麦類,いも類は作付面積が多くなり、特に昭和15年には小麦の作付け面積は史上最高となった。
水稲は14年、15年と不作、昭和20年には特に不作。
しかし農家の経済面は良くなって戦後に続いた。


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「岡山市百年史」

戦時体制下の農漁村

一般農産物のほかに軍需農産物の増産がはかられた。
当時、軍需農産物といわれたものは、
大麦・乾燥稲わら・梅干・ウサギ毛皮・ウサギ肉・牛馬・むしろ類・真綿類・綿花・サツマ芋などであった。
昭和15年10月に、中央で大政翼賛会が発足し、いわゆる新体制運動がはじまった。
昭和16年10月には、農民は
スイカ・メロン・花卉・イチゴの作付けを禁止され、
蘭・白ウリ・レンコン・除虫菊などは大幅に制限されることとなった。


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復刻版「岡山県農地改革誌」  船橋治 不二出版  199年発行


臨時農地等管理令の制定

大陸の彼方に限りなく拡大された支那事変は軍需生産増強の要請を絶対なならしめ、
そのため農地が軍需関係用地に転用されるものが増加した。
更に農村においては、労働力が不足し農地の完全利用がなされず休空閑地さえ散在する状況を示し、
しかも極端な労働減は遂に安易な作物へ作付け転換をなすものすら漸増せしめる結果となった。
このような情勢から農地の保全と食糧増産の目的を完遂するために農地の潰廃を統制し、農作物の作付けを制限すると共にその調整を図ることにした。

1・農地潰廃の制限
農地を耕作している者は、農地以外に供すときは、50坪を超えるときは原則として知事の許可を要する。

2・耕作の強制
知事は休空閑地に対し、耕作するよう勧告することができる。
しかし本県においてはこの規制によって知事が作付けの強制命令を発したことはない。
3・耕作の調整
不急不要な作物も作付けされているので、国家の要請に合致した重点的な作物の作付けがなされるよう作付けの調整を行うこととされたのである。
(イ)
作付けの制限又は禁止
農林大臣又は知事は必要と認めたときは、その農地の所有者、耕作者に対して一般的に農作物の種類、作付け期間等を指定して作付けの制限又は禁止することができる。
(ロ)
作付けの命令
知事が必要と認めたときは特定の農地の管理者に対し農作物の種類、その他の事項を指定してその作付けを命ずることができる。
かくして不急不要の農産物を制限、又は禁止して緊急な農作物の増産を図ると共に農地の利用を完璧を期したのである。

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農地作付制限の実施


第一次統制
昭和16年4月17日公布実施して統制すべき作物を第一種、第二種に区分しその作付に制限を加えた。

第一種制限作物
農地全般
果樹、桑樹、茶樹、庭木、柳、桐、マオラン、竹。

第二種制限作物


西瓜、甜瓜(メロンまたはマクワウリ)、越瓜、蓮根、薄荷、除虫菊、花卉、藺草、苺、綿、苗木、(・・・ほかにもあり、漢字が読めず未記・管理人)

西瓜、甜瓜、花卉、苺。

統制方針
(イ)
第一種制限作物
昭和16年4月17日以後、新に栽植することを禁止した。
(ロ)
第二種制限作物
作付せんとするときは知事の許可を受けねばならぬ、
但し自家用は除く。
(ハ)
昭和17年、第二種は許可に加え田の制限率を定めた。
(ニ)
藺草
ほかのものと切離して別途これを統制した。
農家経済の急激なる変動打撃を緩和する意図も含み、許可面積を定めた。

・・・

第二次統制

昭和16年10月16日、農林大臣の指定する作物をその制限を超えての作付を禁止し、
必要に応じ食糧農産物に作付転換せしむことが規定された。

食糧農産物
稲、麦、甘藷、馬鈴薯、大豆。
制限農産物
桑、茶、薄荷、果樹、花卉。


・・・・

第三次統制

第二種制限作物の第三次統制告示

太平洋戦争ますます苛烈を極め時局が深刻化するとともに農村労力の極端なる不足を見るに至り、
更に農具、肥料等の生産資材の欠乏甚だしいものがあって、農業生産力は必然的に減産し国民食糧は極めて緊迫を告げるにいたった。

この改正に於いては田に対する作付は全面的にこれを禁止する方針をとったが、藺については軍需も相当あったので昭和18年作付面積を確保する方針で統制し、
除虫菊は南方戦場に於ける特殊作物であったので作付を認めた。

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第四次統制
不要不急作物の作付制限を一層強化し、必需農産物の作付面積を確保する趣旨により、昭和19年8月1日省令を改正。



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朝鮮産の米

2023年08月07日 | 昭和16年~19年

朝鮮半島から、日本の都合だけで、米を移入したり、止めたりした。
計画性のなさに、半島の農民は一層疲労していった。

 



「革新と戦争の時代」  井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行 

朝鮮産の米

米騒動後、米を増産
日本は米騒動後の1920年代に朝鮮で産米増殖計画により米の増産を強行し、
朝鮮産米の相当な部分を日本に移入して内地の食糧を補っていた。

その朝鮮産の米が昭和恐慌の際、本土農家を圧迫した
昭和恐慌の際には、この移入米が逆に内地農業を圧迫して農業恐慌を深刻化させたために、産米増殖計画を中止する措置がとられていたが
戦時にはいり、昭和14年(1939)の大旱害以降ふたたび食糧不足が激化すると、

雑穀をあてがう
朝鮮住民には麦や高粱など雑穀をあてがい、米の消費を禁止同然にして強制供出させ、内地に米を移入しようとした。
しかし、米の対日移出量はかつての900万石から激減し、その後もうち続く不作のため平年度でも500万石に低下していた。
さらに昭和17年の大旱害により18年度の対日移出はほとんど皆無になった。
また、綿花や麻の作付けや養蚕奨励により、日本本国で不足する繊維原料の朝鮮からの取得が試みられた。

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・・・

 

「食の歴史と日本人」  川島博之  東洋経済新報社  2010年発行

朝鮮を不幸にした日本のコメ輸入

徳富蘇峰は、台湾からの砂糖また朝鮮からのコメが日本の生存に欠かせない記述がある。
1935年(昭和10年)頃には朝鮮・台湾で作られたコメの約半分が日本へ運ばれていた。
朝鮮国内への供給量が減少している。
一方、台湾国内への供給量は日本への輸出にもかかわらず、それほど減少していない。これは、台湾南部の水田開発に力をいれたので、1920年頃から生産量が増加したからである。
増加分を日本に運ぶことができた。

それに対して、朝鮮の稲作の歴史は長く、既に全土にわたって開墾が行われていたために新たな水田を作ることができなかった。
それ故、日本への輸出が増えると、朝鮮国内への供給量が減ってしまった。
東畑精一氏は、戦後、この時期の朝鮮では「飢餓輸出」(国内に飢餓が生じるような状況になっても、無理に輸出が行われること)が行われていたと述べている。

朝鮮では1918年から1933年にかけて、コメだけでなく全供給熱量も減少している。
これは、現在のアフリカの最貧国水準を下回るから、
1933年頃の朝鮮の人々は難民キャンプ並みの生活を強いられたことになる。
食料供給をみても、日本の統治は朝鮮の人々を不幸にしたとしてよい。

日本は朝鮮を植民地にした際、関税を撤廃した。
その結果、高く売ることができる日本に運ばれた。
高い値段で買い取ってくれる日本の仲買業者にコメを売り、
その代金で中国や満州から粟などの雑穀を買ったとされる。
警察力や軍事力を背景に強制的に朝鮮からコメを収奪したわけではない。
ただ、朝鮮に関税自主権があれば、このような事態は発生しなかったと考えられる。

一方、朝鮮のコメが大量に輸入されたことは、日本国内にも複雑な影響を及ぼした。
品質は劣るが安価な朝鮮のコメはよく売れたそうである。
その結果、
国内産のコメの価格も下落することになり、戦前における農村の窮乏化に一層の拍車をかけた。
当時、国民の約半数は農業に従事していたが、コメの下落は農村の窮乏化に直結し、社会不安につながった。
大規模なものが2.26事件である。
朝鮮半島からのコメ輸入は日本農村の疲弊を通じ、戦前の日本政治をも狂わすことになった。

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「この非国民め!」

2023年08月07日 | 昭和20年(終戦まで)




「この非国民め!」

戦時中、京都女子大の国文科の二年生の学生だった時、
学徒動員が下り、私たち女学生は軍需工場へ動員されました。
そこで毎日やらされたのは、弾磨きです。
私は毎日長時間作業による過労と、粗食で体調を崩し、
ある日の午後、工場内の蚕棚のようなベッドに休んでいました。
少し気分が落ち着いてきたので、持参していたバルザックの『谷間の百合』の文庫本をつい手に取った時です。
そこに当直将校が見廻りにやってきました。
バタンと大きな音がしたかと思うと、将校の怒号が響きました。
「起きろ!
貴様、仮病を使って何を読んでいるのか!なにい、『谷間の百合』?
こんな敵国の本を読んでいるのか!
この非国民め!」
平手打ちを食わせました。

好きだった学業を中断され、疲労して病に倒れ、せめてもの慰めにと手にした小説すら没収されてしまった。
いちばん学びたかった、本を読みたかった時に、その自由はなく、
私は人を殺す弾を磨いていたのです。
それが私の学生時代でした。

それでも、私などはまだしもでした。
同じように動員された友人は爆撃で命を落としました。
そして男子学生は、やがて特攻隊として雲の向こうに死んでいきました。

学業は何も修めずとも、自動的に卒業免状が付与され伝で毎日新聞に入社。
ここで学芸部の副部長であった井上靖さんに出会いました。
やがて井上さんは作家デビューされ、毎日新聞社を退社される際に、
「君も小説を書いてみては」と言って下さいました。
私は昭和33年に退社し、職業作家の道を歩めました。


「作家の使命・私の戦後」 山崎豊子 新潮社 2009年発行 


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